竜華透夢
見渡す限りの草原に、塔が林立している。あれら一本毎に、竜が棲まう。
近づいてみると、塔は意外な程に高い。白く、滑らかで継ぎ目は無く、いつの時代にどうやって建てられたのか、誰も知らない。一説によればそれは竜が魔法で創りあげたのだと云う。
朝方と、夕暮れ。明暗の境の空を、竜が舞う。竜の飛び方は独特で、その強大な翼を殆どはばたかせず、ヒューン、ヒューン、と風切り音だけを響かせる。竜の鈍色の鱗が赤い陽に輝き、同族と戯れに絡み合う様を、幼い私は飽きもせず街壁に登って眺めたものだ。
竜は人を襲わない。人に何も求めない。人が竜を襲ったという記録もないが、人の求めに竜は応える。だから共存ではない。人が一方的に竜から恵みを得ているのだから。
私たちの街は、竜によって生かされている。
街の外れ、壁のすぐ内側に、偽竜の塔と呼ばれる建物がある。灰色の石を積み重ねたそれは、竜と人との交信の場であり、儀式の祭壇である。
十二年に一度、その祭壇で人は竜に供物を捧げる。竜はそれに応じ、街に恵みを与える。
今年、私は十二歳に成る。
竜への贄として、あの塔の頂きへと、私は登る。
✤
そのような夢を、私は見る。
そう、夢だ。現実の私は一七歳だし、街のどこを探しても白い塔など立っていない。
学校のクラスではどちらかと言えば目立たない方。これは私が部活動に所属していないので、部ごとの結びつきが比較的強い我が校では変わり者としてなんとなく距離を置かれているからだ。
部活動に入らなかった理由は、夢のせいだ。高校に入学した時から、私は「竜の夢」を見始めた。随分悩んだ末に親に相談したら少し大事になってしまい、私は一年生の一学期、暫く精神科へ通院していた。その様な状況だったので部活どころではなかったのだ。
病院へは早々に通うのを止めてしまった。ニコニコしながら夢はもう見なくなりましたと嘘をつくと、医者はあっさりとそれを信じ、親はとても喜んだ。
本当は、毎晩見ているのだけれど。
しかしやはり夢は夢なので、内容や風景をきちんと覚えているわけではない。夢の中の私は現実の私のことを全て忘れているようなので、あちらで何か特別な行動を起こせる訳でもない。
ただ、どうやらこのままでは私はあと一年で、竜へと捧げられてしまうらしかった。
夢の中の私が死ぬと、どうなるのだろう。最近はそればかり考えている。
だから、友達を作ることもなく、私はいつものように一人で帰路についた。帰宅する人々でごった返していたが、運良く空いている席を見つけると私はいそいそと腰を下ろす。幾人かの恨めしそうな目がこちらに向けられたが、女子高生だってそれなりに疲れているので許してほしかった。
家の最寄り駅へ近づくにつれて人は降りていくが乗ってこない。段々静かになる車内と、車体の揺れは、慢性的に寝不足気味な私を眠りへと速やかに導いた。
✤
私は干し草の山の上に寝転がって、空を眺めていた。気の早い夏の星たちがもう瞬き始めている。その星を時々黒い影が覆い隠す。竜だ。風切り音が微かにここまで聞こえてくる。
「こんなところでサボってたのか」
男の子の声が、すぐ上で聞こえて私は危うく転げ落ちるところだった。
「竜姫さまがそんなんでいいのかよ」
アヴィオールだった。私より一つ下の、隣の商家の息子だ。
「別に……だってお母さんがあれこれうるさいんだもの。身体に気をつけるのよ、とか」
その様は私の目にはやや滑稽にも映ったが、一人娘が竜に捧げられる親の心境を考えると同情に似た気持ちが湧いてくるのだった。
「そりゃあ……そうだよな。万が一怪我でもしたら大変だ──ってじゃあこんな高い所にいるのもまずいだろ」
「慣れてるから大丈夫」
あのなあ……とぼやいたアヴィオールは、やがて私の横に腰を下ろした。
「何を見てたんだ?」
「別に。何も」
言ってから、突っ慳貪に過ぎたかとちらりと横を見たが、アヴィオールは空を見上げたまま気にしていないようだった。私も、また空を見上げる。
「なあ」
「なに」
「本当に……」
そこで、ぐっとアヴィオールは何かを飲み込むような溜めを作って、続けた。
「本当に、竜姫に、なるのか?」
私は少し意外な顔をして、視線をアヴィオールへ向けた。彼は、とても真剣な顔で私を見つめていた。竜姫──竜への供物へと選ばれたのは今から六年も前のことだ。アヴィオールとは良く話すし、遊びもしたが、二人の間でこの話をするのはそういえば初めてのことだったと気づく。
「──どういう意味?」
本当に意味が分からなかった。私が選ばれたのだから私が成る。それは街の掟であり、六年間その事に疑問を抱いたことすらなかった。
「お前、竜姫さまがどうなるか、知ってるのかよ」
私はますます混乱し、答えた。
「知ってるよ。竜へと捧げられた者は、」
✤
──竜へと捧げられた者は、竜へと成る。
私は電車の中で顔を上げた。
うとうとして一瞬、夢を見ていたらしい。夢の中の私が言った言葉だけが泡のようにまだ周囲に漂っていて、私はその泡を見つめていた。
つまり。夢の中の私は。死ぬわけではないらしい。
「──悪くない」
ぽつりと、漏らす。
そうだ、悪くない。そう思った。
「なんで、そう、思うんですか」
いつの間にか目の前に立っていた男の子──多分、同学年くらい──が、ほとんど呆然とした調子で、そう言った。
✤
灰色の街は、灰色の石で出来ている。街は壁に囲まれており、常に宅地の半分が日陰になる。
僕はこの街が嫌いだった。自分たちでは何一つ決められない大人たち。上位存在へ、超越者へと自らの行く末を委ねてしまった者特有の、弛緩しきった諦観と安らかな絶望。
人は、竜へと自らの主体を明け渡し、代わりに繁栄と安息を得た。
竜への供物は、十二歳の処女。
竜の伴侶、竜姫に選ばれた者は、竜に成る。
偽竜の塔と呼ばれる祭壇にて竜の息吹による祝福を受け、その存在を昇華させるのだ。
竜は永遠なのだという。竜に成ることはこの上ない幸福なのだという。竜が街を襲わないのは、竜の大半がもとは街の住人だからなのだという。
それらは大人のおためごかしにしか聞こえず、僕は一切信じていなかった。
──いや、小さい頃は無邪気に信じていたとも。街の壁に登り、親が心配して迎えに来るまで、黄昏の空を竜が舞い遊ぶ様を眺めていた。
十二年に一度、竜姫は捧げられる。そしてその六年後、健康に育った少女の中から新たな竜姫が選定される。
僕の幼馴染、ミアが神官の引いた籤によって選ばれた時、彼女の家族は押し黙っていた。だが僕は確かに見た。
ミアが、微笑んだのを。
その微笑みが忘れられなくて、彼女の前では絶対に竜姫についての話をしないことにした。
真意を知るのが、怖かった。
だが、とうとう抑えきれなくなった。
後一週間で、ミアは偽竜の塔へと登り、竜姫と成る。この街を護る竜の一柱と化す。
竜婚の儀の前の六日間、街は盛大な祭りを催す。既に灰色の街のあちこちには篝火が焚かれて煌めいていた。色とりどりの飾り付けは、まるで話に聴く遠い異国の首都のようだ。
その六日の間、竜姫は一日かけて偽竜の塔を一段づつ登っていくのだ。だから、今日が人として彼女と会話できる最期だった。
最初は彼女の家へと向かったのだが、出迎えてくれたのは酒を呑んで荒れているミアの父親と、半狂乱でミアを探しに出ようとする母親だった。
宥めて話を聞くと、家族で最期に過ごす時間をミアは放り出して何処かへ姿を晦ませたらしい。
まさか、と思った。六年前の彼女のあの微笑みは。どう見ても歓喜の物だったのだから。今更自らの勤めを放棄するとはどうしても思えなかった。
探してきます、と言って彼女の家を飛び出した。彼女の行きそうな所には幾つか心当たりがあった。
三件目で、見つけた。
壁沿いの広大な農場の片隅に積まれた、干し草の山の上。
別にこっそり登った訳でもないのに、ミアは僕の存在に全く気づいていない様だった。まるで魂を吸い上げられたかのように空を見上げている。空にはいつものように竜が舞っていた。
僕は彼女になんと声を掛けたものか散々迷ったあげく、全然この場にそぐわない言葉を投げた。
「こんなところでサボってたのか」
ここは僕と彼女が家の仕事をサボるのによく利用した場所だった。
二言、三言会話を交わした後、僕はついに直截に訊ねてみることにした。
「本当に、竜姫に、なるのか?」
彼女は少し意外そうな顔をした。六年間、全く触れてこなかった話題を今更蒸し返すのかと、怒り出しやしないかと僕はヒヤヒヤしていた。
「どういう意味?」
本気で何故そんな事を訊くのか、と言った調子だった。怒りではなく純粋な疑問。
「お前、竜姫さまがどうなるか、知ってるのかよ」
僕はやや語気を荒げ、そう問うた。
「知ってるよ。竜へと捧げられた者は、竜に成る」
そして、彼女はあの日と同じ顔で笑んでみせた。
「ずっと、この日を待ってた」
その顔を見て、僕は俯くしかなかった。
ああ。彼女の精神は既にここにいない。もう天から見下ろしているのだろう。それほどまでに、透徹した、それは純粋な──歓喜。
彼女が竜姫に選ばれた理由が分かった。多分、それは彼女が一番竜に近かったからだ。この街の誰よりも。
僕は静かに目を閉じて、僕だけの秘密を打ち明ける事にした。
「なあ、ミア。ここじゃない世界の夢って──見たことあるか?」
✤
そのような夢を、僕は見る。
そう、夢だ。現実の僕は一七歳だし、空に竜など飛んでいない。
僕は引きこもりだ。学校には初日以来行っていない。だが親は特に何も言ってこず普通に接してくれる。ありがたかった。
学校に行かなくなったのは、夢を見始めたからだ。ここではない、どこか別の世界の夢。この夢を解明しようと思った。それほどまでに、夢は真に迫っていて……まるで実際に僕がそこにいるかのような臨場感があった。
だが調べれば調べるほど分からなくなっていった。確かに生贄や、祭壇としての塔、自然の暴威の象徴としての竜など合致する風習や伝承は世界各地に存在した。ありふれていると言っていい。だからこそ分からないのだ。あの竜が存在する夢は、僕がそういったありものの情報を無意識で組み立てたにしては──出来すぎている。自分でそれほど想像力が豊かな人間だと思えない。作文だって苦手だ。
昨日の夢は特に驚いた。夢の中の僕──アヴィオールが現実の僕の事を夢として認識しているようだったから。実際に夢で異世界に相互接続されているとでもいうのだろうか。
気晴らしに隣町の図書館まで調べ物に来たが、昼夜が乱れた生活を送っている僕は夕方の電車が混むという当たり前の事まで忘れていた。
おまけに、図書館の最寄り駅は高校の最寄りでもあることまで失念していた。
大量に入ってくる制服姿の同年代を見ると、なんだか罪悪感めいた物が湧き上がってきて、目を逸らす。
そして、彼女を見つけた。
隅の席で、眠っている。
そして、彼女を見て思い出した。
あれは入学式の事だ。僕の斜め前に立っていた彼女が突然倒れた。少し騒ぎになったが、教諭と親が慌てて飛んできてそこまで大事にはならなかった思う。
ただ、なんとなく気になって帰りに見舞いに寄った。病院に運ばれていたり、家に帰っていたらそのまま帰ろうと思いながら保健室のドアをノックすると、彼女が出てきて驚いた。症状が軽かったので保健室の先生とさっきまで雑談をしていたらしい。親は一旦家に帰って病院に行く準備を整えてからまた迎えにくるとか。
その場ではなんと話したのか、もはや覚えていない。ただ当たり障りのない会話の最後、別れ際の独り言だけが、やけに耳に残った。
「もえたらいいのに」
その夜から、僕は竜が舞う街の夢を見始めた。
電車の中、僕は眠る彼女を凝視する。
幸い客はどんどん降車していき、傍から見たらちょっと異常な僕の行動は咎められることはなかった。
車体の揺れる音だけが、辺りに響く。
やがて彼女は目覚めると、「悪くない」と、そう言った。
何の根拠もないが、恐らく彼女こそが夢の中の少女ミアだと、分かった。顔も違う。雰囲気も年齢も違う。
ただ。
あの透徹した笑みだけが。同じだった。
僕は吸い寄せられる様に彼女の前に立つと、思わず口に出していた。
「なんで、そう、思うんですか」
どうして。夢の世界のミアは、竜に憧れて竜に成るのをよしとしたのだろう。だけど、こちらの世界には竜なんて存在しなくて。それなのに何故、そんな笑顔が、できるんだ。
彼女は、ほぼ初対面である僕を訝しむこともなく、答えた。
「だって、せかいを、もやせそうだから」
そのまま彼女は電車を降りた。僕も自分の駅で降りて、家に帰った。
夢は、見なかった。
翌日、僕は数ヶ月ぶりに登校した。
彼女は、学校を休んでいた。
それからずっと、彼女は学校に来なかった。
✤
「ううん、見たことない」
私は答えた。何故そんなことを突然訊くのだろう。アヴィオールはとてもいい子で──本音を言ってしまえば、少しだけ好きだった。だから最期に会いにきてくれたのだと思ったし、それが嬉しかったのだけど。
「そうか、なら──いいんだ」
顔に出ていたのだろう、はっとした様子でアヴィオールは首を振ると、干し草の山を降りだした。
「ねえ、アヴィオール!」
「なんだ、ミア」
「竜になったら、竜になったらね。あなたの事、一番に乗せてあげるわ! そしたらね、一緒に、」
その時、竜の風切り音に混じってゴウッという野太い音と、続いてズン、と腹に響く爆発音が響いた。
瞬間、辺りが真昼のように明るくなる。
草原に林立する塔たち。その一つ一つに、まるで華の様な明かりが灯っていた。
竜華。
祭りの始まりを告げる、十二年に一度の竜たちからの合図。勿論見るのは生まれて初めてのことだった。アヴィオールもぽかんと彼方を見つめている。
「──一緒に、竜華を空から見よう!」
上手く笑えたと思う。だけど失敗だったかも知れない。
アヴィオールは、泣きながら走り去って行ったから。
私は再び干し草の山の上に寝転がる。地上の星の竜華と、夏の星空を見つめながら、私は微睡みへと落ちていった。
✤
──20XX年X月X日未明、XX町の民家から火が出ているとの通報が近隣の住民からあった。
住人の〇〇さん夫妻は無事だったが、一人娘の美在(みあ)さん(17)の安否が不明となっており、消防隊による捜索が続けられている。
出火の原因は不明で、警察では事件と事故両面から調査を進めるとのこと。
✤
その街は竜に護られている。
竜は望まない。竜は求めない。
竜は叶える。竜は応じる。
見渡す限りの草原に、塔が林立している。それら一本毎に、竜が棲まう。
最近、塔が一本増えた。
その塔の主は、少しだけ他の竜より街の近くを翔ぶ。
【終】