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南向きのヨウコの部屋で

南向きのヨウコの部屋で


 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向きだからもちろん日中は陽光にもろに照らされる。周りには高いビルもないから本当に直射日光がばんばんくる。冬場は有り難いが、夏場は甚だ迷惑だ。壁紙やカレンダーなども変色してしまう。遮光カーテンは高いし。
 でも洗濯物は良く乾くし、ベランダの植物も良く育つからそう文句は言えない。というかわざわざ余分な金を出してまで南向きの部屋を選んだのはヨウコ自身だったので誰にも文句を言えないのだけれども。選んでいる時はとにかく南向きがいいとしか考えてなかった。
 だから仕方がない。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋だけでなくヨウコの住んでいるこぢんまりとしたアパート自体が南向きである。アパートの名前は「メゾン・サウス」。いくらなんでも安直すぎるような気がするが、ヨウコはいいじゃん、メゾン・サウス、と思っている。何となくバカっぽくて可愛らしい。
 そんなメゾン・サウスは、天気のいい日は大抵どの部屋も蒲団や洗濯物を乾している。ずらっと並んだ蒲団、蒲団、蒲団。それを見ていると意味もなくにやけてくるので普段はあまり見ないようにしている。見てしまった場合は、蒲団から視線を逸らしながら、うんやっぱり南向きは良いなと意味もなく思う。
 そして意味もなくにやける。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向きの上に3LDKである。一人で住むには分不相応に広いのが自慢の3LDKだ。
 ヨウコは週に何回か友達を招いて鍋パーティーをやったりする。友達と言っても家に呼んで鍋を囲む間柄の奴なんて一人しかいない。ヨウコと同じフリーターであるサチコだけだ。
 サチコは不定期でヨウコの部屋に訪れるが土日は必ず泊まっていく。サチコはフリーターらしいフリーターで常に金に困っていて、月末はまさに絵に描いたようなヒサンな貧乏人っぷりだ。そしてヨウコはフリーターのくせにお金持ちだから鍋の材料はほとんどヨウコが用意する。サチコは鍋奉行で、ヨウコが材料を用意したというのに全くヨウコに材料を触らせてくれない。だからヨウコはただ黙々と食べるのみだ。
 一人で住むには分不相応に広いのが自慢の3LDKは、二人で鍋を突つくのにも分不相応に広い。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋の右隣には物凄く綺麗な奥さんを持つけれどあまり顔の良くないワカバヤシさん(34才・会社員)が住んでいて、ワカバヤシさんは物凄く綺麗な奥さんがいるのにも関わらずヨウコによく飲みに行かないかと誘いをかけてくる。ワカバヤシさん、奥さんと上手くいってなかったりするのだろうか。それとも美人の顔は三日で飽きるというあれなのかもしれない。
 もちろんヨウコはいつも丁重にお断りしているのだが、ある時誘われているところを物凄く綺麗な奥さんに見られた。それ以降奥さんの視線が何となく痛い。
 ちなみに左隣には陰気な老夫婦がひっそりと棲息しているが、人前に姿を晒すことが滅多にないためヨウコは彼等の生態をよく知らない。時折真夜中に左隣から聞こえてくる謎のラップ音は、だから謎のままだ。
 ヨウコの近所付き合いはそんなものだ。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向きだから植物が良く育つ。
 ヨウコの部屋のベランダですくすくと育っている植物は現在二種類で、アロエとねぎである(花は食べられないので、置いていない)。世話らしい世話はしていないが毎日水だけは欠かさず撒いている。ねぎは二週間に一回収穫をしている。このねぎはサチコに受けが良く最近は来る度に、ねぎ食わせろ、ねぎ、と言ってくる。ねぎが食いたいのか鍋が食いたいのかどちらなのだろう。
 回収ペースが速くなって、最近ネギが痩せてきている気がするのだが、サチコはあまり気にしていない。アロエの方はほったらかしなのでかなり凄いことになっている。ネギをこっそり新しい株に植え替えながら、今度ちゃんと手入れしなくちゃ、と思った。
 が、それが思うだけで決して実行に移されないであろうことはこのアロエの姿を見れば分かるけれども。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋は一人で住むには分不相応に広いのが自慢の3LDKだが、もちろん最初から一人で暮らそうなどとは思っていなかった。
 ヨウコの実家はお金持ちである。先祖代々の土地を幾つも持っていて、先祖代々の会社を幾つか経営している。でも勘当されてしまった。理由はヨウコが大学生の時に付き合っていた男と電撃的な駆け落ちを敢行したからだ。母親と姉には失礼なくらいに笑われた(母親と姉は常に失礼な人たちだった)。弟は失礼なくらいに感心していた(弟は度を越えて失礼な奴だった)。父親は怒ったり笑ったりせずに実に淡々とヨウコと縁を切った(父親は常に淡々とした人だった)。縁を切る際、ちょっと大きな声では言えないくらいのお金をくれた。手切れ金、というやつなのだろうか。ヨウコは悪びれもせずに実に堂々と金を受け取った(ヨウコは常に堂々としていた訳ではなく、ただ単に貰えるものは貰う主義だった)。
 駆け落ちした男とは駆け落ちして二週間目で男の浮気が原因で別れた。別れる時まで電撃的だった。だからヨウコはフリーターだけどお金持ちだ。この部屋も駆け落ちした時に二人で(主にヨウコが)選んだ部屋だ。家賃は高いけれど、出て行くつもりはない。
 全く、ない。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向き、という言葉には魔力がある。ヨウコは意味もなくそう思う。意味がないからそう思うのかもしれない。
 主婦の憧れ南向き、明るく爽やか南向き、でも家賃が高いの南向き。
 そのようなことをリビングでくだを巻いているサチコに話してみる。サチコは、北向きとか西向きよりもいいよな、と言って勝手に出した栗饅頭を一人でばくばく食べていた。それ以上何も言わなかったのでヨウコは少し寂しくなって、でもベランダ側に足を向けて眠ると北枕になるんだよ、と訳の分からないない反論を意味もなく試みたが、じゃあ足向けて寝んな、と一蹴された。それからサチコは風水についての嘘か真実かいまいち判断のつかないうん蓄をひたすら垂れ流して、一時間程で帰って行った。
 外はすっかり暗い。一通りの家事をすませてからヨウコは蒲団に入り、ベランダに足を向けないで眠った。栗饅頭と北枕と風水とアロエの夢を見た。
 夢の最後の方にサチコも少し出て来た。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋は片付いている。することがなく暇なのでまめに掃除をするからだ。決して人に自慢できることではない。しかも片付いていて見栄えがいい、という訳でもなく広い部屋に対して少ない私物のせいか何となく閑散とした印象がある。
 サチコ評して曰く、試合が終わった後の球場かコンサートが終わった後の会場、もしくは手入れの行き届いた廃虚、なのだそうだ。でもヨウコはそんな雰囲気が割と好きなので別段気にしていない。最近気になっていることは壁紙が少し変色していることと遮光カーテンが高すぎることとサチコがゴミを持って帰らないこととアロエのことだ。部屋は閑散としていた方がいい。意味もなくそう思う。意味がないからそう思うのかもしれない。
 いいじゃん、閑散。閑散最高。いぇーい。
 一人きりの部屋でそんな独り言を呟いてみた。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向きであることと関係があるのかないのか不明というか全く関係ないだろうが、朝の五時頃雀がまるでヒッチコックの映画か何かのように大量にベランダに止まっているのを、トイレのために起きたヨウコは偶然発見した。怖いくらいの数だった。しかもただじっと止まっているだけなのだ。近づいても逃げようとも襲い掛かってこようともしない。ヨウコは興奮して携帯電話のカメラで雀たちを撮影しまくった。そしてそれをサチコに送りまくった。
 その雀事件を別にして、その日はサチコから苦情の電話があったのと新聞勧誘に来たおやじの視線が何となくエロかったので脛を蹴飛ばして叩き返したのとまたワカバヤシさんに誘われただけの、別段どうもしない一日だった。別れた男が帰ってくるとか、そういう話は全然なかった。コーヒーを沢山飲んだ一日でもあった。
 雀は昼頃に忽然と姿を消していた。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋は地方都市の一角にあるこぢんまりとしたアパート「メゾン・サウス」の三階右手廊下奥にある。アパートは築十年くらいで外見は割と小奇麗で別段これといったメリットもデメリットもない位置にあり住人は互いに無関心(ワカバヤシさん除く)である。
 ヨウコは近所付き合いを全然しないのでアパートの住人の数を全然把握していない。だがアパートの人々は晴れの日に全員が蒲団を干すのでヨウコはこのアパートには結構人がいるんだな、とにやけながら確認できる。
 大家さんは中年と老年の間くらいの朴訥とした好オヤジで、自分はヅラであると公言して憚らない(ちなみに大家さんの名字が『南』なのでメゾン・サウスというのだそうだ。ヨウコはここに住みついて二年目にして始めて事の真相を知った。ショックだった)。
 アパート周辺で大きな事件が起こったこともなければ小さな事件さえ起こった試しがなく、サチコ曰く普通すぎて逆に印象深いらしいこのアパートは、今日も南に顔を向けて建っている。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向きの部屋にした理由は、不動産屋の人が南向きの物件を誉めちぎっていたからでも当時付き合っていた男が、おいヨウコ、南向きにしようぜ、金有り余ってるしな、と言ったからでも実家のヨウコの部屋が南向きだったからでもない。主婦の憧れといえば南向きだとヨウコは固く信じていたからである。
 主婦。
 ヨウコの憧れは主婦だった。その憧れが憧れるのだから当然部屋は南向きでなくてはならなかったのだ。男にそのことを言っても理解されずにただ何だかなあ、といった目で見られただけだった。きっと、そんなことばかり言っていたから浮気されたのだと思う。思い返せば自分でも何だかなあと思うから。蒲団を干しながら、ふとそう思った。
 今日も晴れだ。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋に今日も来ているサチコが唐突に、おいヨウコ、お前犬かえよ、犬、と言い出した。
 ヨウコは眉をひそめ、買うの? 飼うの? と尋ねると、買え、と言われた。
 買うだけでどうすんのさ、わたし犬なんていらないよ、と言ったら、食うに決まっているだろうと物凄いことを言われた。
 え、食うの?
 食う。
 食えんの?
 食えるぞ、中国とかじゃ赤犬鍋にして食ってんじゃん。
 何で食いたいの?
 何でだろう、今ふと思い立った。
 バカじゃん。
 そうだな。
 どうせなら飼うよ、ここペットOKだし。
 駄目だ。
 なんでだよ。
 理由はないけど駄目だ。
 バカじゃん?
 そうだな。
 ねぎま食べる?
 食う。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向きの部屋は暖かい。暖かいと眠たくなる。ヨウコは文字どおりのフリーターだから眠たくなったら寝る。今日は一日中暖かくて眠かった。だから今日は一日中寝ていた。
 駆け落ちした男の夢を見た。場面は浮気が発覚して、別れよう、とヨウコが切り出したところだった。かなりの脚色がなされていて、かなり赤面ものの内容だった。夢の中で自分自身に、いや、違うだろ、何これ? と突っ込みを入れたら何故だか目が覚めた。
 起きたら真昼で、点けっぱなしのTVでは主婦向けのワイドショーのナレーターが早口で何か捲くし立てていて、外では選挙カーが宜しくお願いします宜しく宜しくと繰り返していた。タバコを吸おうと思ったら見当たらなかった。マーフィーの法則に対して心の中で十通りくらい悪口を並べ立てたらふいに物凄い虚脱感に襲われたので、また寝た。
 今度はほったらかしにしているアロエが可憐な美少年に変身して(男だったのか)、お願いします、手入れして下さい、何でもしますから、と切実に訴えかけてくる夢を見た。ヨウコが、本当に何でも? と問うと、はい、何でもですと美少年なアロエは目を潤ませ手を胸の前で組み合わせながら答えた。その様子にヨウコは胸がきゅんとした。これって恋?  でもアロエだよね? 何これ?
 起きた。夕暮れ時でカラスの鳴声と電車の音と点けっぱなしのTVから車のCMの音楽が聞こえてきた。部屋は灯かりを点けていなかったので薄暗く、その分ベランダが輝いて見え、ヨウコはベランダから入ってくる明かりと部屋の影の境目に死体のような格好で死体のように転がっていた。
 転がったまま気怠げに視線をベランダに移す。輝くベランダの中でアロエはやっぱり物凄いことになっていた。とても美少年には見えなかった。でもアロエは黄昏の光を浴びて、そのシルエットは何やら神々しくさえ見えた。いつか手入れしなくちゃ、と思った。そしてまた寝た。
 寝返りを打ったその下からタバコが出てきたのだが、もちろん寝ているヨウコは気付かなかった。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋にベッドはない。ヨウコは蒲団派だ。もちろん万年床になどしない。そんなことをする奴は蒲団を愛していない奴である、とヨウコは思う。これまた無意味にヨウコがそう思っているだけだけれども。主婦は蒲団派であるべきなのだ。毎朝きちんと主婦のように畳んで片づける。晴れた日には干す。
 しかしサチコは畳まない。サチコはベッド派でも蒲団派でもなくマイナーなソファー派だ。しかもソファー派の中でも異端で、サチコはソファーの上に蒲団を敷いて眠る、という奇っ怪な行動をする。そしてその蒲団を畳まない。
 サチコのすることに意味を求めても無駄かもしれないが、以前無駄と知りつつ何故そのような振る舞いをするのかと尋ねたことがあった。するとサチコはにやりと笑っただけで決して答えようとはしなかった。謎は深まるばかりだったので、蒲団を取り上げたらどうするのか実験してみた。するとサチコは驚くことにヨウコの蒲団を奪って眠ってしまったのだ。もうこいつは放っておこうと思った。
 そして今もサチコはどこか肉食動物を思わせる格好で蒲団を敷いたソファーの上で眠っている。一体こいつはなんなんだろうか。そう思いながら眺めていると唐突にサチコが、わたしはねぎだ! と叫んだ。寝言であった。
 考えるだけ無駄だった。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向き三階のベランダから見える風景は平凡の一言で尽きてしまう。建築途中の新しい駅ビル、その脇にある小さな駅、駅を中心にアリのようにうじゃうじゃと商店が密集していてその周りをさらにハエのようにうじゃうじゃと住宅が囲っている。
 朝も昼も夕方も夜も春も夏も秋も冬も三百六十五日平々凡々。
 それはそれで一枚の完成された絵画のようですらあって、ヨウコは勝手にこの風景に「南日本」というタイトルをつけている。別段ここは日本の南ではないが、南側から見える日本であるから間違ってもいない。
 「南日本」の良いところは暇な時に五時間くらい眺め続けてもあんまり飽きないということだ。弊害はビールを弓手にタバコを馬手にしてベランダから眺めていると時々脈絡もなく飛び降りの発作に見舞われることである。
 そんな絵画「南日本」は、今日も変わらずベランダの外に在る。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋にヨウコが帰ってくるとサチコが居た。
 あら、おかえりなさあい。疲れたでしょう? ご飯にする? それともお風呂? それともあ・た・し?
 ……何やってんの、アンタ。
 見て分かるだろ?
 分かんねーよ。つーかお前どうやって鍵開けた。
 鍵穴に鍵を挿して。
 そう言ってサチコはヨウコの知らない二つ目のヨウコの部屋の鍵を魔法のように取り出した。
 いつの間に合鍵なんか作ったんだよ、何か最近食べ物の減りが早いなと思ったらさてはおめーか。
 うん。
 …………。
 まあそれは置いといて。
 …………。
 アロエが凄いことになってたから、手入れしといた。あとネギ収穫しといた。
 ええ! アロエ手入れしたの?
 うん。
 な、何かいいことあった?
 は?
 美少年が湧いて出たり、美少年が皿洗いしてくれたり、美少年が肩揉んでくれたり……。
 何言ってんの? バカ? それより鍋にしよう、鍋。
 やっぱり夢だったんだ……。
 ほらほら準備して。
 ……お前も手伝えよ。
 わたしは客だぞー。
 うるせー、それと後で合鍵渡せよ。
 えー。
 返事ははいだ。
 はーい。
 アロエ……。
 はい?
 ……美少年。
 はあ?

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向きのベランダから降り注ぐ日の光の中、今日も今日とてヨウコは寝ていた。
 おや、しかしいつもと様子が違う。ヨウコの顔の上には白い布が被されてある。いつもは死体のように寝るだけなのに、これでは丸っきり死体である。この布、サチコから教えて貰ったもので、自分の見たい夢が見れるようになるらしい。もちろんアロエの夢を見る腹積もりなのである。こんなアホなことしても意味はないんじゃないかしらとヨウコ自身、内心で疑っていたのだけれども、何と効果があった。
 夢の中、ヨウコは美アロエ少年と対面していた。
 うわ、本当に見れた、すげー。
 おや、あなたは。美アロエ少年が可憐な仕種でこちらに気付いた。
 やあ、今日は君に聞きたいことがあって来ました。
 はい、何でしょうか。
 手入れと例の約束のことなんだけど。
 あー、はいはい。
 あれってどうなるの? サチコに対して何でもしてやるの? 私にはなし?
 そうなりますね。
 えー。
 実はもう契約は履行されてしまいました。
 えー! さ、皿洗ったり、肩揉んだりしたの?
 いえ、腰痛を治してくれとのことでしたので。
 ……治したの?
 はい。
 そんなあ。
 あ、もうそろそろ時間ですね、では。
 待って! 行かないで!
 さようなら。
 ああ……、とがっかりしたところで目が覚めた。
 ヨウコは無表情で顔にかかっていた白い布をのける。ベランダに視線を移すと、すっきりしたアロエが最近また萎びてきたネギと仲良く並んでいた。思えばこのアロエとも長い付き合いだ。実家のやつを株分けして持って来たから、そこから数えて今年で五年目。そりゃあ美少年にも化けるか。
 ヨウコは立ち上がると伸びをして、冷蔵庫からアロエヨーグルトを出して食べた。焦ることはない。半年くらい放っておけばまた物凄いことになって、また夢の中に出てくるだろう。恋の終わりのような気分に陥りながら、ヨウコはそう思った。
 ヨウコはフリーターである。しかもバイトもしていない、文字通りの、世間の定義から大幅にずれたフリーターだ。普通はヨウコのような人間はニートと呼ばれる。時間は叩き売りするほど余っている。叩き売りしても余っているかもしれない。何も焦ることはないのだ。気長に待てば、時間はすべてを解決してくれる。
 アロエヨーグルトを半分残して寝転がると、犬でも飼うか、と大して意味もなく思った。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋にヨウコが居ない。週に一回、鍋の材料とそれ以外の食料と生活用品とを買うためにヨウコは外出する。もちろん外出するのは嫌なのだが、しなければ飢えて死ぬから仕方ない。溺死、焼死、餓死がヨウコ的嫌な死に様ワーストスリーだ。
 しかしその日、ヨウコは外出したことを心の底から後悔した。本当に死ぬほど後悔した。後悔死という死に様があるとしたら嫌な死に様ワーストワンにランクイン間違いなしだった。
 ヨウコは日の当たる坂道をてくてくと歩いていた。今日は晴れ。メゾン・サウス以外でも沢山の蒲団が干してあって、ヨウコは目の置き場に困っていた。
 休日なのか、家族連れも多く見かける。こらーっ、と主婦が歩道をはみ出したガキを叱っている。おお、今時こらーとは。ヨウコが感心しながらその主婦を見ていると、父親らしき人物がやってきて、ガキを抱えてひょいっと歩道に戻した。ガキはその男を見上げて、にっこりと笑った。主婦も安心した顔付きになる。幸せそうな家族だった。ヨウコの理想がそこにあった。
 だからこそ、ヨウコはそれを見て死ぬほど後悔した。
 その家族の父親は、ヨウコと駆け落ちした男だった。
 ヨウコは生まれて始めて神様の存在を信じて、そしてその神様に対してこう願った。
 今すぐ死ね。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向きの部屋を選んだのは、繰り返すようだが主婦が憧れるからだった。でも、本当に果たしてそれだけだったのだろうか。今となってはもう何だか分からない。隣の老夫婦は相変わらず謎だし(心なしかラップ音の頻度が増えた気がする)、ワカバヤシさんはこの前奥さんと大喧嘩していたようだし(喧嘩の最中にヨウコの名前が出てきたので死ぬほどびびってヨウコは漫画喫茶に逃げ込んだ)、管理人はハゲでオヤジで名字が南だ。訪ねて来るのはサチコと新聞勧誘くらい。何故好き好んでこのような場所に私は住んでいるのだろう、とヨウコはぼんやりと思った。
 外で、男に出会ってから三日が過ぎていた。今日は土曜日、サチコが泊りに来る日だ。来たら死ぬほど愚痴ってやるとヨウコは心に決めていた。それだけにすがってこの三日を生き抜いたと言っても過言ではない。
 普段なら正午を過ぎた頃に、幾ら没収してもなくならい合鍵を使ってサチコは勝手に侵入してくる。なのに、今は午後四時。サチコは来ない。
 ヨウコは不機嫌な猫のような唸り声を上げて携帯を手に取ると、サチコへと電話をかけた。食うや食わずやの貧乏人のくせにサチコは携帯電話を持っていた。十数コール待ってもサチコは出ない。いい加減に切るか、と思ったところでぶつ、と回線の繋がる音が聞こえた。
 もしもし、サチコ? あんた一体何やってんの?
 返事は、なかった。ただ砂嵐のようなノイズが途切れ途切れに聞こえてくるだけだ。
 サチコ、サチコ? ちょっと、返事しなよ。
 ……ヨウコ。
 ぼそぼそと、酷く遠くから聞こえてくるような感じだったが、間違いなくサチコの声だ。
 サチコ!
 ああ、最後に話せたな。よかったよかった。
 何言ってるの? ネギの食い過ぎで頭がおかしくなった?
 あー、そう。ネギ。アロエとネギの国に、私行ってくるから。
 は、はあ? さっきから何言って――サチコ?
 うん、まあ、可憐なアロエの美少年、しかもアロエとネギの国の王子様に惚れられてさあ。ちっと嫁いでくるわ。
 …………。
 しばらく帰れないと思うから。んじゃーね。……帰ったら男の愚痴、聞いてあげるからね。
 ……何であんたが知ってるのよ?
 ま、色々あるさ。人生だもの。それじゃ、切るよ。
 あ、待っ――
 電話は切れた。
 ツー、ツー、ツー……。
 リダイヤル。
 ――おかけになった電話は、現在電源が入っていないか電波の届かない場所にございます。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋から、サチコの家まで、歩きで大体三十分くらいかかるらしい。らしい、というのは、ヨウコは自分でも不思議に思うのだが、今までサチコの家に行ったことがないからだ。あれだけ頻繁にサチコが部屋にやって来ていたから、その必要がなかったというのもあるのだが。
 とにかく、以前何度か聞いていたサチコの家の前に、ヨウコは来ていた。歩きで二十四分かかった。見るからに安新譜な、ぼろぼろのアパートだ。フリーターに相応しい。
 何故外出嫌いのヨウコがここまで遠出(というほどでもないが)したのかと言えば、もちろん昨日の電話の内容を問い質すためだ。昨日、あの電話のあと魂が抜けたようにぼけっとしていたヨウコは、もう一度携帯電話を手に取って見て、爆笑してしまった。
 液晶画面に表示されていた日付は、四月一日。
 エイプリフールかよ!
 おんぼろアパートの二階二号室。そこがサチコの部屋だ。ノックして、待つ。出てこない。ヨウコはまた不安になってきた。あれから、サチコに幾ら電話をしても電源が切れているか電波が届かない云々というメッセージが流れるだけなのだ。ヨウコは更に強く、ドアをノックした。やはり出てこない。
 サチコ、悪ふざけは止めねえか! 出てこい!
 がんがんと腹立ち紛れにドアを叩くが、返ってきたのは無反応だけだった。
 うるせえぞ!
 突然、隣のドアがバンっと開き、ジャージ姿の若い男が廊下に飛び出してきた。ヨウコが驚き立ちすくんでいるのを見て、若い男はちっと舌を打ち、
そこは二年も前から空き部屋だよ。あんた、部屋間違えてるんじゃないか? と言った。
 ヨウコは騒いだことを謝り、サチコのフルネームと顔の特徴を告げて、若い男に知らないか? と訊ねた。若い男は根が善人なのか、しばらく真剣な顔付きをして首を捻っていたが、知らない、と答えた。
 ヨウコは男に礼を言ってアパートを辞した。
 本当は分かっていた。ここにサチコは居ないことくらい。ヨウコは、まず区役所に行って調べてみたのだ。結果、サチコはどうやら偽名を使っていたことだけが分かった。携帯電話から調べるという手も残っているが、無駄な気がした。
 サチコは、アロエとネギの国の女王様になったのだ。
 多分、それが真実なのだろう。

 ヨウコの部屋に南向きに置いてあるソファーの上で、ヨウコは泣いた。

 南向きのヨウコの部屋にインベーダーが到来した。チャイムもノックもなしに、鍵を掛けていたドアが開いたのだ。
 チェーンは、掛けていなかった。サチコならチェーンも開けれそうな気がしたが、一応気を遣ったのだ。
 サチコが帰って来た……?
 ヨウコはソファーから顔を上げ、玄関にダッシュで向かい、そしてそこにアロエとネギの国の女王様ではなく、インベーダーを見つけた。
 ヨウコの母ショウコ(52才・専業主婦)と、ヨウコの姉キョウコ(30才・OL・未婚)だった。審判のラッパが耳元で鳴り響くのを、ヨウコは確かに聞いた。
 何もない部屋ねえ、お茶菓子はあるかしら?
 連絡も寄越さずにやって来て、第一声がそれかいこのクソババア――という啖呵が言語変換されることはなかった。ショウコには何を言っても無駄であるという不変の真理はヨウコの骨の髄にまで染み込んでいた。
 仕方ないじゃないお母さん、ヨウコは昔からこうなんだから。やることなすことずれてるのよ。だから無職なんだし。
 その口の悪さは死ぬまで治んねえのか、フォローになってねえぞこのイキオクレ――という雑言も舌に上ることはなかった。キョウコには何を言っても千倍返しであるという不動の事実はヨウコの爪の先に至るまで刻み込まれていた。
 ど……。
 ようやくヨウコの口がやる気を起こす。
 どうやって入って来たのよ、ふたりとも。
 その至極まともな意見に、ショウコが答えた。
 大家さんに合鍵借りたのよ。
 あのハゲオヤジめ……、という内心を押し隠し、ヨウコは訊ねる。
 何しに来たのよ? ――今さら、とへたれなヨウコは付け加えれなかった。
 決まってんじゃない、あんたを連れ戻しに来たのよ。
 キョウコが雑草でも見るような目つきで言った。
 はあ? だって私は勘当――。
 解いてくれたのよ、お父さんが。
 ショウコが実に嬉しそうに言う。
 でも――。
 言っとくけど、あんたに逆らう権利はないわよ。
 もう、キョウコちゃん、そんな言い方しなくてもいいでしょ、ヨウコちゃん怖がってるじゃない。
 いや、あの……。
 もちろん帰るでしょう? お母さん、もう大家さんと話つけておいたの。
 ……話を、つけた?
 ヨウコが絞り出すような声で訊ねる。
 アパートの契約を解消したのよ、あ、もちろん必要なお金はきちんと払っておいたから、心配しないで。
 ヨウコは、肉親に、対して、初めて、本気で、殺意を、覚えた。
 分かった? あんたにはもう住む場所がないの、実家帰るしかないのよ。
 ヨウコの中で急激に膨らんだ殺意は、膨らんだのと同じくらいの勢いで萎んだ。所詮ヨウコはフリーター(ニート)でヘタレでただの家出娘だった。この二人に会うまでそんなことすべて忘れていた。
 どうしたの? 顔色が悪いわよ? ヨウコちゃん?
 あんた、ろくな食生活送ってないんでしょ。だから体調崩れるのよ。
 この二人には何を言っても無駄だった。いつもいつもいつも、そうだった。だから駆け落ちしてやったのだし、だからフリーター(ニート)になったのだ。いや、まあ、もちろんそれが全てではないのだけれど、ほとんど全てと言ってしまっても構わない。
 なのに。
 なのになのになのに。
 ……あんたなに泣いてんのよ、バカじゃない?
 あらあら、どうしたのヨウコちゃん。
 南向きのベランダから差す陽光の中、閑散とした部屋の中央、サチコがいつも眠っていたソファーの上で、ヨウコは黙って泣き続けた。
 二人のインベーダーは、インベーダー語でインベーダー同士インベーダー的な会話を続けていた。
 南向きの日光に照らされたソファーは、暖かかった。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 南向き。
 そこは南向きだった。
 二年振りに帰って来たヨウコの実家の南向きの部屋は、ただっぴろくて雑然としていて、そして遮光カーテンが完璧に日の光を遮っていた。
 ヨウコは部屋の入り口で悄然と立ち尽くす。
 ヨウコちゃんヨウコちゃんヨウコちゃん。
 ショウコがサイレンのようなおかしな抑揚でもってヨウコの名前を連呼した。
 なに。
 ヨウコは無表情に返事をする。
 引越し屋さんが来たから、部屋から出てなさい。
 はい。
 のろのろと部屋から出ようとし、ふと部屋の中を振り返った。取りつく島もないその南向きなのに冷たい部屋が、何となく励ましてくれたような気がしたからだった。バカバカしかった。バカバカしすぎて涙が出た。いかん、涙もろくなっとる、と慌ててヨウコは涙を拭う。
 あの唐突の侵略から僅か二日後である。あの時ソファーの上で泣き止んだヨウコにショウコとキョウコは、さあ、引越ししましょう、とさらりと言い、そして一時間後にはそれが現実のものとなったがヨウコにはそれがとても現実の光景とは思えなかった。ヨウコに、思考の時間は徹底して与えられなかった。与えられたのは荷物をさっさと纏めろという命令だけだったからヨウコはそれに迷える仔羊のように盲目的に従い、そして現在、ヨウコはここにいる。
 携帯電話まで何時の間にか解約されて新しくなっていた。サチコの番号が入っている旧携帯はあの糞ったれなメス豚共に没収された。今頃は資源ゴミにでも出されているのかもしれない。まあ、サチコはアロエとネギの国でよろしくやってるんだろうけどさ。
 やってらんねえ、とヨウコは思い、庭に出てタバコを吸った。手入れのされたアロエの鉢が五個、日向で呑気に突っ立っていた。サチコの消息を尋ねようかと思ったが、ヨウコにはどれがメゾン・サウスのベランダにあったアロエなのかは、もう分からなかった。

 ヨウコの部屋は南向きだ。

 ヨウコの部屋にヨウコが居る。
 それは至極当たり前のことのように見えてその実酷く胡散臭い景色だった。少なくともヨウコはそう思う。これからもこの違和感は消えないのかしらと自問し、消えないのだろうなと自答してヨウコはどうでもよくなった。真実どうでもよかった。こんな気分になったのは男と別れて以来だった。ある意味初心に返ったわけだ。最悪だ。
 ヨウコは呪わしげな目で苛々の原因、部屋の隅にでんと居座る巨大ベッドを見遣る。こんなのは主婦じゃないと口の中で小さく呟く。床に蒲団を敷いた。
 今は昼の一時だがヨウコは文字通りのフリーターだから眠たくなったら眠る。南に足を向けないようにした。風水で良い方角はどちらだったか思い出そうとしたが何一つとして思い出せなかった。どこかで確かに聞いたのに。ヨウコの記憶力なんてそんなものだ。これからもどんどんどんどん色々なことをこの生きていく上でそれ程役に立っていない脳みそは忘れていくに違いがなかった。
 へ、それならそれで構わなねえぜ、とヨウコはひねた心持ちで思った。
 時間は、忘れたという事実さえも忘れさせてくれる。いつの日か、サチコと食べた鍋の味や男のことや何故自分が南向きが好きなのかも忘れてしまう日が来るのだろう。そうやってこの自分も大人になっていくのかもしれなかった。
 だがとにかくそんなこととは一切合切関係なく今は眠る。蒲団を被って、目を閉じた。遮光カーテンは光を完全に遮断していた。南向きなのに部屋は暗かった。壁紙もカレンダーも安心だ。そんな暗闇の中だからだろうか、眠りに落ちる前に、あの日あの時、インベーダーがやって来た時以降のことはひょっとしたら全て夢なんじゃない? とふと思った。
 ザ・夢オチ。
 この現実感の無さ加減からそれは多いにありそうだと、一人蒲団の中でヨウコは納得した。それはとても素敵な考えだった。だけど意味がなかった。それでも構わない、とヨウコは思った。それでも構わない、どうせ今より下の状態なんてないんだから。わたし自身が無意味なんだから。光のない部屋で、ヨウコはそう思った。
 だからヨウコは幸せな眠りに落ちて――そして幸福感に包まれたまま目が醒めた。
 夢は全然見なかった。
 それを悲しいとも思わなかった。
 ただ、眠る前に考えていたことを思い出し、辺りを見回した。
 そこは、

 南向きのヨウコの部屋だった。


Youko in the Southern Room. THE END


あとがき

 そんなわけで「南向きのヨウコの部屋で」なのでした。いかがだったでしょうか。
 これは以前に掲載した「電信柱とジキタリス」より更に古い時期に書かれた、僕が二番目に完成させた小説です。恐ろしいことにワードのファイル作成時期見ると2003年とか書いてあります。何故今こんなものを……? いや他の人たちがなんか過去作アーカイブしてるのを見ていいなと思って……まあ人様の真似事です。
 確かこれを書いた時期、藤野千夜にどハマりしていた記憶があります。当時「ほしのこえ」で新海誠監督の大ファンになり、HPも熱心に拝読していたのですが、その中で「少年と少女のポルカ」がオススメされていてって流れだったような。軽妙なやり取りとか、読みやすさ重視の文体とか、地の文だけで進めるとか、もろ影響が見て取れて微笑ましいです。そして文章力自体はこの頃からほぼ進化していない事実に愕然とします。
 確かこれも作家でごはんに投稿して、そこそこ好評を頂いたのを覚えています。あそこで褒められたから途中何年もブランクがあっても結局小説書いてしまうのだよな。これは呪いか、それとも罰か――祝福ですね、はい。
 もう一作、ヨウコとサチコが出てくる作品があったりもするんですが、いずれそちらもアーカイブ化すると思います。作中ちょっと出てきた、謎のラップ音を解決するお話です。
 しかし読み返して思うのは、僕もヨウコみたいな暮らしがしたい。
 ここまでお読み下さりありがとうございました。草々。

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居石信吾
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