TOYOTA SPORTS 800
英国を魅了した日本のライトウエイトスポーツカー、ヨタハチ
スポーツカーはおろか、自動車でさえ高嶺の花だったという60年代。
可愛らしい表情と引き締まった小さなボディで我々を魅了した一台のスポーツカーがあった。
トヨタにとって初のスポーツカー、トヨタ・スポーツ800、通称“ヨタハチ”である。
あの時代、突如として姿を表し、レースシーンで勝ちまくり、
パッと花が散るように潔く去っていった一台。このヨタハチにあらためて会いたいと思った。
今回、2005年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードを走った
ヨタハチ・レーシングおよび、1965年当時のヨタハチを追いかけた。
ライトウエイトの祖型
バタバタと軽快な音を残しながら、東京・世田谷の街をすべるように走るその姿に、40年以上のブランクは感じられなかった。いま見れば軽自動車よりわずかに長い程度の小さくまるいボディは、21世紀の街並みに、すっかり溶け込んでいたのである。
4気筒/4キャブ/ツインカムの高性能パワーユニットをユニットを搭載したホンダS600(エスロク)に対し、パタパタという気の抜けた音を響かせながら走る姿が“ヨタハチ”という愛称を呼び起こしたトヨタ・スポーツ800。この小型スポーツカーは、日本が高度成長期を迎えた1965年3月に日本を走り出し、ライバルとして捉えられるホンダのSシリーズとともに、ジャパンメイド・ライトウエイト・スポーツカーの元祖といわれている。
1965年は、前年の東京オリンピックの開会に合わせてホテルニューオータニが開業し、東海道新幹線、首都高速道路の開通。また、東京西武の真ん中を突っ切る国道246(青山通り)が片側4車線に拡張され、各地に新興住宅地と鉄筋コンクリートの団地が出現。銀座にみゆき族が誕生するなど、東京は戦後の終わりを実感し新しい時代へと展開した時期であった。当時の東京オリンピックと連動した“清潔”な街づくりへの集中力は、政策だけではなく、国民的な悲願と言っても過言ではない状況であった。いろいろと物議を醸した2008年の北京オリンピック以上に全国民が一体となって意識し動いたのである。
たとえば、その筋の面々が自発的に東京から姿を消し、傷痍軍人は軍服を脱ぎ、街からネズミを駆逐するための薬が配られたのであった。しかし、国民的なひろがりといっても、主に東京中央から西南部の一部であり、地方、特に農村には戦後もなく、戦前と変わらない貧困にあえいでいた。そうした地方と対極に東京や地方大都市では、洋風の夢が沸き上がっていた。地方農村口減らしと都市の労働力確保のために、農村の長男以外は“金の卵”と呼ばれ都市へ集中した。その若者たちが、みゆき族とは違った新たな大衆的若者文化の原動力となっていき、白人と肩を並べようと気張る者たちが東京や一部の大都市に出現した時代であった。この時、いわゆる第一次モータリゼーションが、時代の息吹を原動力とするように始まったのだ。
トヨタがこの動きを捉え、プレゼンテーションしたのがヨタハチであった。モータリゼーションの盛り上がりを受けて、また、そのトリガーとして、60年代後半のモータースポーツは、国民的な関心の的であったといっても過言ではない。ここに、ヨタハチが誕生したのである。大衆自動車メーカーのトヨタが動いたと言うことに意味があるとともに、時代そのものが将来への大きな可能性を感じることができたのであろう。
デビュー戦となった1965年7月の全日本自動車クラブ選手権レース(CCCレース)は、浮谷東次郎氏の駆るヨタハチが、ホンダS600を駆る生沢徹氏を大逆転したことから、日本のモータースポーツを語る際に欠かせない物語を書き上げたものとなっている。この大逆転優勝によって、その後のモータースポーツシーンを飾る一台となっていったのである。ちなみに、エスロクの東京地区価格56.3万円に対し、ヨタハチは59.2万円と、価格的にもライバルであった。
今回、40年以上現役で走り続けているという赤いヨタハチと、イギリスで開催されているヒストリック・モータースポーツ・イベント『グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード』に参加したヨタハチ・レーシングに会った。これは、1967年富士24時間レースで総合3位に輝いた車両を、現在のトヨタワークスが精魂こめて忠実に再現した個体である。
古きを知る人は郷愁にかられ、若い世代は新鮮さをおぼえるというトヨタ・スポーツ800に、いま改めて迫ってみたい。
ベースとなった航空技術
ヨタハチの開発がスタートしたのは、1962年だといわれている。第1回日本グランプリの前年、来るべき高速道路時代に踏まえ『(時速)100マイルスポーツカーを大衆の手に』というコンセプトのもとに、ヨタハチの開発が始まり、その年のモーターショーにパブリカ・スポーツと仮称して出展された。これによって分かるように、ヨタハチはパブリカのエンジンとシャシーを流用するかたちで設計されたのである。開発をおこなったのは、トヨタの系企業である関東自動車工業。開発主査はパブリカや初代カローラの開発を担った長谷川龍雄氏であった。
彼は1939年に東京帝国大学航空学科を卒業後、立川飛行機に入社。以後、対B-29の迎撃機として生まれたキ94の設計主務を務めている。キ94の主翼は彼のイニシャルを取って『TH翼』とも呼ばれるほど、航空機エンジニアとして花を咲かせた男だ。終戦の8月15日まで立川飛行機のチーフデザイナーとしてキ94の試運転に没頭している。その彼の経緯、興味対象からすると、ヨタハチの流麗なボディは、航空力学が存分に取り入れられたと推測できる。
そんな彼の開発能力と、関東自動車工業の回流水槽による研究の結果、徹底してまるみを帯びた全長3585×全幅1465×全高1175mmの2シータークーペが生まれたのであった。1962年のモーターショーの時は航空機ゆずりの斬新なスライディングルーフが採用されていたが、第2次試作車はスライディングルーフを廃止し、ドアを付けて、ルーフのみ脱着可能なタイプに改められている。これは利便性および安全性への配慮であることが表面上の理由だったが、じつはこのときからレース関係の規定を見据えた開発がおこなわれていたとも考えられる。
ボディの注目すべき点は、航空技術ゆずりのデザインだけではない。フード、ルーフ、トランクリッド、シートパン、バンパーなどに惜しげもなくアルミ合金が使われ、パブリカセダンよりも軽い580kgの車両重量を実現していた。その結果、燃費は31km/ℓという好成績を残した。開発主査の長谷川龍雄氏は「レースに出場するよりもエコノミーランに出場した方がはるかに優勝の可能性がある」と語ったほどである。
ちなみにこのルーフ構造は、ポルシェのタルガトップに酷似しているが、もちろん当時タルガはおろか911さえも存在しない。じつはタルガトップの構造はポルシェよりトヨタが先だったのである。
パワーユニット&足まわり
パワーユニットは、パブリカ用U型の流用にとってまかなわれた。しかし697ccの空冷水平対向2気筒OHVユニットは、100マイル以上の連続走行を実現するためには、いかに航空力学を駆使しようとも非力すぎた。そのため、約100ccの排気量拡大とツインキャブレターの装着によるチューニングが施された。
こうして、ボア×ストロークが83.0×73.0mmというショートストロークタイプのエンジンが完成し、排気量は790ccとなった。キャブレターは、ダウンドラフト・シングルバレル・キャブが2連装された。この2U型ユニットは最高出力45ps/5400rpm、最大トルク6.8kg-m/3800rpmを発生させ、最高速度は155km/hに、0→400m加速は18.4秒を達成した。もちろん、これには空気抵抗係数0.35という、当時としてはトップクラスのエアロダイナミクス性能が大いに役立ったのだろう。なぜなら、同時代のホンダS600は、ヨタハチに比べて排気量が小さいにも関わらず最高出力57psを実現していたが、最高速度は5km/hしか違わなかった。空力とS600よりも100kg以上軽いことが効いたのであろう。
サスペンションは、フロントを縦置きトーションバー式ダブルウィッシュボーン、リアをリーフリジッドとした。ブレーキは前後ともドラム。これらもパブリカから流用された。
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