「推し」という表現が苦手な自分を分析してみる(2022/07/01金)
7月。ついに7月がやって来た。
今年は気候がぶっ壊れているのでそんな感じはしないけど、私の中のイメージでは「6月は梅雨、7月から夏」だ。カレンダーの数字が「7」に変わった以上、もはや逃げ場は無い。夏と和解せよ。
できるわけないだろ。暑すぎる。
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「推し」という表現がすっかり定着した。
「推し」は、もともとはアイドルブームを発端として使われ始めた言葉なんだそうだ。モー娘。のファンがごく一部で使っていた言葉が、AKB48の全国的な流行をきっかけに広まったんだとか。
少し前だったら「私は○○さんのファンなんです」と表現していたところが、今では軒並み「私の推しは〇〇さんです」「私は〇〇推しです」と表現するようになっているらしい。
単純な言葉の意味としては、ファン活動的な文脈での「好きな人」「好くこと」ということだとは理解しているものの、私にはこの「推し」という概念がよくわかっていない。なんなら「推し」という表現はちょっと苦手だ。
なぜ苦手なんだろうか。
いわゆる「若者言葉」がそもそも苦手だというのも理由としてはあり得るが、「ヤバい」とか「マジ」みたいなそれほど違和感無く使っている若者言葉も確かにあるんだよな…。(一応「マジ」や「ヤバい」に関しては江戸時代から使われている由緒ある言葉だとも言われているけど。)
私が「推し」という言葉に違和感を覚える理由に関して、ひとつ考えが浮かんだ。それは、「ファン」という表現と「推し」という表現の間で、所有の格助詞「の」の働きが逆転しているからというものだ。
「私は〇〇さんのファンです。」という文章は、「○○さん」が「私=ファン」を所有するという構造になっている。
一方で、「○○さんは私の推しです。」という文章は、「私」が「○○さん=推し」を所有するという構造になっている。
「応援する側」が「応援される側」を所有するような表現になっているのを見て、私の無意識が「そんなのおこがましくない?」と感じているのかもしれない。あるいは、「応援される側」に勝手に「推し」というラベルを貼っていること自体におこがましさを感じてしまっているのかも。
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…あ、もちろんわかってますよ。
「推し」を使っている人たちには、所有しようだとかラベリングしようだとかそんなつもりは毛頭ないんだと思います。ありもしない言外の意図を私が勝手に読み取って独り相撲しているだけ。
この記事を見て何か思うことがあっても、どうか「世迷い言垂れてら。」と見逃してくだされば幸いです。別に「推し」という言葉を使う人々に対してヘイトスピーチをしたいわけではないので…。
終わり
(この文章がそれほど沢山の人の目につくことは無いとは思いますが、万一この文章を目にした方が「いわれのない言いがかりによって傷つけられた」と感じたならば、心よりお詫び申し上げます。)
美味しいご飯を食べてあったかいお風呂に入ってぐっすり寝ろ