表現者たち
美術館へ向かうあなたの足取りは、日射しに反してきっと軽かっただろう。愛する人の手を握り、ゆっくりと休める日曜日の夕方。閉園間際の美術館には、きっと人は少なかっただろう。愛する人の手はあたたかかった、あるいは、少しつめたかっただろう。抱き締めればやわらかく、出っ張った背骨をなぞればかたいと思ったのだろう。あなたはこの時間がずっと続けばよいのに、と自分でも陳腐だと感じることを考えるだろう。虫の声は、蝉から松虫へかわったのだろう。愛する人の香りをあなたは大好きだっただろう。
思った通りに人は少なく、受付で千円を払い、特別展へと足を運んだのだろう。あまり絵なんてみないけれど、それでもその作家はあなたたちも知っている名前であっただろう。自らの耳を切り落としてしまった画家の絵にあなたは息を飲んだのだろう。油絵の凹凸、憎しみの色、その精神世界の色彩に、あなたはのめり込んでいったのだろう。
そうして辿り着いたひとつの絵を見て、あなたは目眩を起こしたのだろう。愛する人はあなたを支え、学芸員はそちらへ向かって叫んだのだろう。しかし、あなたは、その絵画へ手を伸ばしたのだろう。
二十歳から丸々五年が過ぎていった。光陰矢の如し、とはよく言ったもので十五から二十歳になるのと二十歳から二十五になるのは全くスピード感が違った。単に衰えのせいだけとは言えないほど、とてもとても速かった。入った学科が学科だったからだろうか、五年前から本格的に文章を書くようになった。真夏特有の気だるさにうだりながら、真冬の自室、真夜中、コートを着込んだ姿で、書いて吐いてを繰り返していたのだろう。
そうしていつの間にか、自分を見失っている間だけ正気でいられることに気付いてしまった。瞬間、立ち眩みに誤魔化すようにしてずっと鈍くなった頭を抑える。こんなことを言うのはみっともなくて死にたくなるけれど、きっと、ずっと、寂しかったのかもしれない。表現することでしか自分を見つけられなかった。屑な自分の居場所を墓場にしか作ってやれなかった。プラスチックのスコップで穿って穿って穿ってそれでも自意識は埋もれるほどの穴も見せてくれなかった。
そこはもう美術館ではない。
豪雨が肌を突き、雷が鳴り響き、あなたの愛する人を津波が飲み込んでゆく場面だ。涙が降り、かなしみのシーンを染めていく。あなたは愛する人の手をつかめなかった。愛する人は津波に飲まれ、そうしてあなたの目の前から完全に消失した。あなたは声にもならない声で叫んだ。それもすぐに嵐の中へ消えた。あなたの声を聞くものは誰もいない。あなたの嘆きはどこにも届かない。愛する人はいなくなってしまったのだから。あなたは足を進める。美術館へ向かう時とは程遠い、奴隷のような足取りで。伸ばしたままの腕で波を掻き分けるのではなく、ただひとつの願いだけを抱いて力なく進んでいく。死ねば、愛する人に会える。それが欺瞞であり、不実であり、まやかしであり、虚無であることを、あなたはよく知っている。それでも、生を終わらせれば、もう苦しむことはない。楽になればいい。あなたは目を瞑り、ゆっくりと水の感触に身体を委ねる。
落下せよ!かなしみも、さいわいも、落下するのだ。回転とは緩慢な死だ。吐き気吐き気吐き気、落下していく、感情の雨。身体中の穴からこぼれおちる、灰色の黄色の黒色の粘性の雨。
「殺してくれ!!!!」
そうもいえないだろう。死の間際に絶叫しても無駄だ。生き続けなければ、そうして叫び続けなければ。吐き気吐き気吐き気、糞だろう、すべて糞だろう。そうでなければ生きていけない。一期は夢よただ狂え。結局なにをしても無駄で何かに熱くなっている人間はおしなべて羞恥にまみれた人間だ。特別になれないし特殊にもなれない。やることやっても無駄。頑張るものは報われるってのも嘘。所詮才能とコネだ。くだらない。どれだけ頑張っても見てるのは自分だけ。自己満足、よく読んだね、よく聞いたね、偉いね。誰もお前を見てないけどね。ああかわいそう。悲劇のヒーローになるために今日も一日一生懸命努力、献身、練磨。才能もないのにご苦労様でした。
誰か僕を殺してくださいスプーンで孤独を望むこころを食べて
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