なぜ勉強をするのか?という問いとは
みなさん、こんにちは。僧々です。
前回、自己紹介の記事に「続きは次回で」的なことを書いたんですが、とあることを考えていたので、今回はそのことについて、(忘れないうちに)つらつらと垂れ流そうかと思います。
さあ、そのトピックこそ題名にあるような「なぜ勉強するのか」という疑問についてです。
ちなみに、私は勉強が好きです。それはテストとかではなく、どちらかといえば、論文を作る方です。
今就活してますが、第一希望は大学院です。落ちて社会人になっても、在野研究者として、研究活動をしたいと考えています。
そんな人間が、「なぜ勉強するのかという問い」について、考えます。
※編集後記
かなり重たいし、難解な文章になってしまいました。めんどくさい文章アレルギーの方は、目元に気を付けてお進みください。
(1)前提
こちら(「なぜ勉強するのか」という文言)は、どちらかというと「なぜ勉強をさせるのか」と捉えた方が、(noteを読む一部読者様の立場的には)より筋のいい命題になるとも思いますが、今回はどちらとしても障害とならないので、このまま話を進めます。
インターネットに期待を抱けない残念な私は、記事内容から得られる果実に対して、保険的な意味を込めて、以下のような断りを先立って入れておくこととして、これを前提にします。
この記事は、「なぜ勉強するのか」という問いに対して答えや意見を示す記事ではありません。
勉強することの真理へたどり着きたい方、人様の意見を聞きたい方は、申し訳ありませんが、この記事には存在し得ない財のため、この段落が終わり次第、ブラウザバック推奨です。
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まだ言ってることがよくわからない方向けの補足説明
題名にもあるように、「『なぜ勉強するのか』という問い」に対して、所感を述べるまでの記事です。「なぜ~問い」までが一括りです。つまり、「~」を問うことへの意見を書いた記事です。
問うた先のことは、(少なくとも)この記事では述べません。
①勉強するということは、こんなことで、こんないいことがあって、わるいことがあって、だから勉強することは○○だ!
ではなく、
②「なぜ勉強するか」と問うということは、こんなことで、こんな感じだから、この問いは○○だ!
って感じです。
うまく伝わりましたか?
ですから、そもそも題名の時点で日本語の構造が違うんです。
①の場合、「(人は)なぜ勉強するか=勉強に価値はあるのか」
②の場合、「なぜ勉強するかという問いとは=この問いは何なのか」
というような感覚で題名を付けましたので、わかりにくくて大変申し訳ありませんが、①の解を追究されている方が対象ではないのです。
勉強が対象ではなく、問いが対象です。
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(2)起承
さて、十分に保身に走ったところで、本題に入りましょう笑。
子供のころでも、大人になっても、子供を育てるとなった時でも、物心がついている皆さんであり、この記事を読んでいる皆さんなら、一度は考えたことがあるはずの
「なんで勉強ってすんだ(やらされるんだ)?」
という疑問。世の中の人はいろんなことを言います。
「勉強なんていくらしたって無駄」という若手社長
「俺は将来スポーツ選手になるから」という元気な少年
「視野・選択肢が広がる」という学校の先生
「仕事でお金を稼げるようになる」という親 etc,,,
※もちろんすべてフィクションであり、個人的なイメージ
皆さんも、様々な意見をお持ちでしょう。
ただ、問い自体やその答えに対して、ちょっと疑問を持ってほしいというか、考え直すきっかけになるかもしれないというのが、この記事です。
(3-1)転
では、先ほどの4つの回答について、1つの条件式を示します。
「対人間に、まるで価値の存否を判断する認識を掲げていませんか?」
ということです。先ほどの(よくある)解答例にも、
・「勉強なんていくらしたって無駄」
・「俺は将来スポーツ選手になるから」
・「視野・選択肢が広がる」
・「仕事でお金を稼げるようになる」
前2者は、「人間・個人に対して価値がないことを掲げた」
後2者は、「人間・個人に対して価値がある可能性を掲げた」
こんな風に何かにとりつかれたかのように、勉強に対して価値の有無を求めていないでしょうか。そして、もっと言えば、「なぜ勉強するのか」に対する説法にさえも、何かしらの価値があるかを判断しようとしていたのではないでしょうか。(簡単に言えば、こいつのいってることは、、、みたいに判断したかっていうこと)
皆さんの想像していた「なぜ勉強するのか」に対する解答はどうだったでしょう。上の記事を読んでた時に思ってたことを思い返してみてください笑
勉強することの真理へたどり着きたい方、人様の意見を聞きたい方は、申し訳ありませんが、この記事には存在し得ない財のため、この段落が終わり次第、ブラウザバック推奨です。
ここでも、あえて財を太文字にしておきました。ここまで読んだ人なら、この文を読んでいた時の違和感から解放されたのではないでしょうか。
(3-2)転からの転ーおまけ的な部分
私自身は、この価値を求めるというバイアス(志向)自体がとても不思議に思うというか、なぜ?と考えてしまいます。それと同時に、不快感や危機感を覚えるのです。
現代社会は、全てのことに対してお金が関わり、人間の営みの多くは、対価を重視して構成されています。人間が築いた「お金」というシステムです。
現在は、資本主義とされる近代思想が代表される時代だということが、それをよく表しています。
読者の方は、基本的に資本主義国家の中で生まれた方が多いとは思いますが、それは社会主義的な思想の中で育まれたとしても、同様の帰結になっていたのか。
これを調べて、有意な統計が入手できたとしたのなら、このような思考回路は、資本主義による弊害として問題視され得るでしょう。
しかし、現実そうはなっていません。
そもそも、価値がなかった自然状態の人間は、原則として判別式の中に対価を求めていたのでしょうか。
これは、よく欲とか本能とか、そうやって仕方のないものとして、時には、人間(はたまた動物)に必要なものとして、無理くり整理されてきました。
ただ、「原則として」としたように、例外として、子孫繁栄という点などでは、(子孫繁栄は本能であるとされますが、少子高齢化社会の今に見るように、集団的ではなく、)個人での対価がどこに設定されているかよくわかりません。
ここで言いたいのは、この「対価希望性」という原則的本能を、常に(事あるごとに)使うことが、本当に社会を過ごす・創る中で、真に必要なことなのかということです。
(この話は、この記事から離れすぎるので、いずれかの機会に)
(4)結
以上、ちょっと脱線しすぎたので、話を戻しましょう。
「なぜ勉強するのか」という問いは、勉強という行為について本質を考えようとしていることとして表象されることが多いですが、私としては、実際はそうではないのではないかと思うのです。
「なぜ勉強するのか」という問い自体が、価値があるかを考える前提で提起された命題にも捉えられます。(命題自体、真or偽を求める性格がありますよね。)
「でも、勉強って本当に価値の存否で判断するものなんでしょうか。」
時として、
この疑問さえも価値を求めているという無限ループに入るのです。
そして、質問だけにとどまらず、その答えまでもが、受信した個人の中で、原則的本能である「価値があるかチェック」を通して、個人の価値あるボックスやら、価値ないボックスに、思想という価値として自動機能的に保存されるのです。
長い人生の中で、その分岐点等を価値の有無ばかりで判断していたら、失敗したときに落ち込むし、劣等感に襲われるし、正解があっちだったかと後悔します。
もちろん、失敗から学ぶこともあり、次回正解するためだということも承知の上で、「全ての判断が価値判断によるべきではないのかも」ということを、頭の片隅に置いておいていただけるとより豊かな人生になるかと、この記事で、そうお伝えしたかったのです。(人からの評価を気にしすぎる人なんかは、他者評価という客観的存在価値を追い求める、この側面が強いと勝手に思ってます。)
今回は、こんな感じで終わりです!
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。ちょっと重くなったり、わかりにくい・伝わりにくい文章になった気がするので、次回から気を付けます笑
また、面白そうな題名を見つけたら足を運んでください。
ここから下は、私の個人的な(ブログっぽい)愚痴です。気分が悪くならないという自信がある方のみ、読み進めていただけると幸いです。
(5)現代社会に対する本原則的本能の応用
受信した個人の中で、原則的本能である「価値があるかチェック」を通して、個人の価値あるボックスやら、価値ないボックスに、思想という価値として保存されるのです。
これだけなら、なにも問題にはなりません。個人的な思想違いの範疇です。
今この社会で問題になっているのは、原則的本能の「価値があるかチェック」が、全宇宙人共通の万能機能だと考えている(悪い意味での)宇宙人がいることだと思っています。
人間は、インターネットが大衆に解き放たれてから、一回そのムーブメントが起こり、また、コロナのパンデミックがあってから、再度こうした問題に多く直面しています。
(これ以上詳細に言うと、特定個人や集団を刺激し、この記事がある対象に向けて誹謗中傷・名誉毀損をしている記事となって、削除請求や発信者情報開示請求がくる可能性があるため、明言を控え、皆さんの想像にお任せすることにします。)
原則的本能は、個人差があるものです。他人と合同な機能ではないのです。ですから、価値判断も、(当然のことながら、)個人差がでます。
価値判断のみで行動するというのは、そのすべての対外的言動が、自身の価値観の押し付けとなるのです。
その時、自身が持つ価値観やフィルターが大衆的であったり、文化の中で習慣とされているものであれば、「普通の人」としていられるのです。
宇宙人は、大衆的な価値観を持っていない、だれかに歪められた価値観を持っている、少数派であることがかっこいいと思っている、宇宙の果てからくる正義を掲げる等、様々な個体がいます。
誠に残念な話ですが、この話(人によって価値観は違うし、現代社会の中ではいわゆる他者危害原則等で原則として個人が抑制されるべきということ)を宇宙人にテレパシーとして送っても伝わりません。
少数意見はとても重要です。しかし、社会の中で誰かが傷つくのであれば、それは話は別だというのが他者危害原則です。(『自由論』by J.S.ミル)
それは、宇宙人が何語を話そうが、原則的本能からくる(価値の有無判断を通じた)正誤判断において、絶対的な(おめでたい)信念が存在し、これがバイアスをかけているからです。
本能の前に、言葉や知性が後れをとることは、よく起こります。
皆さんも、近年、インターネットやコロナ禍で大量出現している宇宙人と接触する・された際は、このことを念頭に置いて、(諦めという寛容なスタンスをとりながら)交信すべきです。
価値観を(バレない程度に)大げさに認め、こちら側の主張や反論はせず、相手に拍手喝采をお送りする。宇宙人には、承認欲求が強いタイプが比較的多いです。そして、(特に少数派価値観)宇宙人は、インターネットという匿名の場で、群れになって人間を襲います。
血迷っても、価値の修正や価値判断の一時的放棄の要求を試みないことです。
価値の修正なんぞ、絶対的おめでた信念の前には、無力です。
ましてや、価値のみで判断するべきじゃないなどという「価値」は、宇宙人の価値判断の中で自動的・無意識に「無価値」(=戯言)となります。
非常に気を悪くする言い方ですが、
あなたが宇宙人の絶対神でない限り、あなたごときの言の葉は無益です。
相手に、
憐みの情や同情、救い、浄化、洗滌、斎戒沐浴、クレンジング
というエネルギーを使うのは、
個人の勝手ですが、私個人としてはおすすめしません笑
(↑これこそが、価値を検討すべきなので、皆さん精査してください。)
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宇宙人に対して、この話の通じて、交信を図ろうとしている方へ
私は、本記事から生じた二次的な諍いに対して、一切の責任を負いません。個人的なやりとりとして、一切の行為を自己責任で遂行すると認めることとして、この記事をご活用ください。
ただし、この記事に対する一次的な紛争に関して、訴訟・仮処分等の法的紛争解決は、私の責任の所在含め、日本国における司法の判断に委ねることとし、また、裁判外交渉における削除請求等に正当な理由があると判断できる場合には、即座に削除することにします。
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最後に書いた現代社会に対する愚痴を、皆さんの心の健康が害されないことへのお祈りとして、この記事は終わりにします。
最後までお付き合いくださった方、本当にありがとうございました。
またどこかでお会いしましょう。
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