毒親サバイバル その3
孤独を受け入れなければ大人になれない
毒親サバイバーの苦悩は、愛情飢餓感と孤独感による所が大きいです。でも、学校や会社で出会う普通の人達は毒親問題に詳しくないので、的外れな御高説を垂れたり、余計な真似をして足を引っ張る事しか出来ません。
サバイバー同士であっても、いつの間にか傷を舐め合うような共依存的な関係を結んでしまうので、あまり深く関わらない方が良いでしょう。
愛情飢餓感と寂しさに耐えかねて他人と関われば、他人はあなたの愛情飢餓感と寂しさに付け込んできます。こういった弱味があるうちは、他人と対等かつ親密な関係を築くのは困難だという事を知っておきましょう。
「若いうちからコミュニケーション能力を磨いておかないとヤバい」と心配になるかも知れませんが、コミュ力のベースは自尊心と関心の対象であって、話の面白さや表現力などの話術テクニックではありません。
自分の関心事を胸を張って他人に伝えられるなら、最低限のコミュ力はあると考えて良いですし、後はどういう人と、どういう事を話したいかという事になってきます。
愛情飢餓感と寂しさの問題は、自分自身の最大の関心事に全力で打ち込んでいれば、勝手に解決します。因みに、私の場合はMMORPGとブログの記事書きに打ち込んでいたら、いつの間にか友人や彼女が出来ていました。
コミュ力の高い人達を見る度に不安と劣等感が刺激されるかも知れませんが、彼らを良く観察すると、半ば無理矢理に近い形で気分をアゲて、不安や苦痛を快楽で塗り潰そうとしている事が分かってきます。彼らがシラケる事を異常なまでに嫌うのは、その為です。
誰もが心の底では生まれて来て良かったと思いたいし、どうしてもそう思えないなら死にたくなります。人が快楽や生きる意味を求めるのは、自分の人生を肯定する為の理由が欲しいからです。
でも、本当は誰の人生にも意味は無く、生まれてきた理由もありません。意味だの理由だのは自分の心を安定させる後付けに過ぎないものですし、むしろそんなものは無い方が日々を楽しく生きられます。
しかし、自分の人生が本質的に無意味であり無価値だという事実は、人間のエゴにとっては到底受け入れられるものではありません。何故なら、エゴは自分を特別な存在と認識するように出来ているからです。
逆に、自分は平凡な存在でしかないと認めた場合は、エゴが「オマエなんか要らない」とばかりに、あなたの心を殺しにかかります。これは愛されて育った一般人でも同じであり、例外は存在しません。
毒親サバイバーは悪い環境の所為でエゴが毒化しているケースが多く、キチンとエゴと向き合って解毒しないと誇張抜きで命取りになります。
エゴの正体は欲望そのものであり、自身の世界観そのものですが、あなた(存在)そのものではありません。エゴ(自我)とセルフ(自己)は全く別の存在であり、セルフの本質はエゴの観察者です。
あなたのエゴは、親のエゴのコピーです。愛されて育った人のエゴは健全な自己愛という形で心を支えてくれますが、毒親サバイバーのエゴは毒化して破壊衝動の根源に成り果てています。
こんなものを放置していたら、破滅に向かうのは当然です。そしてそれは「オマエは親より幸福には成れない」という毒親の呪詛が成就する瞬間でもあります。
他人や社会を敵と見做せば、毒親の狙い通りです。盗んだバイクで走り出しても、心の中に居座る毒親からは逃げられません。毒親が一方的に押し付けてきた殺人的な世界観を打破する事が、毒親サバイバーにとっての真の勝利です。
心理学や精神医療の世界では「愛着障害を解消するには、自己肯定感を高めれば良い」という話をしますが、それはエゴの特性を無視した気休めであり、対症療法に過ぎません。
マイナス感情にプラス感情をぶつけても中和はされず、より問題は複雑化します。そもそも子供にとって最も大切な人である生みの親が自分を否定したのに、ちょっとやそっとで自己肯定が出来るようになる訳がありません。
敵は己の内にあり
毒親由来の殺人的な世界観を打破するには、まずその世界観が複数の偏見の組み合わせによって成り立っている事を理解する必要があります。一つの偏見を正す事に成功すれば、連鎖的に他の偏見も正されていきます。
絡まった毛玉を一つ一つ丁寧にほぐしていくように、世界観を構成する偏見を一つ一つ丁寧に正していけば、いつか必ず世界観が崩壊する日が来ます。
しかし、エゴは「自分の世界」が崩壊していく事を断じて受け入れず、自己正当化という手段を駆使して世界の崩壊を食い止めようとします。何故なら、世界の崩壊はエゴの死に他ならないからです。
考えてみれば妙な話ですが、エゴは苦しみしか生まない歪んだ世界に執着し、なりふり構わず必死で守っている事になります。でも、この醜悪さと救いの無さがエゴの特性なのです。
毒親由来の世界観は、エゴの特性と人生経験の積み重ねによって補強されていきます。取り組みが遅れるほど攻略が難しくなり、中には難攻不落の万魔殿のような世界を持つに至る人も居ます。
自分の強さや、勝利、優越感に執着するのもエゴの特性ですが、争いを好む者が行き着く先は地獄だけです。エゴは悪鬼羅刹に成り下がっても生き残ろうとしますが、歪み狂ったエゴには存在する価値がありません。
正常に発達したエゴは健全な自己愛となり、健全な自己愛は他者への愛情のベースになります。自己愛は愛の源泉であり、これ無くして他者を愛する事は出来ません。
愛とは受け入れる事であり、自分や他人をあるがままに受け入れる事が愛の行為です。ただし、受け入れるべきは「あるがまま」の自分や他人であって、歪み狂ったエゴには厳しくNOを突き付けてやらねばなりません。
エゴは必ずしも悪では無く、むしろ大切に育てていくべきものです。しかし、何時の時代も人間社会を牛耳るのは、歪(いびつ)なエゴに狂った悪党と相場が決まっているのが困りものです。
だからこそ、自宅という完全に一人になれる環境で自己の再教育を行わなければならないのですが、その自宅を維持するには、悪党がのさばる人間社会というカオスの中で、否応なしに働き続けなければならないという矛盾があります。
大抵の人は、公と私をスイッチのように切り替えて、自宅に職場の事を持ち込まないようにしますが、逆に自宅で職場のストレス対策を徹底的に練り上げる人も居ます。
どちらのケースでも、エゴが健全に成長すればするほど苦悩が深くなり、やがて「好きな事で稼ぐ」という自己実現の方向に舵を切ります。昔は脱サラ、今は独立起業などと言いますが、これは割と必然的な流れだったりする訳です。
脱サラ、独立起業は簡単な事ではありませんが、取り組む前から諦めてしまったら可能性はゼロのままです。人間関係の苦労が絶えない会社勤めも、起業の為の訓練や資金稼ぎと思えば、いくらかマシに思えるのではないでしょうか。
また、終身雇用制度が崩壊し、副業が当たり前になってきた今、ブログとSNSを始めない手はありません。毒親関連のブログは需要がありますし、自分の考えや気持ちを整理したり、新たな視点を獲得するのにも有効です。
上手く行けば収益化が可能ですし、そうなれば早期リタイアの道も開けます。会社員を続けるにしても、SNSによる広報力とサイト運営の知識はいくらあっても困りませんし、集客やマーケティングの勉強にもなります。
また、ブログを自己と向き合う為のツールとして使う、ブログ内観法というメソッドもあります。このメソッドなら一人で楽しみながら、ゆっくりと自己成長を目指す事が出来ます。
個を生きてこそ
歪んだ世界観の打破と、健全な世界観の再構成に成功した人は、目の前にある細やかな幸福を大切にし始めます。野に咲く花を愛でる事や、一杯の茶に心底からの満足感を味わえるのは、エゴに打ち克った者の特権です。
自分が無い。居場所が無い。愛されたいのに愛されない。生きている意味が分からない。そういう深刻な悩みは、とりあえずほっときましょう。何故ならこれらの悩みは、エゴが脊髄反射的に生み出す迷妄に過ぎないからです。
あなたは元々何者でもないし、居場所も初めから決まっている訳では無いので、自分で探さなければいけません。愛はエゴが生み出す妄想に過ぎませんし、生きている意味が無いという事は、自由に生きて良いという事でもあります。
元々無いものは分かる訳が無いし、知らないものは朗らかに「知らない」と言って良いのです。むしろ、それを頭ごなしに「それじゃダメだ!」とか「バカじゃないのかw」いう人の方がおかしいのです。
世の中の大半を占めるマジョリティ(多数者)は、物事を深く考えなくても生きていけますが、その代わり自己の世界観を打破しようだなんて夢にも思いませんし、自分がエゴに振り回されている事にも気づけません。
人生の最終目標は自分よりも大切なものを見つける事ですが、普通の人がその目標にまで手が届くケースは少ないし、そもそも「自分は人生に何を求めているのか?」と考えたりもしません。
人間も動物なので本能的に群れを作りたがるものですが、群れには個を見失い易くなるというリスクがあります。でも、個を喪失した人間は動物以下の迷惑極まりない存在であり、ハッキリ言って地球のお荷物です。
現状、殆どの人間がエゴに打ち負かされた挙句、個まで喪失してしまっているからこそ、この地球という星は地獄や魔界としか言いようが無い環境になり果てているのです。
毒親という大きな不幸を背負ったマイノリティ(少数者)には、大きな試練が訪れます。しかし、その試練を乗り越えれば本当の幸福とは何かを理解し、日常生活に心底からの満足を覚えるようになれます。
そうなれば、あなたは毒親との悪因縁に感謝するでしょう。実際、私は両親に感謝していますし、既に母親とは和解を済ませています。父親とは距離を取るしかありませんでしたが、もう恨んではいません。
子供のままで愛されたいという無理な願いを抱き続けるより、心正しく生きる為に苦闘する人の方が美しいですし、その苦闘はこの世の全てに「ありがとう」と感謝し、全ての毒親サバイバー達に「おめでとう」と言う為のものです。
例え苦闘に敗れ去ったとしても、命懸けで理不尽な運命や、悪魔の如き己のエゴに抗ったという事実は変わりません。それは褒め称えられて然るべき事柄ですし、必ず次に繋がります。