刃の回転
私のことを最もよく表した文章を載せておこうと思います。いつかこの刃が、再び動き始めますように。
幼い頃から頭の中に原稿用紙がある。話そうと思ったこと、浮かんだ考え、何となく食べたいなと思った物の名前。全てが文字となってマス目を埋め尽くしていくのだ。全てのマス目が埋まって四百文字、するとすぐに巨大な刃が回転して新しい用紙が現れる。
誰しもがこんな風に物を考えていないということを知ったのはそう昔ではないある冬の日だった。書くことも読むことも大好きな私が、ずっと頭の中に閉じ込めて来たこの大きすぎる刃とおよそ一般的なデザインの原稿用紙は、誰の頭の中にも無かったのだ。あんなに気の合うと思っていた友人にも、母にも、そして多分あなたにも。
頭の中で回転するこの刃には見覚えがある。子どもの頃、授業を抜け出して校内を歩き回った時に見つけたペーパーカッターの刃だ。
最近のものであるとストッパーやスライドするつまみ、大きさを測る目安の板などがついているが、その時に見たカッターはただ紙を置く台と巨大な、しかし鈍重そうな金属が付いているのみだった。教員のみが入れる事務室のような場所の一番隅っこに、猫のように、静かにその刃は存在した。見つけてからというもの、通りかかる度にそのカッターを、というよりも刃を見るために小部屋の中を覗いた。二回ほど刃が上がっているままのことがあり、ドキリとしたことがある。カットし間違えたのだろうか、近くに一年生用の算数のプリントが三分の一位の大きさに切られて散らばっていた。「いくつといくつ」の問題のようで、みかんやりんご、うさぎのイラストがばっさりと切り落とされていた。
私にとって算数の時間は教科書やプリントのイラストに色を塗るための時間だったから、一年生のとき「いくつといくつ」を覚えたのはクラスで一番最後だった。なぜ合わせて10になる組み合わせをたくさん考えなくてはならないのか、時計の数字も干支の動物もクレヨンの色も12なのにどうして10なのか、なぜ周りの子が先生にそう質問しないのか、既に学校は分からないことばかりだったのに、何か一つ物事をやろうとすると無限に質問が出てきて中々先に進めなかった。先生はそれがあなたの良い所なのだと教えてくれたけれど、見た目はあまり変わらないはずのクラスの子たちがみんな凄く見えたのだった。色とりどりのビー玉を使い、時には夜遅くまでつきっきりで「いくつといくつ」を教えてくれた母親は、覚え切ったときに担任の先生から貰った賞状のようなものを金色のテープでデコレーションしてリビングに飾ってくれた。
見るだけでは耐えられなくなって、一度放課後になってからそっと小部屋の中に忍び込んだことがある。どうしても刃に触れてみたかった。どんな感触がして、どんな温度なのか知りたかった。今考えてみれば授業中に抜け出した時に触ってみた方が見つかる可能性は少なかったはずなのに、放課後の静まり返った校内の雰囲気は私にいつもより勇気を与えたのだろう。
普段と違い、小部屋の中には西陽が差して暖かかった。壁には何故か不払い残業撲滅のポスターが貼ってあり、ダンボールで手作りされた箱の中にはインクが無くなったであろう丸付けペンやホワイトボードマーカーが乱雑に入れられていた。外からは社会体育の野球部の走り込む声が聞こえていた。当時の私は学童クラブに通っていたが、何となく今日は行くのをやめようと思った。
刃にそっと触れる。見た目よりも厚みがあり、日に当たっていたのか生温かった。本当は紙を切ってみたかったが、止めにした。その代わり、箱の中に捨てられていた赤い丸付けペンを一本持って小部屋を後にした。廊下は静まり返っていて、どこからか冷たい風が吹いてくる。まるで世界の人間が自分一人になったかの様な感覚と、とんでもない大犯罪をやったような気分になって、ドキドキとした。きっとこの日から、私の頭の中にある刃はペーパーカッターの刃に変わってしまったのだろう。何しろあんな魅力的な経験は二度とできないであろうから。記念に持ち帰ったペンはいつの間にか何処かへ行ってしまった。
小学一年生の時から本を読み、文章を書きながら生きてきた。担任が休み時間外に出ないと怒る先生の時は、赤白帽子を持って図書館に向かった。隣の子がなぜ大人しく前を向いて話を聞いていられるのか、全く理解できなかった。それなのに大抵先生は私を褒める。机の上に置いているのは原稿用紙と休み時間に捕まえてきたカタツムリたちだけだったのに。しばらくして学校に家で飼育している虫などを持ってきていいことになって、早速飼っていた3匹のカタツムリたちを連れて行った。それからは忘れ物をして床に正座している時も、泣きながらリコーダーの居残り特訓を受けているときも、本当の私はカタツムリと遊んでいて、机に向かっているのは偽物の私になった。刃はいつもよりゆっくりと回っていく。
高校には殆ど行かなくても、言われるまま文章を書き提出して、気がつけば大学にいた。生きてきた中で、一番楽しいと思える期間だっただろう。刃の回転は火花が散るほど高速で、このままどこかへ刃が飛んでいってしまうのではないかと思ったほどである。
大人になってからというもの、刃の回転は殆ど無くなってしまった。変わりゆく時代と、この刃を手に入れた頃から何も変わらない自分がいる。そしてそれを喜ばしく思う自分と、思い悩む自分が私の中にいるのだ。記念に持ち帰ったペンの代わりに、私は私の一部分を永久にあの小部屋に置いてきてしまったのかもしれない。
けれど刃は歳月に錆びついて、もう二度と何も切れないのである。幼い頃から頭の中に原稿用紙がある。話そうと思ったこと、浮かんだ考え、何となく食べたいなと思った物の名前。全てが文字となってマス目を埋め尽くしていくのだ。全てのマス目が埋まって四百文字、するとすぐに巨大な刃が回転して新しい用紙が現れる。
誰しもがこんな風に物を考えていないということを知ったのはそう昔ではないある冬の日だった。書くことも読むことも大好きな私が、ずっと頭の中に閉じ込めて来たこの大きすぎる刃とおよそ一般的なデザインの原稿用紙は、誰の頭の中にも無かったのだ。あんなに気の合うと思っていた友人にも、母にも、そして多分あなたにも。
頭の中で回転するこの刃には見覚えがある。子どもの頃、授業を抜け出して校内を歩き回った時に見つけたペーパーカッターの刃だ。
最近のものであるとストッパーやスライドするつまみ、大きさを測る目安の板などがついているが、その時に見たカッターはただ紙を置く台と巨大な、しかし鈍重そうな金属が付いているのみだった。教員のみが入れる事務室のような場所の一番隅っこに、猫のように、静かにその刃は存在した。見つけてからというもの、通りかかる度にそのカッターを、というよりも刃を見るために小部屋の中を覗いた。二回ほど刃が上がっているままのことがあり、ドキリとしたことがある。カットし間違えたのだろうか、近くに一年生用の算数のプリントが三分の一位の大きさに切られて散らばっていた。「いくつといくつ」の問題のようで、みかんやりんご、うさぎのイラストがばっさりと切り落とされていた。
私にとって算数の時間は教科書やプリントのイラストに色を塗るための時間だったから、一年生のとき「いくつといくつ」を覚えたのはクラスで一番最後だった。なぜ合わせて10になる組み合わせをたくさん考えなくてはならないのか、時計の数字も干支の動物もクレヨンの色も12なのにどうして10なのか、なぜ周りの子が先生にそう質問しないのか、既に学校は分からないことばかりだったのに、何か一つ物事をやろうとすると無限に質問が出てきて中々先に進めなかった。先生はそれがあなたの良い所なのだと教えてくれたけれど、見た目はあまり変わらないはずのクラスの子たちがみんな凄く見えたのだった。色とりどりのビー玉を使い、時には夜遅くまでつきっきりで「いくつといくつ」を教えてくれた母親は、覚え切ったときに担任の先生から貰った賞状のようなものを金色のテープでデコレーションしてリビングに飾ってくれた。
見るだけでは耐えられなくなって、一度放課後になってからそっと小部屋の中に忍び込んだことがある。どうしても刃に触れてみたかった。どんな感触がして、どんな温度なのか知りたかった。今考えてみれば授業中に抜け出した時に触ってみた方が見つかる可能性は少なかったはずなのに、放課後の静まり返った校内の雰囲気は私にいつもより勇気を与えたのだろう。
普段と違い、小部屋の中には西陽が差して暖かかった。壁には何故か不払い残業撲滅のポスターが貼ってあり、ダンボールで手作りされた箱の中にはインクが無くなったであろう丸付けペンやホワイトボードマーカーが乱雑に入れられていた。外からは社会体育の野球部の走り込む声が聞こえていた。当時の私は学童クラブに通っていたが、何となく今日は行くのをやめようと思った。
刃にそっと触れる。見た目よりも厚みがあり、日に当たっていたのか生温かった。本当は紙を切ってみたかったが、止めにした。その代わり、箱の中に捨てられていた赤い丸付けペンを一本持って小部屋を後にした。廊下は静まり返っていて、どこからか冷たい風が吹いてくる。まるで世界の人間が自分一人になったかの様な感覚と、とんでもない大犯罪をやったような気分になって、ドキドキとした。きっとこの日から、私の頭の中にある刃はペーパーカッターの刃に変わってしまったのだろう。何しろあんな魅力的な経験は二度とできないであろうから。記念に持ち帰ったペンはいつの間にか何処かへ行ってしまった。
小学一年生の時から本を読み、文章を書きながら生きてきた。担任が休み時間外に出ないと怒る先生の時は、赤白帽子を持って図書館に向かった。隣の子がなぜ大人しく前を向いて話を聞いていられるのか、全く理解できなかった。それなのに大抵先生は私を褒める。机の上に置いているのは原稿用紙と休み時間に捕まえてきたカタツムリたちだけだったのに。しばらくして学校に家で飼育している虫などを持ってきていいことになって、早速飼っていた3匹のカタツムリたちを連れて行った。それからは忘れ物をして床に正座している時も、泣きながらリコーダーの居残り特訓を受けているときも、本当の私はカタツムリと遊んでいて、机に向かっているのは偽物の私になった。刃はいつもよりゆっくりと回っていく。
高校には殆ど行かなくても、言われるまま文章を書き提出して、気がつけば大学にいた。生きてきた中で、一番楽しいと思える期間だっただろう。刃の回転は火花が散るほど高速で、このままどこかへ刃が飛んでいってしまうのではないかと思ったほどである。
大人になってからというもの、刃の回転は殆ど無くなってしまった。変わりゆく時代と、この刃を手に入れた頃から何も変わらない自分がいる。そしてそれを喜ばしく思う自分と、思い悩む自分が私の中にいるのだ。記念に持ち帰ったペンの代わりに、私は私の一部分を永久にあの小部屋に置いてきてしまったのかもしれない。
けれど刃は歳月に錆びついて、もう二度と何も切れないのである。