街 その5
遠野は一冊のファイルに目を通していた。
『川南町北威大学戸田教団集団死傷事件』
そう銘打たれたファイルは分厚く、何度も何度も読み込んだのかボロボロになっている。
「遠野主査」
「はいはーい、もうそんな時間かぁ」
遠野はダルそうにファイルを置き、座っていた椅子から立ち上がった。
「じゃ行ってきまーす、あと、よろしくね」
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戸田との交流が途絶えて数ヶ月。遠野は久しぶりに戸田に会いに行こうと思いついた。
4限の講義が終わった後、すっかり秋になっていた学内の空には、薄い月がもうぽっかりと出ている。
戸田はきっとこの間の部屋だろうーーそう考えて遠野は講義室へ向かう。すると講義室の前に坂井がいた。
「坂井君?」
「ああ、遠野さん!良いところに、戸田さんをどうにかしてくれませんか⁉︎」
「どうにかって…戸田がどうかしたの?」
「この部屋に立て篭もって出て来ないんです他のメンバーには皆屋上へ向かうように指示してーー」
「屋上?普段は入れないはずじゃ…」
「それが何が何だか分からなくて…」
「分かった、とりあえず何とかーー」
「遠野?」
講義室の中から声がした。戸田の声だった。
遠野にはそのときの戸田の声が、少しだけ昔の優しい声に戻ったように聞こえた。
遠野は戸田を刺激しないように、
「そう、僕だよ。戸田、久しぶり」
そう声をかけた。すると少し間を置いて、
「…本当に久しぶりだね。おいで、中に入っていいよ」
そう返事があった。
ガチャリ。鍵が開けられる音がした。
遠野が恐る恐る中に入ると、講義室の中は荒れ放題であった。ますます本や論文が増え、中央に座る戸田は痩せこけていた。
「ああ、遠野。もう無理みたいだよ」
「無理って、何が」
「何もかもさ。メンバーは全員覚悟を決めたよ。僕には、僕たちには無理だったんだ。こんなサークルを作ったこと、後悔してるよ」
「こんな、なんて言わないでくれよ。今日までみんなを引っ張ってきた、戸田は立派なリーダーじゃないか」
「…」
「こんな街に生きて、絶望することもあるかもしれない。でもまだ僕たちは若いじゃないか!ここじゃないどこかで、きっと…」
「遠野」
戸田が静かに言った。決して大きな声ではないのに、遠野は黙ってしまう。
「ありがとう、遠野の言うとおりだ。僕は僕たちの姿を、ここじゃないどこか他の街中で見つけたかったよ。でもね、どこに居たって、人の本質は変わらない。だから変わるべきだったのは街なんかじゃない、僕たち自身だったんだ。僕たちならどこでも、」
戸田はぐしゃぐしゃと頭を掻いた。酷く憔悴しきっている。
「でも僕がここで生きてきたことは消えない。今の僕にはそれが耐えられないんだ。なぜかと問われても上手く説明できない。どうして、僕は、どうしたら」
「戸田…違うよ、人の本質が変わらないなら、場所なんてどうでも良いはずだ。君を苦しめる何かがどこかへ行ってしまうまで、やっぱり少し休んだ方が良いよ」
すると戸田は絞り出すように言った。
「…ごめん、そうに違いない、…けれど、けれど僕はもう…」
「とても生きては、いられない」
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以下抜粋 とある調査報告書よりーー
××年 川南町北威大学にて ×月×日
複数学生の飛び降り事件が発生。死傷者多数
関係者多数のこの事件は暫く世間に広く知られるものとなった。
発端となったとあるサークルは「戸田教団」と呼ばれ、(以下そのように呼称する)元々は小規模の同好会からスタートし短い間に急成長を遂げた。活動内容からある種カルト的な一面があったにも関わらず、大学側はこれを黙認し、それに留まらず大学の宣伝として戸田教団を利用した側面がある。
戸田教団の所謂教祖的立ち位置にある戸田涼平(当時二十歳)も、他のメンバーと共に屋上から飛び降り自殺を図り、死亡した。メンバーの中には飛び降りなかった者、重傷を負い障害が残った者、未だ意識不明の者といるが、最期まで戸田を説得しようとしていた人物がいるとされている。初期メンバーであることは確認されているものの、人物については調査中。
メンバーが飛び降りた屋上には、戸田教団のものと見られる旗が突き立ててあったと報告されている。いずれも大学側は再発防止に努めると共に、各サークルおよび部活動の内容や活動報告を定期的に提出するよう義務付けた。(第三者委員会報告)
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遠野は北威大学にやって来ていた。今となっては二度と訪れたくないと思っていた、苦い苦い場所。
そんな場所に自分が第三者委員会の関係者として再び立ち入ることになろうとは、正直思いもよらなかった。
学舎の高い塔を見上げる。あの日、最期に戸田は遠野に旗を手渡した。
「…すまないが、それを折ってくれないか」
「戸田」
「僕が飛び降りた後でいい」
「戸田!」
「じゃあね、遠野。またいつか。できればここじゃない、どこか遠くの街で」
そう言って、戸田は飛び降りた。何の躊躇いもなく、まるでいつもそうしていたかのように。
「…っ、折れるわけ、ないじゃないか…」
鈍い音がした。遠野はただ、黙って旗を突き立てたのだった。風に旗がなびき、月明かりに照らし出される模様がただ美しかった。
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「ふう、それじゃ行きますか」
遠野は一歩踏み出した。大学に入ってすぐの場所にあるイチョウの木を、秋風がぶわりと揺らす。学内に金色の葉が降り注ぐ中、遠野は事務局へと急いだのだった。
終