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[#2] メッシュワークゼミ記録

月初から開始したメッシュワークゼミ、今月は毎週末連続で講義やディスカッションの場がたっぷり半日取ってある。本業の調査期間とサイクルが被ってると地味にしんどいw がんばれ自分。今月を乗り切るんだ。

で、今回までに課題図書を読んでくる指定があったのだけど、平日まったく時間が取れず精読こそできなかったものの、誰かと期限や目標を約束して取り組むのはいいなと思った。
普段、3-4冊を同時に拾い読みする習性があり、はじめから読むとも限らないので読了までが長いのと、小説でもない限り目次だけを読んで本棚に仕舞うことも多いので…

ティム・インゴルドさんの「人類学とは何か」。以前一度ななめ読みはしていたものの、再び手に取り、またやっぱりななめ読みしたのだった。

わかったっぽく感じるけど難しい部分を飛ばしているだけだった

一度読めばもういいかなと思う本と、繰り返し何度も何度も読んで都度味わったり、自分の感じ方が変わっていくのを愉しんだり、ときどき立ち返るために開いたりする類の本があると思っている。
この本は後者だと思っていて、これから何度も頁をめくるのだろうと思う。

今回で一番印象に残った一文。

人類学者として私が信じているのは、私たちの言葉は実際のところ、私たちが調査研究した人々の見方を純化させたものであるというふりをせずに、じっくりと思索する自由、つまり私たちが考えを述べるのを大事にすべきだということである。

「人類学とは何か」ティム・インゴルド(P.128)

UXリサーチャーの仕事はインタビューその他の手法を用いた調査そのものではなく、「解釈のプロセス」を組織に開いていくことだと思っていて、ここを読んでいてそのことを想起した。
事実を探そうとする試みから離れて、自分からはどう見えるか、をお互いに交換しながら重なりや差分を見つけあうこと。

この本は、シンプルでありながらめちゃくちゃむずい。難しいのは、普段の思考回路ではしっくり当てはまらないフレーミングで論が展開されていくところ。シンプルなのは、インゴルド氏が言いたいことはずっと各章を通して同じであるところ。
たとえば、第二章「類似と差異」の類似、がどういうことを言っているのかわたしは多分まだ今ひとつわからないでいる。アメーバ的に、ひとつひとつが個でありつつ全体でもある、というのは感覚的にわかるけど、それは「類似」とはちがうのではないかな。類似はSimilarityだよね。全体であれるということは、もうそれだけで類似しているの?

読んでいくぶんには、するする読み進められるけれど、いざゼミで皆の捉え方や着眼点を聞いていると、ん〜わかるとこだけ読んでたな、と思ったのだった。

研究テーマにつながる材料を交換する

まだ研究テーマを決定するタイミングではないものの、今の時点で考えているエリアや気になっているキーワードを共有し合った。
今日で収れんさせなくて良い、とわかっているので、その人のキーワードから連想したことを別のメンバーが感想として話すだけで別の切り口が見いだせたり、切り口までいかなくてもおもしろい論点が新しく追加されたり、心置き無く皆のイメージが拡がっていくさまが心地よかった。

企業、組織のコミュニケーションが気になっている人が多いようだった。「どうして噂話が気になるんだろう」っておもしろいなと思ったし、ちょうど最近資料作成のために過去の仕事を全部振り返る機会があったので、コンタクトセンターのなかにあるそこでしか通用しない価値基準の話も通底するな、などと連想した。

チームに良い変化を起こしたい」も、これだけですでにいっぱい問いが立てられそうで掘り甲斐があるぞとか。主語が自分ではなくチームになることって、良いことなの?変化って良いことなの?変化ってどういう状態を指しているんだろう?
変化っていうのは、他者からの観点なのかもしれない。

連携とは?」企業と企業が「連携」するとは、つまりどういうことなんだろう。はたまた、「協働」「共創」ならまたちがった意図があるのだろうか。
ちがう複数の個である関係が前提になっている感じがするけど、それが一緒になるってこととはまたちがうのかな。この場合、お肉とトマトは連携してミートソースになっているの?(何を言っているんだ)

デザイン組織(または個)の文化を言語化する」人類学者の目を持てるようになることそのものにも意識が向いている感じ。たしかにオンボーディングの期間はボーナスタイムで、根本的なところから質問しても、じっと見ていても、受け入れてもらえる。観察しようとせずに、淡々と自己の内省を続けていくだけですでに価値ある記録になるのだろうな。

東京のとらえかた」これおもしろかったなあ。周囲で家を購入する人もいるなかで、このエリアはこうで、あのエリアはああだ、というように街や区単位で区別すること。
すごく社会的な意識だよな。多分だけど車の車種選びとかも似ていそう。そして、関東の都心の感覚はエクストリームだと思うので、他の大多数の地方「から」見た東京もおもしろそうだ。

このあたりで比嘉さんがお話されてたことで印象に残ったこと。

  • こんなにちっちゃくていいのかくらい、ひとつめのパズルのピースをまず決めてから、そのあとに周りのピースを埋めていく。

  • 文化、という話のときには「固定しない」こと。人類学のなかで一般論の話をしてもしょうがない。そこで起きていることは小さくてもダイナミック、世の中でいわれていることとはちがう手触り、その人だから気づけたことが一般論と重なることがあったとしても、その道筋が見えるようにする。

それと、比嘉さんが小学校高学年対象に観察と記述を指導されたときのお話と、自分の思ったこと。

半分の生徒たちには待機してもらい、もう半分は映像を見て、見たものを書きとる。書きとったものを使って待機していたペア相手にどこまで何がつたわるか、を体験してもらったという試み。

敢えてみんなが知らないこと、事前知識に差がないように、と選んだ映像はインドでおばあさんが糸をつむぐ様子。
私たちは、「糸をつむぐ」で「こんな感じかな?」が頭に浮かんでしまう。知識があることでわかってしまうこと、それによって見落としてしまうこと。子どもたちは、とても細かく書くそう。

おもしろかったのが、言語化までは子どもたちもできるけど、そのことの意味・文脈をとらえることはもう一段階上がったところの活動であって、他の人間との関係、過去との関係、背景を見ていかないといけない複雑な作業、というところ。
そこには、知識、つまりその観察者のごく属人的な目を使うことになるから、経験が一定以上ないと、無垢な状態では解釈できないのかな。

解釈にはいつも比較対象があるのだと思う。

マイ研究テーマ(の種)

わたしが気になっているのは「モノの仕舞われ方」であるという話をした。まだ整理したわけではないので、つらつらと、浮かんでいるキーワードだけ共有。

仕舞われているモノ、というのは表に出ているモノとはやや違っているのではないか。どのように?
仕舞われているモノは、どのように分類、意味づけられているのか?
ずっと愛着のあるモノと、フローとして手を離れていくモノは?
はたまた、仕舞われて忘れ去られているモノは?
そして、モノたちはそれぞれどんな出会いを経てどのように迎え入れられるのか?

比嘉さんから「使われ方」じゃなく仕舞われ方なんだねという趣旨のコメントをいただいて、たしかに!と思った。なぜか表に出ているよりも、見えなくなっているものに強く興味を持っている。

教えていただいたタオルの研究プロジェクトの話は、すごく好奇心に駆られた。タオルって一軍二軍の区別があるし、なぜか捨てられない思い出があったり、捨てどきがわからなかったり、他の「布」と区別されていたり、新しい古いだけが良し悪しの基準じゃなかったり、奥深いよなあ。タオルみたいに、特定のアイテムだけに注目するのもおもしろそうだ…果たして最初の切り口を定められるのか、心配になってきたw

当日のキーワードたち

以下、集中力が切れて考えが追いつかなかったけど手元にメモされたキーワードたち。
インプットからのインプットを経て、それでも残ったものだけが、自分の知識。

  • historical truth と historical truthfullness

  • Sense of community、想像の共同体

  • 多様性っていうのは、別に属性のバラエティのことではなくって、見方を交換しながらものごとを進めていく活動のことだよなあ

  • ここでいうケア、は気にかけるということ(care ethicsの文脈とは異なる)

  • 存在論的転回、見えないけどその人たちのなかにある、いるのかいないのかすらもわからない他者、その人たちの社会では重要なもの(石が話すこと、アニミズムの話から)

  • シニフィアン、シニフィエ

  • 世界=内=存在

やっぱり、メッシュワークでの時間を体験していると、普段いかに自分が、答えがあるもの・期限が切られていること・線が引かれ区切られている状態に慣れきって無思考で暮らしているかということを実感する。別にそれが悪いことだとは思っていないのだけど、そういう状態に自分はあるのだ、と感じるのはいいなと思う。
ずっと、途中をいだき続けるということを意識的にしていきたいし、そういう意味では途中という概念がなくなるといいな。

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