一日中論文の修正
今日は一日中学会に提出する論文の修正をしてました。12月ごろから本業の仕事の方が猛烈に忙しくなり、ここのところほとんど大学院博士課程の学生としての研究をしていない状態が続いておりました。
実は、仕事の方は2月末には落ち着きを取り戻していたのだけれど、暇さえあれば「時効警察」とか「緊急取調室」とかを見ていて、なかなか勉強モードにならなかったのであります(笑)
しかし、査読論文の提出締切が近づき、昨日からようやく研究モードにシフトしつつあります。人間、締切りがないと堕落するなあと思った次第です。
研究しているテーマは「デジタル・トランスフォーメーション」ということで、実務にも成果を還元できる内容で、会社のCDO(Chief Digital Officer)ではないのだけれど、CDOになったつもりで「企業活動としてどうすればよりよいデジタル戦略が描けるか」なんてことを日夜考えております。
ところが今回、査読委員の先生からの意見として「根拠は何?」ということを数多く指摘されており、「うっ…」とか「げっ…」と思うことがしばしば。論文に書いてる話はITの話なので、長年の経験から多分こうだろうという推定はできるのだけれど、そして多分それは合っているのだろうけれど、学術論文の場合それではだめで、必ずその「根拠」が求められる。例えば、だれかの先行研究に書かれていたことなのか、はたまた収集したデータの分析から得られたものなのか、という感じで、どちらにしろ「根拠」なしに書いてはいけないというのが論文のルールになります。
しかも1つの先行研究だけ、とか1つの実験データだけではだめで、自然科学と同様に再現性が求められるのがなかなか辛いです。
振り返って、会社の仕事を考えてみると、随分「勘」でやっていたなあと。ロジカルシンキングなどを会社の研修で習ったりもしたのだけれど、日常の中ではなかなかロジカルには考えが及ばず、KKD(経験と勘と度胸)でやっているなと反省しきりであります。
フィンランドの教育現場では「それはなぜ?」と先生が質問するシーンが多いらしく、小学生の頃からそういう訓練ができているというのをどこかで読んだことがある。要は子供の頃から「根拠」を考える訓練をしているのだなあと今思い出しました。与えられた問題を要領よく解くだけではあかんなと思います。
50の手習いで始めた大学院生活だけれど、いつまでも与えられたことをやるという段階から脱却しなきゃと思いを新たにした一日であります。