第二回:日常と出会いなおすためのレッスン ①観る
今週は、メッシュワークさん主催プログラム「日常と出会いなおすためのレッスン ①観る」の第二回めに参加した。
前回のリフレクションはこちら。
当日の構成は、課題を読んだ感想や気付きのシェアとミニワークだった。
課題図書を読んで
事前課題として、「方法としてのフィールドノート」の第一章を読むことが指定されていた。
率直に言えば、言葉選びなのか翻訳なのか、やや癖があって、いやものわかりが悪いとも言うのだけれど、とにかく同じ行を何度も読んだりして、ちゃんと咀嚼して理解できたようには思えていないけれども、まあとりあえず読むことは読んだ。
タイトルどおり、基本的なフィールドノーツの取り方、姿勢や考え方が解説されている。ある3人の学生がそれぞれ記述したフィールドノーツを例に挙げながら、その学生それぞれが持つ視点や場の捉え方、関心ごとなどによって記録される内容も、その記録のされかたも三者三様だった。
そういえば以前なにかのフィールドノーツをぱらぱらっと読んだことがあって、これは調査者というフィルターを通して見えるものであって、事実の記録ではないのだなあとぼんやり考えたことがふっと思い出された。そのときは、それがいいことなんだか悪いことなんだかわからなかったけど、強いて言うなら悪いこと寄りというのか、漠然と「主観」だとだめなんじゃないかという印象を持っていたような…気がする。正直深く考えていなかったのでそのときのことをあまり覚えていない。
人類学がなんたるかは未知すぎて皆目わかっていないが、UXリサーチの実務という文脈に置き換えて考えると、「フィールドノーツを書く」またはそれに類似する活動、つまり、お客さまをわかろうとする活動にはやっぱりステイクホルダー全員が、濃淡の差はあれど関わるべきものだと思った。
調査がまとめられたレポートやサマリーを読めば「わかる」わけではないし、そもそもインタビューなどで得られた情報をどう捉えてどう解釈するかがリサーチャー(解釈者)によって異なる。同じものに向き合い、それぞれの解釈を重ね合わせることを試みるプロセスを経て、やっとなにかが共有されるのだと思う。お客さま像が立体的になる、ということなのかもしれない。意思決定につなげるには、全員が「フィールドノーツを書く」必要があるんじゃないかな。
人類学においては、読み手との関係をどのように位置づけているのか気になる。
当日比嘉先生からは、「チーム・エスノグラフィ」なる存在を教えていただいた。とっても興味深い。
このあたりが自分単体で感じたことなのだけれど、当日参加者の皆さんが発言されたことや比嘉先生がそれに呼応しておられた内容で、わあ、本当だな、とか、おおなるほど、と思ったことをいくつか。
自分がフィールドに溶け込んでいくことで自分自身の関心やアンテナでキャッチできるものも変化していく、調査者としての、その場への在り方も変わっていくのだろうか
議事録は同じ時間を過ごしていれば同じ記録が残るものだという暗黙の共通理解のような感覚、実は耳に入る情報やホワイトボードに書かれる情報だけを記録していて、だれそれさんが足をぶらぶらさせているとか、他の情報はシャットアウトされている、多元的になるのは必然
問いの立て方、人それぞれでスターティングポイントが違っていてもそこから拡げていくという意味ではみんなで全体を見ていく(これはチーム・エスノグラフィということなのだろうか…!)
参与は本当にレベル感のある話、立っているだけでも参与といえるし、その人と友だちになるとか、その手前にちょっとした会話をするとか、もっと長い話深い話をして関係を結んでいく
人類学の面白いところは、他のリサーチのように個やあるひとつのグループを取り出すのではなく、その個や集団の「間」でなにが起きているか、関わりを見ている点
そういえば、UXリサーチをやるようになってから、他者にむやみに腹を立てることが本当に減った。いろんなことを「許せる」気がするし、しあわせを感じるスキルみたいなものが向上しているようにすら思う。
フィールドノーツの前提は、「社会生活というものは、自分自身と他者の行為に対して意味を見つけまた付与しようという人々の試みを通して不断に形成されていくものだ」という物の見方だ、という記述があった。
とてもインタラクティブなものなんだな。
そしてこれは、無意識になにか正しいものをどうにかして見つけようとしてしまうわたしの中の一部をそっとゆるめてくれる。
1日で書き上げるのではなく、積み重ねていくことで生まれる複雑性、深み、ざらつき、それは時間の経過とともに単にケース(事例)がたくさん積み重なるということだけではなく。ケースが積み重なっていくうちに記録者が深めていく解釈、もしくはなにを重要だと思うかといった見解、というこちら側の変化とともにある、ということなのかな。
皆さんが状況に入っていくというのとは全然ちがう
後半にミニワークがあった。
比嘉先生による約1分の録画を皆で視聴し、各々でフィールドノーツを書いてみるというもの。
1分とは思えない…いろいろなできごとが起こりすぎている。いや、普通の日常のなんていうことはない街のひとときを切り取った映像だったのだけれど。
映像が流れる間、目をめちゃくちゃ開けて視界に入るものをタイピングが追いつく限りざーっと箇条書きした。ちょっと頭の片隅で「ちょちょ待って、なにもかもが同時進行なんだが!どれを『観る』の、何がだいじなの!!!」とか思うが、すぐにいやいやそんなこと言うてる場合ではない、と映像に集中する。
2回流していただけたので、2回めで順序立てて並べ替え、残り時間でたたみかけるように文章化する。なんとか文章化を終えたら、疑問点や気付きを5つ書き出してみましょうということで、わたしの場合は映っていたベンチにまつわることを主に書いた。
自分の作業を終えてから他の皆さんによる記述を見てみると、ああやっぱり見てるものちがうなとシンプルにおもしろかった。
いやあ、でもなかなか短時間で突然書いたにしてはまあ全員形にできたのだからよかったよかった、とか思っていたら、比嘉先生のやさしいトーンで入ってきたひとことにやられた。
このワークは基礎編でした、なぜかというとわたしが撮ったカメラの視点が固定だった、皆さんが状況に入っていくというのとは全然ちがったと思う、みたいなことをおっしゃったと思う。
うわあ。そりゃそうだ、本当にそうだ。
カメラを通してみていたその映像は、四角く切り取られた中のできごとだった。
これを書いている今日、ちょうど次の課題である個人フィールドワークをやってきたけれど、あらためてその意味を感じた。世界ってめちゃくちゃ立体で、常に動いているんだな。(深いことを言っているのではなくw)
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