「食欲カウンセリングルーム」第五話|あたたかい桜のまなざし
『食欲カウンセリングルーム』の階段を降りて大通りに出ると、かろうじてまだ明るい。
心を満たして甘いもの依存を卒業するんだと足を踏み出そうとしても、わたしの心は満たされるどころか、不安でいっぱいだった。
栄養も足りていない。
自分を愛せてもいない。
そんなわたしが、本当に甘いもの依存を卒業して『キレイなわたし』になれるのだろうか。
「どうせできっこない。わたしが甘いもの依存を卒業できるわけないんだ」
自分への呪いが、頭の中で渦巻いていた。
「そんなことない! きっと卒業できる。大丈夫」と心の中で唱えてみても、どうにも心もとない。
苦しい。
ひとりだけでは立っていられない。
励ましが欲しい。
山田なんか全然当てにならない。
山田は灯台だ。行き先だけは、照らしてくれる。
でも、そこにたどり着けるかどうかは、わたし自身が船を漕ぐ力にかかっている。
こんなとき、誰かにべったり寄りかかりたくなる。
だけど、それじゃ世界は変わらない。
わたしの世界を変えるために、わたしはわたしの持っているガソリンに火をつけて、自力で出航しなくっちゃ。
手痛い恋をしてから、わたしはそう肝に銘じていた。
なのに、まだ誰かにしがみつこうとしている。
もう一度、挑戦の海に漕ぎ出していきたい。でも、今のわたしにはもうガソリンがない。
どうしたらいい?
わたしには、何がある?
突然、頭の中で山田の声が響いた。
「ハナさんの観察力にブラボーだよォ!」
そうだ。私の強みは観察力だ。
仕事も、人間関係も、すべて観察力を駆使して乗り切ってきた。
美術館を楽しむのだって同じだ。
わたしはずっと観察力を使って、生きる力を得て、人生を楽しんできた。
車通りの多い都会の道路を眺めた。
この大通りをまっすぐ行けば、日本画専門美術館の山種美術館がある。
わたしは、点滅している横断歩道の青信号に向かって走り出した。
「閉館まで三十分程度となりますが、よろしいですか?」
「はい。それで、じゅうぶんです」
山種美術館に着いたわたしは、息を整えながらそう答えた。
チケットを受け取って、展示室に通じる乳白色の大階段を降りる。
大きな扉をくぐる。
わたしの頭の中に浮かぶのは、一つだけ。
作品がひしめく空間を駆け抜ける。
四つ目の角を曲がったところだった。
一本の桜の木を描いた日本画があった。
満開だ。
『醍醐 奥村土牛』と書かれた小さなボードがかかっている。
あらんかぎりの力を出して、咲ききっている桜の姿。
大きく息を吸うたびに、わたしの血管が震える。
桜は斜めになりながら根を張って、穏やかに慈悲をふりまいている。
初めて『醍醐』を見た数年前、わたしはそのしなやかであたたかい桜のまなざしにすべてを許された気がした。
桜は大木だ。
片方の枝は、つっかえ棒に支えられている。
反対側の根は、枝に負けないように地面をつかんで根を浮き上がらせている。
バランスを失いながらも、支えられ、桜は静かに延々とたたずんでいた。
桜は、大地からたくさんのものを吸収して大木になった。
わたしの足元には、何があるだろう。
ゆっくりゆっくり、深呼吸をしながら考える。
故郷からダンボールいっぱいに野菜を送ってくれる父と母。
何でもないことを一緒に笑い合ってくれる親友。
「ハナさんに原稿をお任せできればもう安心ですから」と言ってくれるクライアント。
「これまでこんなにがんばってこれたんだもの」という山田の言葉。
腐りかけていたわたしの気持ちの根が、少しずつ息を吹き返していく。
「わたしだってがんばれば、なんとかなるかもしれない」
そう思って『醍醐』を見上げた。
閉館ギリギリまで作品の前で対話を重ねて、わたしはゆっくり自宅に帰った。
それから数週間経つうちに、わたしの食事記録の内容が少しずつ変わり始めた。
―――朝ごはん。
どうしてもハムエッグが食べたかったのに、冷蔵庫を開けたらベーコンしかなかった。脂が気になるけれど、他の食事であっさりしたものを選べばいいと思って、ベーコンをあつあつの鉄フライパンにジューと入れた。卵を割る音が軽やかで心地いい。
作り置きしておいた野菜たっぷりのミネストローネと、大好きな十五穀米でいただいた。
―――昼ごはん。
気分転換に近くのテラスにお弁当を持っていった。中身はアジの開き、ツルムラサキのおかかあえ、煮物、ごはん。アジの開きをつつきながら、「お弁当としてはちょっとシュールだな」と思ってひとりで笑った。
―――おやつ。
仕事の帰り際に、近くのカフェでミルクたっぷりのホットカフェオレを飲んだ。自分の感情をフル回転させた後だったから、じわぁっとしみた。
―――夕ごはん。
とても疲れていたから、スーパーの総菜コーナーでサラダチキンと野菜サラダを購入。本当は八宝菜が食べたかったのに、売っていなかったので仕方がない。冷凍していたご飯をあっためて、一緒に食べた。
夕食後、おなかいっぱいなのに何か食べたくてキッチンをウロウロ。食べかけのクッキーの袋を見つけて手に取った。「これを食べても、わたしはきっと満足しない」と思いつつもやっぱり食べたい。その場でパリパリ何枚か食べてみた。「やっぱりこれじゃない」と思ったので、お風呂に入ってのんびり本を読んでから寝た。
食事記録を読んでいて気づいたことがある。
スナック菓子を途中で食べるのをやめる行動が以前よりもずっと多くなっている。
これは、甘いもの依存卒業の兆しなんじゃないか?
まったく食べないという状態ではないにしても、前の爆食っぷりから比べると雲泥の差だ。
わたしは、甘いもの依存を卒業したのか? そうなんだろうか?
一刻も早く太鼓判が欲しい。
わたしは食事記録を持って、『食欲カウンセリングルーム』に駆け込んだ。