彼女の料理教室とわたしの施術
友人のお料理教室に久しぶりに参加させてもらった。
https://kurashigoto.wixsite.com/hakkougoto
料理教室に参加して帰宅後、自分のキッチンで教えてもらったことを再現できた時の喜びは本当に大きい。
教室で得た知識や時間の何倍にもなって、幸福感を感じる時だ。
今回は酒粕ペーストというものを、帰宅してすぐさま仕込み、買っておいたシャケに漬け込んで明日のお弁当の具材にしようという魂胆。
ふっふ、幸せ!わたしだって、やるときはやるんだ!という喜び。
そこで、気がついた。
それは「余白」の大切さ。
お金を払った対価としてサービスを受け取るわけだけれど、そのあとの「余白」部分で感じるものが、実は対価として大きいのかもしれない。
料理教室であれば、教えてもらったレシピを再現して、また時を経て、美味しいものにありつける。
たとえ先生がいなくたって、一緒に参加したイケてる女子たちの楽しげな会話がなくたって、たった一人でできることが増えた喜びこそ、「余白」での達成感だ。後から、じわりじわりと喜びが押し寄せる。
ふと、わたしの施術にも、それと同じことが起こっていると思った。いや、目指している、と言っても良いかもしれない。
それは
当然ながら施術は一生けんめいさせていただく。わたしができる限りの知識を用いて、手技を用いて、可能な限りクライアントさんの身体が楽な方向へ、健やかで美しい方向へ向かうように、施術をする。
でも、本当は、わたしが身体に触れている”間と間” の ”余白” で生まれるクライアントさんの自発的な呼吸が何よりの治癒になる、ということが一番重要なのだ。
何も考えずに、ふーっと、ため息のようにでる自然呼吸のパワフルさ。それが今お伝えしているボディクリーニングで要となる。それは命の脈動であり、陰陽バランスをととのえ、確実に疲れにくい、若々しい、無理をしない自然の身体になる必須のもの。
とにかく呼吸できていない現代人には、あらゆる面で大きな解決策となる。
しかも意識的には出るものではなく、「余白」にこそ生まれる、身体に備わる機能の素晴らしさだ。
ということで、わたしができるとすれば、施術中に触らせてもらうことで、生まれる『きっかけ』づくりである。
欲を言えば、そのきっかけを好機に、自然呼吸が生まれれば良い。
施術が終わり、クライアントさんが日常生活に戻った時に、少しでも自分の身体に向き合い、うまい付き合い方を見つけてもらったら良いな、と切に願っている。
もし「余白」のことを無視して、わたしがセラピストとして、これみよがしに手技を披露し、クライアントさんが喜びそうな手練手管巧みな声がけをしたとする。ひょっとすると、対価としてのサービスは満足されて、後日の身体の痛みも「それは好転反応なので仕方ないですね」なんて、煙に巻くような話術で乗り切れば良いのかもしれない。
でも、それでは意味がないのだ。
この度、わたしの友人の料理教室も同じように思えた。
彼女の人となりを知っているから言えることだが、自分の知識をひけらかさず、いつも謙虚で、その場しのぎの営業トークを決してしない。
おそらく、それが生徒さんにとって、必要ないとわかっているからじゃないか?生徒さんが家に帰り、家族のために、自分のために、少しでも身体によくて美味しいものが作れるように、笑顔や幸せが生まれれば良い、と思っているのではないか?そこがブレないから、今のスタイルなんじゃないか?と。
友人の料理教室とわたしの施術の共通項なんて、飛躍しすぎかもしれない。
そもそも商品の質が違いすぎるし、見当違いも甚だしいのかもしれない。
それでも、わたしは昨日の料理教室に、その後の「余白」を見出し、日常に戻っても、自分のものにできた感覚がある。なんて幸せなことだろう。大満足。
酒粕ペーストを使ってこさえた、お弁当のシャケは、当然ながらの絶品だった。Yちゃん。食事が楽しみになる喜びをありがとう。