感情型の母親と論理型の父親の議論のクソさよ。
どうも。伊田錦です。
今日は、子どもの頃から思っていたことを。
酒が進むと始まるお喋り
父親も母親もお酒が好きだ。
故に、晩ごはんの際には、ほぼ必ずお酒を嗜む。
二人で仲良く同じお酒を分け合ったり、「このお酒は飲みやすい!」「このお酒はあんまりかな?」など、論評…には程遠いが、あーだこーだとお喋りしながら、夜のひとときを楽しんでいる。
そんな中、テレビのニュースや知人から聞いた話などをキッカケに、父親と母親で議論?お喋り?っぽいものが、開催されることがある。
議題はさまざまで、「最近の政治家は~」とか、「ネットでこんなニュースを見て~」や「今の日本は~」など、お互いに思うことを言い合っている。
のだが。
子どもの頃から感じていた。
【なんだ?このムダな話し合いは?】
何かが結論づけられるわけでもなく。
アイデアや解決策が生まれるわけでもなく。
ただのお喋りにしては、聞くに耐えなかった。
感情型の母親
(子どもの僕から見れば)、母親は感情を大事にしているように思う。
話を聞いて欲しい
共感して欲しい
「そうだね」と言って欲しい
みんながそう言ってるから
悪者を責めたい
あくまで、僕にはそう見えている/聞こえているというだけで、実際は違うのかもしれないし、母親は否定するかもしれないが。
酔っているからなのか、同じ話を何度も繰り返し、自分の思うような返答が得られないと、ヒステリック気味になる。
最終的には、「私が悪いんでしょ。」となる。
おそらく、母親は話をただ聞いて欲しいだけなのだと思う。
同意?共感?して欲しいだけだと。
感情的ではあれど、別におかしなことは言っていないし、話を聞いていれば、そうだよなと思うところもある。
ただ、たぶん話す相手が間違っている。
論理型の父親
(これも僕から見ればだが、)父親の話は論理的だ。
解決策を示したい
断定せず広げて考えたい
悪者は1人じゃない
何か事情があるはず
生産性のある議論をしたい
再三言うが、これも、僕にはそう見えてる/聞こえているというだけで、それは違うと言われるかもしれないが。
父親の話は理詰めに聞こえる。
その上、母親を逆撫でするような言い方やリアクションをすることがある。
本人にその気はないだろうが。
たぶん、母親の話す話題にさほど興味がないのだろう。
「どうでもいい。」の一言で片づけたいのではないか。
でも、それでは母親に悪いから、なんとか話を聞く。
聞くなかで、指摘したり、広げたり、深堀ったりしてしまう。
そうすると、ちゃんと話を聞いてもらえない母親は、モヤモヤする。
みたいな感じだろうか。
感情型の母親と論理型の父親の議論のクソさよ。
そして、お互いに譲らず、母親が「はいはい。私が悪いんでしょ。」と拗ねることで議論は終わる。
このやり取りを子どもの頃から、たびたび聞かされてきた。
ときには、意見を求められたこともあった。
何も言わなかった(言えなかった)が。
大人になった僕からすれば、どちらにも改めるべきところはあると思う。
そもそも、ただの話し合いなのか、愚痴を言いたいだけなのか、解決策を考えたいのか、ゴールがハッキリしないまま話が進むから、どこにも着地せず終わるのだ。
話をただ聞いて共感するターン
↓
いろんな視点から考えてみるターン
↓
具体案や解決策を出してみるターン
など、自分たちがいま何の話をしていて、どこに着地すればいいのかを、逐一確認し合えば、あんな醜い言い争いにならないだろうにと思う。
一方で、じゃあ実際の会話で、どれだけ冷静に話し合えるかといえば、難しい部分も大きいだろう。
ただのお喋りで、会議ではないから、別に何かを決めなきゃいけないわけでもないし。
感情型、論理型とか男性脳、女性脳などと人括りにしてはいけないとは思うが。
少なくとも、聞かされる僕は、あまりいい気分ではなかった。
おわりに
こんな記事、絶対に親には見られたくないな。
勝手に書いているのも悪いとは思うが。
別に両親とも嫌いではないが。
どちらの意見や考え方、感じ方も分かるだけに、なんだかなぁとも思う。
もっと建設的な会話はできないだろうか。
(二人の名誉の為に言うが、普段は仲良く話し合える人たちである。)
では。また。いつか。