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注意!本記事はいつにも増して観念的で、そのうえ意味もなく長いです!!

 元気は出るまで出すな
元気は出るまで出すな
って自分にお手紙書きました
書きました

倉橋ヨエコ 『春の歌』

【注意】 本記事はいつにも増して観念的で、そのうえダラダラと思考の開陳が続くだけなのに、意味もなく長いです!!

読みやすいnoteを書く元気がなかった自分を、許して!!!!


・ネタ切れです。

・いや本当にネタ切れなんだって、何にもなかったんだもん。前回にnoteを更新してからの2日間、大学休んで面接やって、今日は一日読書と筋トレとTwitterだった。

・日々の気付きはあるけれど、それは真綿で締められるような書きたくならない現実や、腹斜筋が少し浮き出てきて、筋トレの成果がスタイルに現れて少し嬉しかった、みたいな些事。

・………………分かってる、書きたくならない現実を直視して、呻き声を上げながらでも文字に起こしたりする事は、それこそ値打ちのある事だろうし、日々に起こったさりげない変化や気付きを、情緒豊かに綴ったテキストが、時に人の心を潤すことも知ってる。

・けっきょく自分は今、自分から人に働きかけたり、世間と関わっていこう………という気持ちでない、という事なんだな。書くことや書くべきことなんて、感性さえ動員すればいくらでもある、“なかった”のはネタでなくやる気だった。

・気分が沈んでいるという訳ではない、ただ心が内向的になっている。いまは出力より入力をしていたい。noteを書く時間より、本を読む時間の方が満たされている実感がある。

・“書きたくもないものを読まされているのか”と思われるかもしれない、いや違うんだ、ごめん。書きたくはあるんだ、“甘いより塩っぱいの口だな、でもシュークリームは美味しく感じるな”みたいな、そんな感じだから。

・大体、書いてても虚しいだけのものを、義務もないのに数十分もかけて書くわけないだろ、楽しいよ。体力が追いつかないだけで、ボヤきばっか読ませてごめんね。

・与えられたものを愛することと、未だ持ちえないものを希求することについて。


自分は愛することも愛されることも苦手だ。自分は親の愛を受けて育った人間であると理解している。自分のことを好いてくれる友人もいる。しかしそれを素直に享受する事が出来ない。自分は自分を素朴に、あたたかく愛してくれる人間に対して距離を置いてしまう節がある。

・自分に対して明確な好意を向けない人々にすがる。既に受け取っているのに、それから目を背けて、今の自分が持っていないものを希求する。自分が持っているものより、自分に欠けているものに心が惹かれる。既に受けているものを受け入れて、その幸せに満足すれば、自分は救われるのに。 

・突然発作のように、そんな想念が心の中に生まれた。他に書くこともないから、このトピックについて思うがままに書いてみる事にします。

・自らにないものばかりを求め、自らにあるものは蔑ろにする、そんな生き方のままでは、いずれ多くの物を失ってしまう。そんな焦りが最近チリチリと心を焼いているこの頃。

・まいにち自分と他愛もない話をしてくれるネットの人達、実生活で出会えた友人たちや幼馴染、暖かい家族。失いたくない………………が、いつか別れる時が来るのだ。二度と会えなくなる人もいれば、繋がり続けていても先立たれる時が来るかもしれない。自分も永久にこの世にはいられない。離別は避けられないもので。

・自分の手の中に既にあるものは、いずれ失うもので、不可避の哀しみを自分に与えるものだ。だから無意識のうちに、耐えがたい感傷の念が心の内に蓄積し、それが抵抗感に繋がっているのかもしれない。

・それに対して、これから得ていくものは希望になる。愛情は哀しみと表裏一体で、欲望は歓喜の予感を秘めている。自分はきっと哀しみに対する堪え性がないのだ、マグカップが割れただけで、それに付随する思い出がこの世から薄れていしまうような気がして涙が流れる。

・自分が幸せを得るためには、隣人愛とはかけ離せない哀しみに対する忍耐を覚えなければならないのかもしれない。幸せになる為には哀しみを受け入れなければならないなんて、やはり人は苦しむために生まれてきたのかもしれない……とも。

 ・ストア派の哲学者セネカも、「人生の短さについて」という書で、日々を無為に過ごす人々に対し  “彼らは死すべき存在のように恐れ、そのくせ不死なる神のように欲する。”  みたいな事を書いていた(岩波文庫の訳書で読んだんだけど、部屋を十数分ひっくり返しても見当たらなかった)

・強迫的に必要以上のものを求め続ける、そういった情動の根本には、きっと何かを得る、得る夢を見続けている限りは喪失の哀しみから目を背けられるからなのかもしれない。

・ただ、その為に今の自分を形作っているモノを蔑ろにしてはいけないのだ、その先には真の虚しさが口を開けている……………と、近頃はそう感じる。人生の根本にあるやりきれなさを受け入れない人間はきっと、求めていた何かを手にしたとしても、また飢えて堂々巡りの徒労を繰り返すだけだろう。

・何かを追い求めることそれ自体を否定している訳じゃない、願いや希望、夢を失えば……ただ手にしているものを失っていくだけの人生を受け入れるのはあまりにも悲しくてやりきれない、死人になることと同義だ。

・ただ、身の回りにあるもの、自分が既に得ているもの。所有の満足は与えてくれるが、喪失の哀しみを予感させ、会得の歓喜は望めないもの、それを慈しむことも忘れてはいけない、自分はその感傷と鈍麻のバランスを、どちらの方向にも崩しがちなので気をつけたい。

・過去最長の、それも観念的な内容をただただ書き連ねるという日記としては最悪の方向の記事になってしまった。もっと体力があれば、せめてエピソードトークを絡めるだとかして読み物として面白く出来たと思う。

・まとめる元気がないから逆に執筆時間も内容もダラダラと長く……これは反省だ、反省に反省を重ねている。どちらかにまとめる元気もない、でも10回に1回ぐらいはこんな駄noteがあってもいいかもしれない。

・以上が第七回の内容です。読んでくれてありがとうね。次はもっとシャンとしたのを書きます。約束。


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