若者のすべて
はじめまして、夏油(仮名)と申します。
今年の夏はいかがでしたでしょうか。ダラダラと長い夏だったなと思う方もいらっしゃるかもしれません。私は受験勉強と模試に追われた夏休みでした。自称進学校(こう言うと関係者は怒りますが)なので諦観しております。というか受験を控える高校生ならどこも似たような夏休みでしょうが。とはいえ、ずっと勉強詰めでは伸びるものも伸びないと感じて夏祭りには繰り出しました。初めて恋人と花火を眺めることができました。感慨深く思います。
ここで本題です。夏の歌と言われてここ数年の私の頭に真っ先に浮かぶのが、フジファブリック「若者のすべて」。
大好きな曲です。高1の時に見つけて以来、脳裏から離れない曲です。
今回は「若者のすべて」の歌詞を僕なりに解釈していきたいと思います。
テレビの天気予報、天気予報士が「真夏のピークは去り、これからは秋らしい気候になっていくでしょう」という感じで言っていたのでしょう。対して主人公はそうは思っていません。ピークが去ってもなお、街は夏のムードのままにわかにそわそわしている気がするのです。
おそらく学校か部活の帰り道で、屋外広報用スピーカーから夕方5時のチャイムが鳴り響きます。5時のチャイムというものは、昼間の終わりを告げ、子どもたちに家路を急ぐよう促し、1日の終わりまでも示唆します。主人公はそれを聴いて1日の終わりを感じ、さらには夏の終わりも近いと感じます。そうすると胸にじーんと来るものがあります。みなさんも感じたことがあると思います。青春の満たされるような満たされないような、それでも楽しかった夏が終わる。その時に浮かぶメランコリックな気持ち。なおさらチャイムが胸に響くのです。
運命という言葉は大変便利な言葉です。そこに論理的説明は必要ありません。というか上手く言語化できないのだと思います。主人公は「運命」で、言語化できない感情を無理矢理誤魔化します。
忘れもしない、それほどまでに主人公の心に花火は深く刺さります。きっと大人になっても思い出してしまうんだろうと。本当は隣で一緒に見たい人がいた、でも隣にはいない。それを「ないかな、ないよな」と自嘲気味に笑う主人公。もし、この花火の下であの人に会えたら思いを伝えられるのだろうか、と思いながらまぶたを閉じて華々しい空を見上げます。
かつて幼い私たちは、自由になりたいものやしたいことを思い描いて、自由に楽しんでいました。しかし歳を重ねるにつれ、社会を知るにつれ、その思い描いていたことか叶わないことも多くなります。それでも心のどこかにはあきらめのつかない自分がいる。そういう意味で「また戻って」なのだと思います。
主人公は帰りを急ぎます。着替えをしたりして出直すために、街灯が1つ、また1つと灯っていくなかを速歩きで。昔の夢が、青春の心の高まりと共にふっと浮かぶ。なんだか、また目指したくなる。
ここでいう「擦りむいたまま」は、夢を諦めきれずに苦しみながらも実現を目指す姿。夢や目標を傷付けられながらも、自己実現のために少しずつ少しずつ歩き始める主人公。その覚悟が伝わります。
花火も終盤。相変わらず自嘲気味に笑う主人公の視界にあの人が入る。いるわけがない、隣に来るはずがないと思っていたのに。1番2番では「どうせ会えない」という諦めの上で、言葉を伝えられるかな、と思っていた主人公ですが、いざ会ってみるとその言葉を伝えることに迷いを覚えます。それは照れ、緊張、怖さがない合わさった迷いなのでしょう。
いよいよ最後の花火が近づく。伝えるか、伝えないか、葛藤しているうちに大きなフィナーレの花火がゆっくり空へ昇っていく。主人公と隣のあの人は花火が終わるまでに変われるのか。ただ、変われなかったとしても最後の花火を、同じ空を一緒に見上げているという今がここにある、そんな青春のラストページを描いてこの曲は終わります。
主人公は結局あの人に思いを伝えられたのでしょうか、それとも、無理だったのでしょうか。そこは私たち聴き手が想像せざるをえません。
私は歌詞や曲調に感動したのはもちろんですが、それ以上に曲名を「若者のすべて」としたところに志村さんのただならぬ才を感じます。内容的には「花火」や「恋愛」等といったワードが曲名に入っていても何ら不思議ではないです。むしろぱっと見の分かりやすさを重視する最近の世の中では、こうした言葉を入れるのが多数派になってもいいほどではないでしょうか。そこを敢えて「若者のすべて」とした。「花火」も「恋愛」も、夕方の哀愁も速歩きも、夏という季節でさえも全てが「若者のすべて」だと志村さんは考えていたのかな、と思います。
ここまで長々と読んで頂きありがとうございました。
またお会いしましょう。勉強頑張ります。