私の落選作品 その4(2000年 新潮新人賞 応募作品 『那智の瀧』)4
3.
宿坊に戻ると、路地で主人が庭の手入れをしていた。数匹の猫の出迎えとともに、玄関に招じ入れられる。縁側を通り、薄い壁で仕切られた八畳ほどの部屋へ案内された。旅の荷を解き、座してくつろぐ。「風呂が空いていますから」との知らせを受け、後から到着する人とかち合わないように慮り、いただくことにした。
やがて夕食の用意が整い、広間の食堂へと招請された。畳敷きのやや暗い飾り気のない部屋の一隅に、膳は据えられていた。私のほかに、二人連れのやや高齢の女性客が二組と、私より少し若年と見受けられる外国人の男女、合わせて七名が今日の宿泊客のすべてのようだった。三人ずつ向かい合って座り、すでに食事をいただいている。その端の余された席に私は会釈して座った。婦人たちはときおり二言三言ことばを交わしていたが、部屋の雰囲気に馴染んだ落ち着いて静かな夕餉だった。
私のとなりは異国の紳士で、奥さんとおぼしき人と向かい合い、ふたりとも端然と正座していた。宿の浴衣を着て、黙々と箸で料理を口に運んでいる。私は箸を手にしてから暫くして後、「どちらからいらしたのですか」と、日本語で話しかけた。お国はどちらなのだろうという思いで尋ねたのだが、隣の男性は、紀伊半島の山を越えて此処に至るこれまでの旅路を、およそ理解できる日本語で語った。どうやら約一と月かけて、京都・奈良を経て南を目指し、この熊野まで巡遊しているようだ。よし仕事であるにせよ、一か月も纏まった旅ができるとは いささか羨ましく思われた。アメリカから訪れているらしい。なんらかの分野の研究者であるに相違ないとの印象を受けた。西国巡礼の志により同宿する機縁をいただいたと思われる婦人たちとも、差し障りのない会話を交わした。
ややあって夕餉がおおかた片付くと、給仕のお世話をいただいた頑健そうな男性が、「これからビデオを上映します」と声を掛け、部屋の奥へとセッティングに向かった。少し大型のテレビで上映が始まる。熊野三山の歴史から、熊野那智大社と青岸渡寺の沿革を語り起こし、加えて那智の瀧をはじめとする那智山周辺の風物を、四季折々の映像と自然が奏でる音声で分かりやすく解説してゆく。私たちは黙して画面に見入った。放映もあらかた終盤に近いと思われるほど進行したところで、ここ那智山の麓、那智の浜近くにある補陀落山寺を取り上げる映像が流れた。すると、私の斜向かいの異国の婦人が関心を示し、ビデオのセッティングをした男性に、「この寺はどこにあるのですか」と、たどたどしい日本語で尋ねた。彼は懇切に答えた。あるいは「補陀落」という仏教のことばを知っていて、それに因む名を冠する寺に興味を覚えたのかもしれなかった。
ビデオが終了し、それとともに夕餉も果てたように思われた。私は、海を越えてはるばるこの山中を訪れ、補陀落にも関心を示すこのご両名と、今宵もう少し話がしてみたくなった。もちろん私とて十分な知識を持ち合わせてはいないが、彼らがここまで何を求めて旅をしているのかが知りたかった。厚かましさも忘れて、食後のひと時をともにさせてほしい旨告げた。斜向かいの婦人はやおら浴衣の襟を直し、真向かいに粛然と座す紳士に目配せした。男性から丁重なお断りをいただいた。無礼を申し上げたと思ったが、少し心残りだった。
あまりよく寝付かれないままに、三日目の朝を迎えた。明け方を過ぎても周囲は仄白む程度で、床に居ながらにして外の天候が察せられた。梅雨時の旅行だから致し方がないとはいえ、一日くらいは晴れ間がのぞく日もあるだろうという淡い期待をもって組んだ日程だった。床を上げ洗面を済ませた。玻璃戸越しに外を見遣ると、案の定昨日と変わらぬような曇り空である。とりあえずは、傘を差さずに歩けそうだと安堵した。身なりを整えたほかの宿泊客とともに、広間で贅を削ぎ落したような質素な朝食をいただいた。
部屋に戻り、荷を取りまとめ、今日の予定を確認する。これから再び飛瀧神社へ赴いた後、那智山に別れを告げてバスで下山し、帰路 那智の浜近くの補陀落山寺と浜ノ宮大神社に立ち寄る。そして、紀伊勝浦駅まで引き返した後、再び紀勢本線の特急で名古屋に向かい、東へ帰るというコースである。新宮にも立ち寄らず、ましてや熊野川の上流の山間に位置する本宮にも赴かずに去るのだが、二泊三日の週末旅行をゆったりと過ごすには、この旅程で十分だった。熊野詣というほどのことでもないが、いずれまた熊野のほかの各地を訪れる機会もあろうと判断して、今回の旅は那智山周辺に絞ったのだ。たしかに熊野の地は遠かった。が、なにかしら懐かしい想いを抱かせる不思議な場所である。
宿に暇を乞うて外へ出る。瀧へと向かう道すがら、空から一粒一粒はっきりとした雨がまばらに静かに落ちてきた。私はそのうち止むに違いないと思い、しばらく傘を取り出さずに歩いた。昨日往復した飛瀧神社の参道の石段は、午前中とあってか人の姿は窺えず、閑散とした中をひとり踏み下っていった。
下の広場に辿り着くと、昨夜来宿をともにした かの碧眼の二人がすでにその場に居り、互いに数メートルほどの間隔を保って、それぞれ瀧に真向かい佇んでいた。神妙な後ろ姿だった。婦人は、鳥居へと導く中央の石敷きの道よりやや右手に逸れた前方に立ち、紳士は道の左手後方から瀧と婦人を見守っていた。彼らは私に気づいた。瀧が多弁を排した。私は再び瀧と対面した後、右手前方に居た婦人に声を掛け、後退るように誘導した。紳士は歩をこちらに向け、三人は中央の道よりやや右手後方の一と所に場を占めた。
そこは、竹本忠雄氏の著書『マルローとの対話』(人文書院刊)に掲載された写真において、アンドレ・マルローが立っていた場所である。私は覚束ない英語で語りかけた。
「アンドレ・マルローをご存じですか?」
「作家ですね」と女性は答えた。
「今から二十数年前、彼は私たちが今立っているこの場所に立っていたのです。」
「本当ですか?」
「ええ」と私は答えた。
どうやら彼らは、マルローがこの地を来訪したことを知らなかった様子だった。むろんこの地を訪れた外国人は、マルローのみにとどまるものではない。東洋また日本の奧処を垣間見んとして この瀧を来訪した西洋諸国の人々は、それこそ枚挙に遑がないだろう。彼らもその内の誰かの記録を読んで、今ここに足を踏み入れたに違いない。貴重な体験の障碍にならぬよう、私はその場を去り、昨日立ったお瀧拝所へと向かった。
中空の高みより大挙して身を投ずる水の奔流は、躍り上がるかのごとき瀧しぶきを飛散しつつ、波状的に断崖を駆け下った。瀧壺は凝視を一刻も許すまじと、浄められた憤怒のような霧の粉塵を倦むことなく八方へ放射し続けていた。瀧は昨日を凌ぐ偉容を現出させていた。先の外国からの来訪者は、その後ここに姿を現すことはなく、私は一人お瀧拝所の上層に立ち尽くして、瀧と対峙し、存在を問い、且つ問われていた。
4.(続く)