見出し画像

第一回:日常と出会いなおすためのレッスン ①観る

ものの見方をアップデートしたい、というとそれらしいかもしれないけれど、もっと本当に思っている言葉で言えば、なにか自分には見えていないものがあるんならそれを見てみたい、という好奇心が先に立っている。

メッシュワークさん主催のワークショップに参加することにした

ある日Twitterのタイムラインに流れてきた告知に、ん、と指が止まった。「観る」「視点」そして「人類学」というキーワードをきっかけに、プログラム内容を読んでみると、わあ、なんとも楽しそう、と感じ、これはどういう人が対象としてイメージされているのだろう、自分も参加して大丈夫かな、などと思いながらおっかなびっくりワークショップに申し込んだ。

日々のUXリサーチ実務そのものと並行して、たとえば、調査活動にどのような態度、姿勢で臨むべきだろうか、とか、ビジネス組織に置かれたひとつの機能として自分のRoleは何を司るのか、とかそういう前段みたいなことをじっくり考える時間が好きだ。

以前と比べて、結局はなにもかも「それがそこにある」ということくらいしか本当にはわからないのだ、と思うようになった。
自分の思う正しさや合理性らしきもの以外に、「他者にとっての合理性」もあるらしいということにも気が付いてきた。
完璧にはできていないけれど、とくに調査においては、それはわたしの思っているそれのことを指すのだろうか、ある意味「そう」だとしても実際にはどのような経緯を経てそれをそう捉え、それとして表現するようになったのだろうか、いったん他の用法や別の言葉も出てくるかどうかこのまま聴こう…と、すぐにわかろうとせず結論付けずじっくり目の前の情報に身を任せる段階を持てるように意識してはいる。
(わたしはたぶん言語領域をとっかかりに自分の外の世界を理解しようとするほうだ)

これは、受け止め方の話なのだと思う。

けれども、受け止めるその前に、そもそも気が付いていない、わたしの目には映っているのに認識できていない世界がそこにあると思う。
気が付くためには、「目」が必要だと思っていて、その「目」はだれかのものを借りるしかない。
人は少しずつなにかの真似をして、真似たものの積み重ね、組み合わせで少しずつその人になっていると思う。この会に参加して、主催者であるメッシュワークのおふたりはもちろん、一緒に参加される方々の「目」を借りようと試みることをしてみたい。

これは、そのリフレクション記録。Xデザイン学校に通っていたとき教わったこの方法が、数年経った今の自分にとってまた有益だと感じているので(当時何をわかっていなかったかわかるし、当時と現在のギャップを使って何度でも内省に使える)、今回も、感じたことやわからないことについて考えた思考の跡をそのまま書き残したい。

初回はイントロとお互いの自己紹介をした

さっそく第一回を迎え、内容は人類学者やその活動についてのレクチャーと参加者全員の自己紹介が主だった。
全員が、なんらかの立場から「人間をわかろうとする活動」に向き合っているみたいだった。同じものに興味を持つ方々と時間を共にできるのだなとあらためてうれしくなった。

精度の高い観察は大事ではあるけれど、データとしてたくさん量を取ればいいというのでもない、それなら定点カメラを置いておけばよく、重要なのは客観データではなくどこに注目し何に気付いていくかなのだという比嘉さんのお話に、勇気が出たような気がする。ちょっとずつでも視点の引き出しを豊かにしていきたいなあ。

それから、参加者の方で「自分の中の他者性」に言及された方がいらっしゃって、そういう表現も耳慣れなかったし、あ、そうかあ、と新鮮な観点に感じてとてもおもしろかった。
対象をわかりたい、だといわば一方通行に思えるけど、そのわかろうとする活動の最中には自分のなかにこれまで抱いてきたものとの「関係性」が実は必ずあって、つまりわかろうとする活動のなかで一緒になって自分もゆさぶられ、対象について考えることと「あ、自分の場合だとこう思うのだな」がセットになっている。

あと、日本の場合とくに、日本語が話せることが当たり前と皆がなんとなく思っている背景があってか「同じ意味でその言葉を使っているにちがいない」と思いこんでしまっているな、という最近感じていることについてわたしもコメントさせていただいた。
言語は価値観そのものに直結した、というか価値観が可視化された姿なんだよなあ。

ちいさな課題ももらえて、また来週の次回がたのしみ。

アイキャッチの写真は、上下を逆さにしてみた。だからなにということはないけれど。


いただいたサポートは、制作活動や参考書籍購入に使いたいと思います。