境界線不要論(数学の勉強は暗記!?学校の宿題は丸写しでいい?映画のネタバレの是非。マルチバースの可能性 この世のあらゆることを横切る境界線とは!?)
学校から出された宿題の数学がわからずにウンウンとうなっているそこの君。
まず答えを見てしまえ!というのが僕の基本的な勉強法だ。これは全科目について持っている僕の方針だ。
中高生の時から数学などは答えを丸写しにすることから始めていた。自分で考える力が養われないという人がいるけど、これはものすごく間違っている。
中高で習う数学がすべての世界ではないので、学校で習うことはパターンとして覚えてしまい、もっと応用的なことに直面したら、その時にじっくり考えるべきです。それすら場合によっては自分で考えることを放棄して、答えを見てもいいと思っている!
要するに「自分の力で考える」という、この境界線をどこに引くかですね。
たとえば幼児に数字を教える時に、幼児はイチから「ゼロ」という概念を生み出したりはしません。そんなことをできたらインド人もビックリだ。そんな天才の話は今はどうでもいい。小さな子供は、
【1】【9】【+】【=】【5】
などのような数字の書かれたカードを与えられて、自分の指と対応させて覚えさせられるでしょう。「親指が数字の1で、人差し指が数字の2だよ。これはまず覚えてね」のように。これは「答え」が先に与えられているようなものじゃないかなあ。
これが高度になって高校レベルの数学になるというだけで、何が違うのだろうか?取り組む方法はまったく変わらないと思っています!
ある程度、レベルが上がると自分の力で考えるべきだと思い込む大人や、学校の先生も多いけど、これは誤解ですね。
中学校の先生は大抵、高校数学はできないし、高校の先生は大学レベルの数学はできない人が多いでしょう。自分の教えている数学さえわかっていればいいので、それよりも上のものがあるということを忘れがちになっているだけです。
要するに、職業として数学をやっている先生は、自分の教えるレベルに境界線を持っているから、学生に自分の力で考えろと言っているのです。
より高いレベルというのはどこまでも、どこまでもあるから、そんなことはいちいち自分の力で考えていたらキリがありません。解法はパターンで覚えてしまうというのも、取り組み方の一つです。
人間の人生は限りがあるので、境界線なんて取っ払ってしまったほうがより高い次元をたくさん体験できるかもしれませんよ。
(ここから脱線しまくる。「境界線不要論」というのを思いついた)
これは映画なんかもそうだなあ。
僕が映画のネタバレにそこまで怒らずに、寛容なのは、こういう所にあるのかも。そりゃあ「ネタバレしないでよ!」と思うことはよくあります。だけど、どうして人はネタバレを嫌がるのかってずっと考えていた。
ある作品を一つの完成された世界観として認識すれば、それがすべて予測可能になってしまった途端に、その世界がワクワクせずにスリルのないつまらないものになってしまう。だから映画のネタバレを嫌がる人がいるのでしょう。
目の前にある映画に「境界線」を引いて、他の作品から切り離しているってことです。
僕は、どっちかというと冷めたところのある人間なので、そこまで作品の世界観に没入できずに、観察の対象として見ています。
だから完成された世界観として認識せずに、この世にたくさんある映画の中の一つという視点が常にあるのですね。
映画というのはこの世に作品がたくさんあって、それらを並べることのできるパラレルなものであり、今見ている映画はその内の一つに過ぎないと考えます。だから、ネタバレして嫌な思いをすることはあるものの、そこまで怒らないし、映画とはスクリーンに投影された現象として認識しているので、対象物と、映画を見る自分という「メタ認知」が常にあります。
僕が多元宇宙(パラレルワールドやマルチバースのこと)のSFが好きだったり、前衛的なメタフィクションが好きなのは、こういう理由だなあ。
「パラレルワールド」とは今いる世界に引かれた境界線をなくして、他の宇宙の可能性と平行にならべることですし、「メタフィクション」とは作品の中に作者が登場して読者に話しかけたり、作品と作者、読者に引かれた境界線をなくすものですよね。この境界線という言葉を使えばものすごく説明しやすいことがわかった。
答えを丸写しにして、先生から怒られた小学生や中高生は、この「境界線不要論」を学校の先生に演説してみてください。たぶんこれからは、堂々と宿題の丸写しができるようになるでしょう。良かったですね。
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