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1984年16歳の北海道旅行記(6) ~標津線と急行ノサップで行く納沙布岬

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何もない標津線

1984年8月8日 標津線と現在の花咲線に乗ります

根室標津の駅には若者が集まっていた。いずれも観光客で、大学生くらいの女性が多いのが印象的だった。今日乗るのは標津線の別線だ。標津線はイの字型の路線になっており、厚床に向かう線は日本一人口の少ない別海町を通過する。

根室標津駅は立派な駅舎でした。

まず、12時35分発の列車に乗って中標津に向かい、13時05分に到着する。景色は原生林の中に広がる牧場が続いており、ロール状の草が点在していた。日中はあまり寂しさを感じない。

中標津駅での乗り換えの光景。厚床行きは新車でした。

13時22分発の厚床行きに乗り換える。車内は混雑していて、ロングシートに座り、体を曲げて外を眺めていた。景色は雄大だが、特に何か目を引くものはなく、ただただ広大な牧場が広がっている。

空はどこまでも高く澄んでおり、真っ白な雲が浮かんでいた。一度でいいから、あの広大な牧場に寝そべって一日中過ごしたいと思う・・・。眠くなってきた。

すっと牧場

14時08分、別海に着く。トドワラも別海町だったので、昨日からあまり進んでいないことになる。しかし、別海町は島根県と同じくらいの広さを持つという。人口密度は日本最低で、そこを走る標津線は廃線候補である。しかし、今日のこの列車を見る限り、それほど惨めには見えない。

写真の代わりに絵を書いていたが、「とにかくなーんにもない」とコメントがある。写真を節約する為に絵も描いていたが・・・・・小学生でももっと上手いだろう。

ディーゼルカーはニュートラルで走り、坂が来るとエンジンを回す、そんな運転をただ繰り返していた。終点厚床には14時38分に到着。

混雑急行ノサップ3号

厚床から急行「ノサップ3号」に乗り換える。ここも駅しかないような場所だが、ホームは観光客で溢れている。標津線からの乗り換え客と、あやめ園に行った人々が、この何もないホームに集まっている。乗り切れるのか心配になる。普段は3両編成だが、今日は4~6両くらいかもしれない。札幌と直通列車が5両編成で走っていたのも、そう昔の話ではない。

やってきたのは2両編成の古いキハ56だった。デッキまで人で溢れ、ラッシュ時の通勤電車状態。私は扉に押し付けられていた。列車は、やはり何もない所を進むが、天気が悪くなってきた。霧だ。面白くない。

列車は原野の中の小さな駅を通過してゆく。初田牛、別当・・・。乗降客が200名以上ある落石駅も通過。昆布盛、西和田、花咲・・・

連結面の小窓から外を眺めます。

この混雑から早く抜け出したかった。牛がこっちを見ている。カンヅメ状態にされた私たち乗客を見て、バカみたいだと思っているかもしれない。やがて日本最東端の東根室駅を通過する。ここから西に曲がり根室市街地に入る。終点根室、15時30分着。無停車46分の乗車だったが長く感じた・・・。

霧の北方領土(ノサップ岬)

根室。日本最東端の街であり、一応、世に知られている場所なのに、駅のホームは1面だけ。駅舎も田舎くさい。人込みを抜けて、やっと外に出ると、さすがに駅前にはロータリーがあり、タクシーやバスが発着している。今日は「港まつり」で子どもが踊ったり、獅子舞があったり、お神輿が通ったりと賑やかだ。ノサップ岬行きのバスを待つが、意外にも観光客は少ない。バスも観光地に向かうには相応しくない、普通の路線バスタイプだった。

駅前がこんなに賑わっているとは・・・

バスは市街地を抜け、やがて家がポツリポツリと疎らになってくる。車窓に見えるわずかな花を見て、「原生花園よりましだ」と言っている。窓を開けると寒い。菅平※1の雨の日と同じぐらいの寒さだ。

「あーだめか」後ろの客が絶望の声をあげた。私も同じ気持ちになった(北方領土を見たかった)。濃霧に覆われた寒々とした景色に気持ちが沈んでゆく。やがて終点に着くと、何もない場所を想像していたが、家など建物があった。

右翼が街宣車で音量MAXで軍歌を流し、
「ソ連、バカヤロー、なめるなー!!」と怒鳴り散らしている。お土産屋の方も迷惑顔だ。

街宣車が邪魔

少し歩くと望郷の岬公園となっている。四島の架け橋のシンボル像がある。霧の中を赤々と火が燃えている。
「ポー、ポー」と霧笛が泣いている。あまりにも寂しくなり文通友達※2に電話する。昨年の旅行では岩見沢駅でも電話した事がある。ちなみに、電話したのはこれが最後だった。

闇の中を走る急行列車(急行ノサップ4号)

駅に向かうバスを待っていると、「海ゆかば」が流れてくる。軍歌であるが、こんな所で流されると悲しくなる。帰りのバスは空いていた。

キオスクでウーロン茶とカロリーメイトを買って夕食とした。食事は基本的に持参した乾パンだが、さすがに味があるものが欲しかった。

停車駅も少なく、長時間無停車で走りました。時々見かける駅の灯りが情緒的でした。

釧路行き最終列車、19時43分発の急行「ノサップ4号」は空いていた(普通列車の最終は18時22分発)。キハ56の2両編成は灯り一つない闇の中を突っ走る。茶内で下り最終列車とすれ違い、厚岸で近郊型のキハ24を増結。3両編成となって22時11分。釧路駅に到着した。本日の夜行急行「まりも号」札幌行きは、指定席、寝台ともに満員との事である。

釧路駅構内で駅寝※3

駅の降車広場に行く。カニ族が30名ほど寝袋を広げていた。本州なら不良のたまり場になりそうな場所も、北海道なら旅人のたまり場なのだ。男女いるが、高校生ぐらい若く見える女性も2名いた。

寝袋が構内に沢山並びました。
この頃は夜行列車全盛期でした。

まりも5号を見送ると電気が消された。寝袋の中で眠りに引きずりこまれていった。夏の平均気温をはるかに上回っていたので多少、暑苦しくもあった(根室は寒かったけど、釧路は暑かった)が、雨露がしのげて幸せだった。

解説

※1 菅平
菅平高原。ラグビーの夏合宿の聖地。この旅の直前まで、ここで合宿をしていました。雨が降ると、とても寒く。試合に出られず、観戦している控え選手にとって地獄の寒さでした。レギュラーにはわからない辛さです。

※2  文通友達
紀行文を転記していて、この記述があって本当に驚きました。この人は中学時代の憧れの人でした。彼女は勉強ができて、まるで雲の上の存在のような子でした。そんな彼女が壁新聞に「スポーツマンが好き」と書いているのを見たことがありました。認めて貰うには運動部に入るしかない。高校から始められるスポーツはラグビーしかなかった・・・。それがどんなに辛く、悲しく、大変な事だったか・・・。語ると長くなるので、機会があれば別のマガジンで書きます。ちなみに、今回の旅をしている頃は、絶好調だったので、ラグビーが恋人だと思っていた筈です。

※3 駅寝
今回は釧路駅構内でしたが、追い出される事なく、大勢の人が駅寝していました。この頃、国鉄のサービスが悪いとか、色々言われていましたが、昨年も、色々な駅で休ませて頂きました。

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雨男
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