ソウルフィルド・シャングリラ 序章(3)
少年は再び目覚めた。
足がふらつくのを堪えて立ち上がる。一体どうなっているのか、何が起こったのか、少年には全く理解できなかった。
ざっと体を点検する――無傷だ。ただ、つぎはぎだらけの服の胸の部分には穴が開き、泥水で汚れきっていた。撃たれたのは確かだ。なのになぜ、ぼくは、生きている?
そこで、気づく。
体が濡れている――雨で。服が汚れている――泥で。
血は? ぼくの体から流れた血はどこへ消えた? 雨で流された? 全部?
地面に目を落とす。そこにあったのは、期待していたような血染めの水溜りではなく、銀の煌きだった。拾い上げる。疑問だけが頭を占めていた。だから、その行為は考えてのものではなかった――或いは何が起こっていたのか無意識では知っていたのかもしれない。
ナイフを逆手に持ち換えて、己の胸に、勢いよく突き立てた。
さっきあれだけ胸から流れたのに、血はまた驚くほど高く噴き出した。雨に流される紅い飛沫。下がりゆく体温。目の前が段々と暗くなって、
「――ぐっ? かふ、?」
せり上がってくる嘔吐感と激痛の中、ナイフを持つ手に、それを感じた。
押し戻されている。
ナイフが。肉に。
薄紅色の肉芽〈にくが〉が、黄色い脂肪が、ナイフに絡みついて体内から刃を排除する。雨に流されたはずの血液が泥水と分離して肌をざわざわと登ってくる。血は傷口の近くで一瞬探るように蠢くと、一斉に流れ込んできた。死人の色になっていた肌に、赤味が戻る。揺らめいていた肉芽の群れが瞬時に収縮し、最後にひときわ湿った音を立てて体内に引き込まれる。痕から、薄らと湯気が立つ。
酷い眩暈がしたが――今度は気を失いすらしなかった。
先ほど調べた時には無意識に見ないようにしていた胸を、たった今異常な現象が起こった自分の体を、少年は意を決し今度こそ
見た。
10発の銃弾に打ち抜かれ、今ナイフで貫かれたそこは、蕩けていた。
直径、深さ共に一センチ程度の窪みがあちこちにあり、重なり合って広い面積で凹んでいる。それらが、周囲の筋肉や組織を巻き込んで、溶けたガラス越しに見る風景のように歪んでいた。視線は自動的に左手に向かう。そこも――やはり子供が戯れに捏ねた泥のように肉が捩〈よじ〉れ、抉〈えぐ〉れていた。
精神が決定的に狂ってしまう前に、とっくに狂っていたらしい体が反応した。
「ぐぇうっ……、っ、ぇぇぇぇぇぇ」
激しい嘔吐。血も混じっている。それが予想通り吐寫物と分離して口内に戻ってくる。胃酸の刺激と血液の鉄臭に耐えきれず、また吐く。
涙は溢れ、喉が傷つき、再度血が混ざり、それが口腔内に戻り、声帯が不自然に蠢動〈しゅんどう〉し、ぎちぎちと傷口を不細工に塞ぎ、
「あ、あああ、ぁぁああああぁぁぁっ!」
少年は、慟〈な〉いた。恐怖のせいではなかった。嫌悪でもなく、痛みでもなく、母の後を追えない悔しさでもなかった。ただ、悲しくて。
ただただ、悲しくて。少年は慟き続けた。
†
眞由美がいなくなって10日が過ぎた。
(絶対、彼女は見つからない。よくないことに巻き込まれたに違いない)
あの子の声を無視して、少女は眞由美を探した。探し続けた。
お父様に尋ねたら、あの子は辞めてしまいましたよ、という答えが返ってきた。また新しく人を雇うから安心して下さいとも言われた。
お母様に尋ねたら、知らないわ、という答えが返ってきた。そんなことよりも勉強はどうしたのかとも言われた。
他の侍女や使用人たちに尋ねてみても、みんな一様に口が重く、自分は何も知らないと首を振るばかりだった。
人に訊いてもろくな答えが返ってこないのを悟ると、少女はいつまでたっても使いこなせない有機量子コンピュータを一生懸命使って、ALICEネットの広大な情報の海を、眞由美の痕跡がないかと何日も探し回った。無駄だった。ネットへのアクセス制限が一段と厳しくなっていたのだ。少女の知識と技術では、制限を解除することは不可能だった。
そして10日がたち、少女はついに結論した。
眞由美は、消された。単にいなくなったのではない。眞由美がこれほどまでに自分の痕跡を絶って少女の前から去る必然性は皆無だった。誰かに消されたのだ。
「何があっても泣かないで下さい、悠理様」
あの後、少女が泣き止むまで眞由美は優しく胸に抱いていてくれて、そして、
「しばらく忙しくなるのでお会いできなくなります」
と言った。何をするのかと問うた少女に、眞由美は悪戯っぽく笑いながら答えた。
「ちょっとした準備ですよ。あとは少し調べることもあるかもしれません」
そして、恐らく知ってはいけない何かを知ってしまったせいで、彼女は少女の前から姿を消した。消された。その何かとはあの子に関係することに違いない――わたしが不用意に口を滑らせてしまった秘密に違いない。少女は鍵をかけた部屋の中、ふかふかのベッドの上で、ふわふわの羽毛布団を頭から被り、懸命に思考する。
必ず、必ず、眞由美を見つけてみせる。
小さな体を布団の中でぎゅうっと縮め、決意を魂に刻み込む。だがそうやって精神を奮い立たせても、既に肉体は限界に近づいていた。もう、3日も不眠不休で一人こうやって部屋に篭もり思索を続けていたのだ。
だからいつの間にかベッドの脇に人が立っているのにも、少女は全く気づかなかった。
「――ユウリさん。起きて下さい」
――お父さま?
もそり、と少女は生気のない顔を上げ、凍りついた。
父だけでなく、母もいた。母以外にも、見知った使用人や、見知らぬ白衣の人たちや、黄色い防護服を装着した異様な人たちもいた。銃を携帯している者までいる。何故こんな人々がここにいるのか。その理由は今の少女には思いつけない。なぜなら、巨大な混乱が少女を襲っていたからであり、その混乱とは、父と母が、
笑って――
「大丈夫、ユウリ? あらあら、顔が真っ白よ?」
心配の色を混ぜた笑顔で、母が言った。母が。あの母が。わたしを心配し、そして、
――どうして、笑顔を。
問題ありません、と母の傍らに控えていた男が返答した。むしろ『都合がよい』くらいです、と続け、母に鋭く睨まれる。
「ユウリさん、よく聞いて下さい。ついに私たちはあなたの機能障害を正せるのです。あなたは、そして都市は、100年来の宿願、在るべき姿に戻れるのですよ」
父の背後で、母が満面の笑顔で頷いた。父は怯える少女になおも言を重ねる。
「あの侍女がもし何か言っていたのなら、気に病む必要はありません。後で会わせて差しあげましょう。もう一つのあなたについても全く心配しなくていいのですよ。万事、こちらに任せていれば平気ですからね」
凍りついていた少女は、その一言で砕け散った。
分かり切っていた、だからこそ一度も考えず、考えたくもなかった答え。
社内の――しかも天宮の血統のALICEネットにアクセス制限をかけられる権限を持つのは父だけ。そして、使用人の人事を管理しているのは母。そこから導かれる、当然すぎる解。
笑顔を貼りつけて少女を取り巻く、否、包囲する大人たち。
違う、と少女は強く思った。
その笑顔は違う。
「わ、わたしによるなっ。こないで、お、お願いします、いや、やめて、くるな……!」
枕を抱き締め、少女はベッドの上をじりじりと退がる。しかしその分だけ包囲は狭まり、少女は追い込まれていく。
「落ち着いて、ユウリ」
母が優しく労わった。
「大丈夫ですか、ユウリさん」
父が気遣わしげに微笑んだ。
強烈な違和感。違う。その笑顔は違う。そしてその名前も自分の名ではない。その名はわたしをすり抜けていく。わたしに本当の笑顔を向けてくれたのは、わたしの本当の名前を呼んでくれたのは、眞由美だけだ。だけだった。眞由美は、いない。消し去られた。
誰に?
(父と、母に。ここにいるやつら全員に)
「……よ、寄るなあぁ――っ!」
叫び、ベッドの上にあった物を手当たり次第投げていく。しかし体力の損耗は著しく枕は情けない放物線を描いて落ち、目覚し時計に至っては持ち上げることすらできなかった。
「錯乱しましたか――大人しくさせなさい」
そんな父の言葉を最後に、意識が真っ白になった。
(ああ、遂にこうなってしまった。不快で不可避などうしようもないことなのだけれど)
(これから起こることの、既定の基底なのだけれど。それでも――悠理、ごめんなさい)
――誰かに謝られる、夢を見た。
目が霞む。全身がだるくて、痛い。呻き声を上げ、身を捩ろうとしたが叶わなかった。動いたぶん痛みが増しただけだ。揺れる視界をなんとか固定し、少女は自分の置かれた状況を把握しようと努める。
円形の、そう広くない部屋だった。暗く、羽虫のような機械の作動音が低く響いている。少女はその中央で、磔刑そのものの格好で十字型の台座に拘束具で縛められていた。床は青白く微発光する一体成型素材で滑らかに覆われている。明かりと呼べるのはそれだけだ。天井は高すぎて闇に埋もれていた。
落ち着こうと思い、だから少女は眞由美のことを考える。
――大丈夫です、と眞由美は言ってくれた。少女の名前を呼んでくれた。笑いかけてくれた。笑わせてくれた。抱き締めてくれた。温かかった。たった一人の友だちだった。そして姉であり、母でもあった。
ああ、会いたい。会って謝りたかったし、それに、とてもわがままなお願いだけど、自分を、助けて欲しかった。
そんなふうに考えていたからだろうか。闇に慣れ始めた目に、眞由美の姿が見え出した。
――なんだ、幻覚か。
頭の片隅で、奇妙なほど冷静にそう思った。わたしは、いよいよ狂ったんだなあ、と。
でもおかしいな、幻にしては全然消えないし、それになんであんなに、
ひどいかっこうで。
――違う!
これは、幻なんかじゃない。
少女は眼前の光景に魂を奪われた。正面、5メートルほど離れた場所に眞由美はいた。少女と相対するように、巨大なガラス筒の内側で液体の中に浮かんでいた。間違いなく、眞由美だった。一目で分かった。例え裸で、目が真っ赤になっていて、艶やかだった長い黒髪が真っ白になっていようとも。様々な管や大小の針が身体中から生えていようとも。少女にとってそれは、眞由美以外の何者でもなかった。
「――眞由美!! わたしだよ、悠理だよ! 大丈夫!? ねえ、へんじして! まゆみぃっ!!」
少女の叫びが届いたのか、俯いていた眞由美の首がぬらりと持ち上がり、その唇を、動かした。
こ・ろ・し・て。
朦朧〈もうろう〉とした視界と暗い部屋の中、しかしその動きは無残なくらいはっきりと見て取れた。紅く変色した眞由美の眼は瞬きもせず少女をただ見据え、唇は呪いのように、祈りのように、ただ繰り返す。
――ころして、ころして、ころして、ころしてころしてころしてころしてころしてころしてころしてたすけてころしてたすけてころしてたすけてたすけてたすけて、た、す、け、て
たすけて ゆうり
……やがて、いつしかそれは止み。紅い眼から涙のような赤い血を流しながら。
引瀬眞由美は、大きな家、小さな世界でのたった一人の少女の友達は、
息絶えた。
(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。眠って、悠理。あなたが壊れてしまう前に)
(今ならまだ間に合う。奴らからあなたを守れる。眞由美の犠牲は無駄にしない。だから)
「いや、いやぁぁああああぁぁぁっ!」
少女は、哭〈な〉いた。恐怖のせいではなかった。嫌悪でもなく、痛みでもなく、親友を救えなかった悔しさでもなかった。ただ、哀しくて。
ただただ、哀しくて。少女は哭き続けた。
(だからお眠りなさい、悠理。奴らが欲しているは、私だけなのだから)
(どうか、ああどうか、赦してください。あなたには、悪いことをした)
あの子の意思を頭の片隅で感じながら――少女の意識は闇に墜ちた。