ソウルフィルド・シャングリラ 終章(2)完結
――引瀬由美子……母さんの友だちに謝られる夢を見た。
仔細な内容も克明に思い出せる。それはただ一つの感情で彩られていた。
悲哀。
夫と娘を殺され、友人を殺され、そして僕を死なせてしまったことに対する、深くて大きなかなしみ。
自分の名前も、思い出せた。
母さんのことも、思い出せた。
そして人から託された願いも――思い出せた。
自分のものではない記憶とおし着せられた復讐心に衝き動かされ、やることは全て裏目に出て、結果悠理を死なせてしまった――そう考えていたが、案外悪くない結末を迎えられたのかもしれないと、そう思える。
廃棄区画に出来た崩落孔は大量の海水と泥が流れ込み、瓦礫とシェイクされ埋め立てられていた。護留は辛うじてねぐらにあったコンテナの一つに這い上がり、溺死を免れる。
どうせ死ぬなら、この蒼穹を眺めながら死にたい。ALICEネットが消え去った今、結露を呼ぶナノマシンも吹き散らされどこまでも空気は澄み渡り、なるほど澄崎という名前に相応しい。
周囲のビル群が音を立てて破砕されていく。東に見える巨大な天宮の本社ビルも、傾ぎ、擬似水晶体の窓を大量に剥落させていた。煌めくそれらの中でも一際明るい光が落下し――まっすぐこちらに向かってくる。
わずか数秒で、傍らに静かに降臨した。
「――――」
語りかけようとしたが、喉が潰れ、舌も融けて口咥内に癒着してしまっていては奇怪な音を搾り出すのがやっとだった。
光を放つものが、徐々にその明度を下げていく。輝きが消えた後に立つのは、一人の少女。悠理であって、悠理でないモノ――天使〈アズライール〉だ。
「護留さん」
・――君も、僕の前の名前、もう知ってるだろ。そっちでは呼んでくれないのか?――・
「ええ。だって、護留さんは護留さんですから」
・――思考が読めるのか――・
「はい。今まで忘れていた、色々なことを思い出しましたから。ええと、読むというより、舐めるって感じですね。ぺろぺろっと」
・――はしたないな――・
「護留さんには言われたくないですね!」
そう言って、悠理は「くくく」と細い笑いを喉で鳴らした。
・――少し……変わったか?――・
「ええ。性格も外見も構成元素も、前とは全くの別物になっていますよ。でも――悠理の情報は全て引き継いでいます」
・――それはなによりだ。あそこで死なれていたら、後悔でおちおち死んでもいられないからな。それはそうと――やっぱり、君は行くのか? 外の世界へ――・
「ええ。それが私の両親の意志であり、私が創りだされた意義であり、私が存在する意味ですから」
・――そうか。じゃあ引き止めるのはやめにするよ。願いを果たすってのは、いいものだからな――・
「――とどめが、いりますか?」
柔らかい笑顔のまま、悠理が問うた。
・――いや、いい――・
「でも」
・――全然、苦しくないんだ。とても温かで――そう……まるで、楽園にいるみたいだ――・
「楽園、ですか」
・――魂がもうない僕は、天国には入れないだろう。でも楽園なら――夢見ることくらいなら、できそうだから――・
「さあ、それはどうでしょうかね。そもそも天国って。護留さんは悪人ですから行けたとしても地獄ですよ、きっと」
悠理はわざと意地悪く言う。
・――……酷いな――・
「護留さんの、真似ですよ」
・――酷いな……――・
「くふふ。とどめがいらないのなら、せめてお願いを聞いてあげますよ」
・――いいのかい? じゃあ、お言葉に甘えよう。欲しいものが、一つあるんだ――・
「なんですか? なんでもあげますよ。庭付きの一戸建てと白い犬だって作って差し上げます」
・――君にあげたあの紅いあやとり。実は僕も『塔』を作ってみたいと思っていたんだ。だから練習するために、くれないか?――・
悠理は目を丸くし、次いで吹き出した。
・――駄目かな?――・
「くくく……いえ、いいですよ。――大事にしてくださいね」
悠理が白い手を軽く振ると鈍い輝きが生じ――一瞬で紅い毛糸が現れた。焦げ目まで寸分違わない。物質転送ではなく、情報からの実物質の創造。神にも等しい行為。ALICEネットに封印されていた発散テクノロジーと失効テクノロジーを、悠理は呼吸でもするかのように自在に使いこなしていた。
護留は手を伸ばしてそれを受け取ろうとするが、どす黒く変色していたそれは持ち上げるとぼとりと、糸を引きながら落ちた。苦笑する。残った顔面の右半分が、その拍子にずるりと崩れる。
「あーあ、男前が台なしですよ。せっかく護留さんは私の好みの顔をしていたのに」
・――……そうだったのか?――・
「そうじゃなきゃ、まず初対面で誘拐犯の男の子とあんなに仲良くしようとしませんよ?」
・――そういうところは、案外と普通の女の子だったんだな君も――・
「お年頃ですからね。護留さんはどうでした? 私のこと、どう想ってました?」
・――それも、もう知ってるだろう――・
「知っていても直接聞きたい複雑な乙女心をわかってくださいよ」
・――植えつけられた偽の情動、お仕着せの記憶。僕が君に抱いていた感情はそんな風な、恋とはとても呼べない、幼稚で杜撰な代物だったんだよ――・
「……それでも、私は嬉しかったですよ?」
悠理は、もはや半分以下の大きさになってしまった護留を優しく見下ろす。
護留の自壊は止まらない。もはや悠理にもそれは止められない。ALICEネットの最も基礎的なプログラムによって護留の発散は実行されている。
ネットは全て悠理が格納したが、800万分の1ほどの機能が残響として市に存在していた。即ち、護留一人ぶんだけ。
自らの『Azrael』としての機能を悠理に渡すまで維持し、役割〈ロール〉が終わったら自己を消す。ただそれだけのために存在した容器〈うつわ〉。それが護留だ。
引瀬由美子博士による処置だった。崩壊していく体に、まだ意識が残っていることも含めて。
それが護留にとって救いか――或いは呪いかは、もはや今の悠理が詮索することではない。
・――君は、なにかないのか。これが最後だからな。僕にできることならなんでも聞こう。まあ、できることはかなり限られているけどな――・
「じゃあ――最後に、一つだけ。実は一緒に地下で過ごしていた間にこっそり何度か試そうとして、できなかったことがあるんです」
・――なんだ、僕になにをしようとしていたんだ君は……――・
「いや、そんなに身構えなくても大丈夫ですから。別に痛くはしませんよ」
悠理は一旦俯くと、やがて意を決して顔を上げ、言った。
「――キスを、させていただけないでしょうか?」
・――……いいのか?――・
「ここで女の子に聞き返すなんて果てしなく台無しですよ! まったく本当に護留さんにはデリカシーがないですね!」
少し怒ったように言って。だけど悠理は笑って。
護留のもはや存在しない唇に、自分のものをそっと重ねた。
†
ビルが崩れる粉塵、ガラス片の乱舞、そして湧き立つ飛沫――安全圏まで距離を取っても、小型艇の船上からは、澄崎市が沈没する様はよく見えた。
「わあ……きれいだねえ」
グリムリーパー化されなかった引瀬眞由美のクローン、その最後の一体である少女の心からの感嘆に、葛城雄輝は深い溜息で答えた。
そのことが不満だったらしく、眞由美はこちらの向こう脛を蹴ってくる。その仕草はオリジナルの眞由美の幼い頃にそっくりで、葛城は苦笑した。
結局公社のプラントから追手の攻撃を避けて連れ出せたのは彼女一人だけだった。何かの意味はあるのだろうか? だが少なくとも慰めにはなる。葛城と、そしてかつての同僚たちへの。
哉絵。悠灯。理生。眞言。由美子。花束。
皆、死んだ。
そして彼らの遺体が眠っている場所も、今沈みつつある。だが彼らのことを少なくとも自分は覚えている。そしてALICEネットも彼らを記憶しているはずだ。ならば――この行為も無駄ではなかろう。
傍らではしゃぐ眞由美を改めて見やる。
彼女が成人し、いつの日か葛城の代わりに庇護してくれる相手を自身で見つける時まで。今度こそ護り留めよう――守ってやれなかった息子に、雄哉にはしてやれなかったこと、出来なかったことをしてやろう。
市を覆っていた事象結界は今や取り払われた。蒼い空に碧い海がどこまでも広がる。市民の意識の空リソースと魂を使用して演算されてきたそれが消えた今、長年患ってきた病が癒えたような、得も言えぬ開放感をただ感じる。
実際、この都市は病んでいたのだろう。長い長い――100年という歳月の間、ずっと。
もう、この街に出るのも入るのも自由だ。もっとも出て行くにしても、この街に今生きている人間が自分たち以外にいるのか疑問だったし、入るにしてもあと数十分足らずで沈みきってしまうのだが。
都市の外は未知の世界だ。二人がこれから支障なく暮らしていける保証などどこにもない。
「さて……どっちに進んだものかな」
その時、ふと頭上に影が差した。
予感に駆られて、見上げる。
†
崩壊する都市から飛び立ち、遮るものが一つとしてない蒼穹を、天使が昇りゆく。
遍く世界に、澄崎という街の死と、そこに至るまでの物語を告げ知らせるために。
その動きが、ふと止まる。
沈みゆく街が生んでいる大渦を眼下に、天使は何かを探すように左右に少し揺れ――諦めたのか、それとも望むものを見つけたのか――そのまま上昇しこの世のモノが出すことのできない速度と動きで去って行った。
テラフロート群上の建造物はことごとく倒壊し、海水が全てを押し流す。
大量の廃材や死体が浮かぶ泡立つ水面。
そこに一本のあやとりの糸がないか探しみても――恐らくは、無駄である。
†
視界を一瞬、白い光が横切り――それだけだった。肉眼で〝それ〟の存在を捉えられるわけがない。
だが。
「なあに、あれ? おそらにみちがあるよ!」
眞由美が指差したのは、一筋の長い雲だ。
天使が残した航路。
「あっち、あっち、あっちにいこー!」
ぴょんぴょん跳ね回りながら、眞由美が叫ぶ。
「……そうするか」
呟き、船の自動航行装置を調整し始めた葛城に、眞由美が質問した。
「ねえねえ、あのみちは、どこにつづいているのかなあ?」
葛城は機器を操作する手を止め、一拍置いて答えた。
「――楽園さ」
†
植えつけられた情動、お仕着せの記憶。それによる、強制された好意だったとしても。
恋とはとても呼べない、幼稚で杜撰な代物だったとしても。
計算された出会い、演算された恋愛、清算されてお終い。
それでも――
私〈僕〉も、あなた〈君〉のことが、好きでした。