絶罪殺機アンタゴニアス外典 〜押し潰されそうな空の下で〜 #8
――何かが、変わった。強いて言うならば、それは空気だろうか。いや。世界だ。世界の理が、撓み、捩じれ、軋みを上げている。
哄笑しながら罪業場を展開し、アーカロトへと降下中だった内臓獄吏は敏感にそれを感じ取ると、空中でその動きを止め、ぐるりと周囲を索敵する。数人のお人形(こども)たち。一人の老婆。熱線罪業場から逃れるように物陰に潜んでいる。それだけだ。増援が来たわけではない。
では、これは。
その時、ヒュートリアの意思に反して背中の触手群がぎゅっと収縮し、グラビトン軽減罪業場が弱々しく明滅した。青き血脈の少女の呪詛と科学者達の妄執で編まれた、規格化罪業場が。何かに怯えるように。
超常の支えを失い、内臓獄吏の巨体が落下する。
「なぁっ――!?」
アポート罪業場を発現。引き寄せの対象は「大気」。前面に大量に集められた空気は圧縮されてショックアブソーバーの役目を果たし、何の支障もなく傾いだエレベータに着地した。
「貴様ぁ、『何』を呼んだ……?」
アーカロトは俯いて動かない。だがぼそぼそと、何かを喋っていた。
「君たちが滅びなくて良かったと、僕は思ったんだ」
両手の銃をだらりと垂れ下げたその姿は、傷つき憔悴して雨の中に放り出された子供のようであり――或いは長年動くことのなかった蝶の標本がぎこちなく羽ばたこうとして果たせなかった姿のようでもあった。
「例えその魂が汚れていようと――滅んでいなくて、本当に嬉しかったんだ」
アーカロトの言葉に重なるように、どこからか『声』が聞こえてきた。老人と、子供と、男と女が同時に喋っているようなそれは、他の誰でもない、ヒュートリアに向けてこう言った。
《咎人よ/ゆえなく消ゆる/かぎろいよ》
「誰だ!」
周囲の壁を引き寄せる。メタルセルが無理やり引き裂かれエレベータシャフトにいくつもの横坑が空いたが、そこにはやはり誰もいない。
「君たちから空を奪った事を、僕はだから微塵も後悔していない」
下だ。下に、「何か」が、居る。
世界を滅ぼすが如き、禍々しき気配を纏った何かが。
アーカロトが、顔を上げた。灰色の髪の間から覗く目には、様々なモノが去来し、打ち消し合い、巨大な感情が渦巻いているにも関わらず酷く凪いでいた。
「だけど、継いだんだ。誓ったんだ。『誰も泣かない世界』を作ると」
アーカロトは銃を構える。効かないと分かっているはずの銃を。
「どうすればいいのか、まだ僕には分からない。だけどこれだけは一つはっきりとしている」
内臓獄吏は――ヒュートリアは圧倒的優位な状況は何一つ変わっていない筈なのに、数十年振りに思い出していた。恐怖という感情を。
「その世界を創るためには、きっと多くの血と涙を流さければ辿り着けない。多くの者達を護らなければならない。シアラ、ダリュ、カル、ジュジュ、レミ、レム、トト。彼らの明日を作らなくてはならない。
――だから、ヒュートリア。僕は君を斃す」
ヒュートリアは凝り固まった触手を無理やり解くと、罪業場を再展開させる。同時に胸の罪業収束器官の出力も最大へ。
「ほざけ! 大罪人がッ!!」
「ああ、そうだ。僕も罪人だ。だからこれは裁きではない。ただの殺人だ。僕たちの作戦目的のための身勝手な行動だ。だから君も遠慮無く来るがいい」
「死ね! アーカロト・ニココペク!」
「死ぬのは君だ、ヒュートリア・ゼロゼアゼプター。
――絶罪、」
《執行――》
絶罪支援ユニットの宣言を合図に、両者は動いた。
アポート発動。引き寄せて、背中の触手で貫いて終わり。簡単なことだ。
だが。
「――!?」
『重い』。視認した対象を瞬時に引き寄せるこの罪業場は、対象の質量に左右されない。数百トンのメタルセルの塊だろうと、機動牢獄だろうと、子供の身体であろうと等しくそれはヒュートリアの手許にやってくる。
彼女の理解の埒外であったが、それは物理的質量でなかった。罪業的質量がとてつもなく巨大なのだ。故に、不動。
ならば灼き滅ぼすまで。白光が迸る。空気がオゾン化し、独特の臭気が辺りに漂う。
アーカロトは初撃を躱した。奇妙な動きだ。くるくると、舞うような螺旋の動きでこちらに近づいてくる。二発目、三発目、全て躱す。その度にアーカロトの動きは加速していく。目に追えない速度の高みへと。人智を超えた力で。
「死ね死ね死ね! 貴様が死ねば、空が戻るんだ! 夢が叶うんだ!」
内臓獄吏は叫びながら闇雲に光線を発射する。防御は全くしていない。この半透明の状態は身体中の粒子を量子化しており、物理的攻撃は全て「当たらなかった状態」に書き換えることで無効化が可能なのだ。
だから触手の一本が吹き飛ばされた瞬間も、痛みや屈辱よりも先に疑問が来た。
「がああああああ!!!」
グラビトン軽減規格罪業場を展開させたまま触手を振り回す。空気が「軽く」なり、熱線による上昇気流と合わさった灼熱の突風が吹き荒れた。全周囲に叩きつけられる数百度に達する竜巻はしかしアーカロトに届かなかった。
ヒュートリアは目を見開く。熱で歪んだ視界の中、知覚不能速度にまで達したアーカロトの移動した跡だけは全く周囲の環境の影響を受けていなかったからだ。現在のアーカロトは慣性中立化罪業場に包まれている。故の無影響。故の超速移動。
一歩、踏み出す。足元で黒紫の勁気が炸裂し、鋼板が花めいてめくれ上がる。
一歩、踏み込む。全身の経脈を昏く熱いエネルギーが循環する。馴染み深いその感覚に更に動きは加速する。
ただ前に駆け出すというだけで、それは威力を帯びた震脚となり、地下のアーカロトが指定した座標に鎮座する絶罪支援ユニットから不浄なる力――第五の大罪、アーカロトの持つ罪業を汲み上げてくる。
暗い目の男が、その最期の戦いで用いた戦法。絶罪殺機の大罪と銃機勁道の組み合わせ。地下と言っても僅か十数メートルしか離れていない。絶罪支援ユニットの罪業場は問題なくアーカロトを保護している。この狭いエレベータシャフト内では絶罪支援ユニットを動かすことは出来ない故の奇策だ。暗い目の男は流れこむ罪業に耐え切れず身体を蝕まれていたが、アーカロトにとっては自らの血と何一つ変わらぬ。
黒紫の罪業が込められた弾丸は、量子化された内臓獄吏をも問題なく撃ち抜いた。全ての絶罪殺機は第一大罪(フォビドゥン・セフィラ)と超次元的に繋がり、幽世の異なる法を現世に顕現させる。この世にありながら、半ばあの世の定めに支配された弾丸はあらゆる守りを無効化する最強の矛だった。
内臓獄吏は吹き飛ばされた触手を自ら切り捨てると、残った六本を昆虫の脚のように用いて這うように移動し連続被弾を防いだ。
「僕が死ねば空が戻る? 誰が言ったんだい、そんなこと」
両銃を発砲。胎を裂かれた女の絶叫にも似たおぞましい音と共に、黒紫の軌跡を空間に刻みつけながら飛ぶ鉛の塊は、高速で動作している触手を更に4本まとめて吹き飛ばした。
ぐちゃあ、と血の跡をつけながら内臓獄吏は床に無様に這いつくばった。アーカロトはつかつかと歩み寄る。罪人の魂を――内臓獄吏が受け継いできた罪に塗れたその根源的主観を速やかに聖域(じごく)へと導くために。
黒紫の勁気により内臓獄吏の表面の赤黒い装甲は全て溶解し、胸部の罪業収束器官も罪業回路を逆流してきた大罪の負荷によって焼き切れていた。脚も膝が逆方向に曲がっている。
「お前が空を――夢と希望を――」
譫言のように、ヒュートリアはまだ喋り続けていた。『一体誰から大罪のことを聞いたのか』――その情報を聞き出そうとしたが無駄なようだった。アーカロトは諦め、介錯の弾丸をその頭部に叩きこもうとしたその時――内臓獄吏の最期の隠された機能が発現した。
――罪を継がねばならぬ。罪を遺さねばならぬ。親から子へ。適わぬならば他人へ。
「ごぼあ!」
内臓獄吏の爬虫類じみた口内から、先端に針のついた吻が飛び出した。針は更に先端が分割され、無数のマイクロニードルを高速で射出。マイクロニードルの中に含まれているのは内臓獄吏のDNAと圧縮された罪業情報。
殺到したそれらは、至近距離にいたアーカロトに全て命中した。
【続く】
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