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怪我のせいで夢を諦め、怪我のおかげで夢を見つけたスペ体質高校生の話

「高校サッカー」
それは3年間という限られた期間でサッカーを愛する高校生たちが遊ぶ時間を削って夢を追いかけている素晴らしい世界。
勝てば嬉しい 負ければ悔しい
この感情は勝負事の醍醐味であり、遊ぶ時間を削ってまで部活に打ち込むやりがいの一つだろう。私はそんな当たり前の感情を抱ける機会が人よりも圧倒的に少なかった。
なぜか?答えは一つ。
「怪我」
そう怪我で高校サッカー人生の半分以上を奪われてしまったからだ。
スポーツにおいて怪我ほど恐ろしいものは無いと思う。(個人の見解です)(異論は認めます)

《1》限界を見つけたい


私は、特にサッカーが有名なわけでもないごくごく普通の中学校でコーチとの対立はあったけれど、普通にサッカー部としての活動をしていた。そして中学サッカー部としての活動が終わった時(正確には終わる少し前)に
「自分はこのレベルだとある程度通用するものもあったけど、本当にサッカーが上手い人たちとサッカーをしたらどこまで通用するのだろう?何か通用するものはあるのだろうか?」
こんな感情を抱いた。自分の限界が知りたくて、高校受験では第2、第3希望無しで一つのサッカー強豪校に絞って受験をすることを決めた。そこの高校には2つ上の面倒をよく見てくれていた中学のサッカー部の先輩も通っていた。今考えるとそれが決め手としては一番大きかったのかもしれない。
と、まぁそんなこんなで自分の限界点を見つけるための高校サッカー人生がスタートした。

《2》【悲報】限界、見つかる。

限界点が見つかるのは想像よりエゲツないほど早かった。(いや、心のどこかでは気づいていたのかもしれないが)
限界点は、学年揃ってやった最初の数日の練習で見つかった。
「あ、無理だ笑」
何一つとして通用するものはなかった。それは簡単に埋まるような差ではなかった。
よく、限界を自分で作るな!という指導があるけれど、自分で作らなくたってわかるレベルだった。みんなが自分と比べ物にならないくらいの努力をしてきた人たちだった。

《3》最初の事故


そして高校サッカー人生が始まり、2ヶ月が過ぎようかという6月上旬の練習試合。埼玉スタジアム2002の横にあるサッカー場への遠征だった。埼玉スタジアム2002といえば観に行った試合で一度もFC東京が勝ったことがないというあまり良いイメージではない土地だった。
そんな土地で一度目の事故が起こる。
サイドハーフをやっていた自分のところにキーパーからのフィードが飛んできた。
「少し長いな、届かなさそうだけど一応競らないと!」
そう思ってジャンプした。ゴツっ、え?なんだ?いってぇ、あ、ボールがあっちに、行かなくちゃ、、そう思って走り出そうとしたら、味方ベンチがなにやら騒がしい。なんだ?
「いいから出ろ!早く!」
え?オレ?オレに言ってるの?ちょっと当たっただけだから大丈夫なのになぁ、そう思いながらピッチの外に歩いた。首元から汗のようなものが流れてきた。「もーーー」なんて思いながら手でそれを拭った。首元から戻ってきた手は赤く染まっていた。え?笑 どういうこと?笑笑と笑いが止まらなかった。どうやら相手と頭がバッティングしてその当たりどころが悪く頭がザックリと1cmほど切れてしまい流血していたらしい。首に流れてくるほどに笑
「嘘でしょ笑」
そう思いながら大人しく処置を受けた。そのあと病院でしっかり検査を行った結果切れただけで脳への以上は全く無かった。不幸中の幸いだった。これによって1ヶ月の運動禁止を医者から言い渡された。
これがここから始まる地獄のはじまりだった。

それから1ヶ月。ついに抜糸の日が来て、翌日から今まで通りの生活に戻ることが出来た。(抜糸から数時間後、飲食店で頭を奇跡的にぶつけ、全く同じ場所を切り出血したものの切れ目が浅かったために命拾いしたことは内緒)

《3.5》小さな悪魔


そして、7月になり高校は夏休みに入った。

(おまけ)
夏休みといえば合宿。夏休みに入った次の日から菅平へ5泊6日の合宿が始まった。中学サッカー部がそこまで本気でやる部活ではなかったがためにそれが私にとって人生で初めての合宿となった。
合宿では特に大きな怪我はなく過ごせたものの、小さな悪魔がいた。地面の温度の熱さとスパイクのコンビネーションによって両足の小指に出来た水ぶくれ。
そいつは米粒ほど小さいくせにクソほど痛かった。

《4》「またかよ」



合宿から帰ってきて、8月に入り順調にというか、何事も無く日々周囲の上手さに刺激を受けながら部活に励んでいた。そんなときに2回目の事故が起こる。
それはホームで行われた雨の降る中での練習試合でのことだった。この時もまた、サイドハーフをやっていた私はペナルティエリアの少し手前で裏に飛び出し、ボールを受けた。左からDFが迫ってきているのが見えた。どうしようかな、そんなことを考えた瞬間ものすごい勢いでそのDFがタックルをかましてきた。いって!!そのDFのタックルは私の右足首の内側、くるぶしの少し上にクリーンヒットした。そして右足首は、可動域を大きく超えてぐにゃりと曲がった。バランスを崩していたから自分の体重の半分以上がそこにかかったと思う。
「うっ、、、」
もうその瞬間は立ち上がることが出来なかった。クッソやりやがったな、と思い顔を上げると自陣でプレーは続いていた。
「え?ノーファウル?笑 」
数秒間ポカンとしていた。その間ずっと早く立ちなさい早く戻りなさい的な雰囲気を猛烈に感じた笑 でも走れるはずもなく、その場でプレーが止まるのを待った。そしてプレーが止まりケンケンでピッチを出た。すぐにトレーナーさんが来てくれて状況を伝えながらベンチまで戻りアイシングをしてもらった。冷たいのか痛いのかわからないけどもう「くぅぅぅぅ」とグーを握って耐えるのが精一杯だった。幸いただの捻挫で済んだことと、その試合を最後に1週間ほどのオフに入ったこともあり、オフ明けから復帰することが出来た。(テーピングはグルグルだった)
それから数日後。また事故が起こった。
なんでもない練習の最後の全面ゲームの中でDFのアフタータックルが奇しくも先日と全く同じ場所をヒットして、着地とともに足首がぐにゃり。
「うーわ、よりによって同じところかよ笑」
そしてまたリハビリ生活が始まった。しかし、テーピングでどうにかなるじゃんっ。それを知っていた私は数日後からまたテーピングぐるぐる生活を始めた。痛みが無いわけじゃなかった。でもそんなことより、ただでさえ頭の件で1ヶ月もロスしたのに耐えられる痛みごときで時間を失うことが嫌だった。それが9月の初めのことだった。ただ、そんなその場凌ぎのテーピングなんかが長持ちするはずもなく、10月の初めに病院に行ってちゃんと診てもらうことにした。お医者さんから言われた言葉は
「もう靭帯が伸びきっちゃってるね。これはもう戻らないよ。靭帯は3週間で治るものだからそれを逃すと治らないんだ。」
え、、?頭が真っ白になった。話を聞くと、もう伸びちゃってる分の靭帯は自然に戻ることは無いらしい。そして今はもう足首は緩くなってる状態だと。それが原因で足首をかなりの頻度で捻るようになった。しかもそれは毎回捻挫と同じくらいの激痛を伴った。その度に練習を抜けてアイシング。という生活になっていった。

しかし、不自由ではあるもののその時はサッカーが出来ることへの喜びを感じることが出来ていたため、定期的に練習を途中で抜けざるを得ない状況になっても耐えることが出来ていた。そしてその足首の圧倒的な爆弾を抱えながら、また練習に励む日々が続いた。

《5》え?今?

年が明け、2019年になった。そして最初の練習の時、
「あれ?嘘でしょ今?今来るかね?」
私を襲った新たな、というより昔からの付き合いであった痛みの刺客はシンスプリントという脛に起こるスポーツ障害だった。これは中学3年生の時に発覚したものだったが、高校に入ってから数ヶ月は特に気になることはなかった。高校に入って最初に違和感を感じたのは12月頃だったと思う。その時も突然痛みが来て立っていられなくなり練習を抜けたり外れたりしていた。しかし全く出来ないということはなかった。むしろほとんどずっと練習は何事もなく出来ていた。しかし年明け最初の練習の時
「あぁ、ダメなやつだ」
一度経験している分、他の怪我と違ってやっちゃダメなときの感覚がよくわかった。悔しいけど、これに関しては安静が一番だ。ということもよくわかっていた。それから1ヶ月ほどまたリハビリ期間となった。

《6》オレ、今、絶好調


2月になりシンスプリントの痛みも多少引き、復帰をすることが出来た。そしてここから1ヶ月後、高校サッカー人生で最高のコンディションでプレーが出来た期間が始まった。何が要因かなんてわからないけど、とにかく思うように身体が動いてくれた。ゲーム形式の練習でのシュートもなぜか入ってくれることが多くなっていたように感じた。数ヶ月前に先生にFWで出たいんですけどねぇみたいにしれっと直訴したことが功を奏したのか、FWで使ってもらえることが多くなり、それも好調を維持出来た要因だったように思える。
そして3月の終わり頃、高校に入り初めての公式戦(※トップチームではないが)のチャンスがやってきた。前々日の練習でスタメン組とサブ組の両方で青白戦に出るなどして確実に評価を上げることが出来ていたのが実感出来た。そしてユースリーグ2部開幕戦。相手は中学サッカー部の一個上の先輩がいる高校だった。その先輩はDFだし、出場があればきっとマッチアップがある。なんとしても出たいと思っていた。試合が始まった時、私はフラッグを持ち、タッチラインを走っていた。
いや出てないんかい!
そう思われた皆さまご安心ください。ちゃんと試合前に出してやるから前半は副審をやってくれと先生から言われてウッキウキで副審をやっていただけです。
そして後半になり、私は副審をチームメイトに任せ、アップをした。そして試合時間残り20分ほどというところでお呼びがかかった。チームは3-1で勝っていたが、かなり相手の追い上げムードが強まっていたために、先生とコーチから受けた指示は前からしっかり走って試合を終わらせろということだった。もちろん点を取るチャンスがあったら取ってこいと。めちゃくちゃ嬉しかった。残り時間とかゴールを取ってこいとかじゃないのかよっていうことよりも、勝利のために自分が呼ばれたという事実がとにかく嬉しかった。
そしてプレーが切れてピッチに入ることが出来た。記念すべき高校サッカー人生公式戦初出場だった。そしてピッチに入ってから数分、チームはセットプレーから2失点目を喫した。1点を守らなければいけない状況になったので、とにかく前に蹴らせないことに全集中して追いかけまくった。そして、見事その試合に勝利することが出来た。あの時聞いたタイムアップの笛の音は一生忘れないと思う。(たぶん)

《7》ここからが本番


その試合を機にモチベーションを爆上げした私は次の練習の日から練習前に早く来てシュート練習をするということを始めた。2日間の中でもどんどん良くなっていることを感じ取れていた。しかしその練習を始めて2日目の練習で違和感を感じた。
「ん?なんで追いつかないんだ?いつもなら絶対触れるボールなのに」「なんだ?なんで身体がついてこないんだ?」
言葉では表しにくいけど、強いて言うなら足が棒になる。みたいな感覚が強く生まれた。スピードが上がりきらない。上げきれない。なんで?という感情でいっぱいになった。次の日の練習試合でも裏に出してもらったボールのほとんどに追いつくことが出来ず、その次の日のユースリーグ2部第2節でも出場が叶わなかった。なんならユースリーグ後の練習試合でも痛みから全く良い動きをすることが出来なかった。その日くらいからだろうか、日常で歩いているだけでも痛みが走るようになっていた。そして1日練習を挟みユースリーグ2部第3節。私はベンチで出番を待ったが、当然出番は無く、その後の練習試合のメンバーに回った。その練習試合で耐えていた痛みが大爆発する。もうその日にはちょっとのダッシュですら身体が自動的にブレーキをかけてしまうようになっていた。しかし、ユースリーグに出ることが出来なかった悔しさから気合いでキーパーにプレスをかけた。その瞬間。股関節から尾骨のあたりにかけて激痛が走った。私は走り出したタイミングで急ブレーキをかけた。いや、正確には勝手に急ブレーキがかかった。
「走れ。なんで、なんで」

もう一度止まってしゃがみこんでしまってからは、前に進むことが出来なかった。
頭の中はとっくに真っ白になっていた。
もう自分の中では何が起こっているのかなんて理解できるはずもなかった。せっかく調子が良かったのに、公式戦にも出れたのに、なんで。なんでオレにばっかり。こんなことが頭の中を駆け巡っていた。その試合はそのまま交代となった。10分にも満たない出場時間だった。きっともうその時には身体的な限界を超えていたのだろう。

《8》恥骨疲労骨折


そして次の日。病院に行った。検査は2日がかりで行われた。検査の結果お医者さんから言い渡された、というよりメモに書いて渡された傷病名は
恥骨疲労骨折全治8〜12週間
最低1ヶ月は運動禁止

まさかだった。疲労骨折???え、?あれだけで?そんな気持ちでいっぱいになった。しかし話を聞くと、同じ動きの繰り返しだったり元々の柔軟性だったり、思い当たる節はアホほどあった。
それから1ヶ月運動禁止の日々が始まった。
授業が終わり部活に向かい、2時間座って練習を眺めて帰宅。こんな生活が1ヶ月続いた。それから3ヶ月リハビリに励んだ。その間痛みが無くなることは一回も無かった。

《9》点を取るんだ


そして時は過ぎ8月になり私は決断をする。
今出れないとまた公式戦に出れるチャンスはかなり減る。だから絶対復帰して出ないと。出て点を取るんだ。そう意気込んだ。そして痛みが抜けきっていない中で復帰をした。トレーナーさんには、痛みももうほぼない無いてきなことを言ってしまった。
それからユースリーグでのゴールを目指して練習に励む日々が動き始めた。
しかし、その道のりは長く、そして残酷なものになっていった。
4ヶ月間のブランクは想像以上に大きく、そのうちの2ヶ月はロクに運動も出来ていなかったため、そんな状態で夏を越えれるはずがなかった。体力技術すべてがダメだった。そんな選手が試合で使ってもらえるはずがなかった。
目指していた得点はおろか出場も叶わない。
痛みは増していくばかり。
身体は重く、思い通りに動かない。

試合に出て点を取ることを目標にしていたものの日数を重ねるごとに落ちていく動きに自分が耐えられなくなり、ユースリーグの最終戦が終わったことも重なり、9月の終わりにもう何度目かもわからない怪我人生活がスタートした。

《10》無駄


それからは自分に少しでも可能性のある公式戦の予定も無く、治すことに専念しようと決めた。恐らくこれくらいの頃から夜ご飯に炭水化物を摂らなくなった。
治すことに専念すると決めたものの、治すためには安静にし続けるしかなく、そうなると、土日の部活なんかは、せっかくの休日なのに自転車で片道30分かけて学校に行き、練習着に着替え2時間ボーッとして制服に着替えて帰る。
正直言って時間の無駄だった
なんの意味もない3.4時間だった
そんな日々が1ヶ月以上続いた。メンタルの弱い私は辞めたいとばっかり思ってしまった。でもその度に、ここで辞めたらここまで無駄だって思って過ごしてきた時間が本当の意味で無駄な時間になってしまう。この期間を無駄と思わないようにするには復帰するしかない。そう自分に言い聞かせ続け、それだけを糧に耐えた。耐え続けた。
そして、自分の感じているマイナスな感情がチームメイトに伝染してしまうことだけは絶対に避けたかった。だから表にいるときはずっと笑顔を絶やさないことを意識し続けた。自分が暗いと周りも暗くなるなんてそんな影響力のあるにんげんではなかった。だけど、少しでもそんなことがあってはいけないし、少しでもチームの力になりたかった。だから練習中や練習試合のプレーを見て、あれ凄かったね笑 なんて言ったりして過ごしていた。そんな生活は年内中ずっと続いた。

《11》歩こう、歩き続けよう


年が変わり、2020年になった。
高校サッカー人生最後の一年が始まった。
私は、まだピッチ横を歩いていた。
でも、歩みを止めることはなかった。しなかった。無駄な時間を、無駄にさせないために。
絶対復帰してやるんだ
その一心で歩き続けた。1月中旬だろうか、トレーナーさんに 少し走ってみて大丈夫だったらゆっくり走っていいよ と言われた。走ってみた。すると、若干の違和感はあるものの、それは痛みとまではいかないようなもので、その日から少しずつ、ゆっくりではあるものの、走ることが出来るようになっていった。

《12》最大のチャンス


そんな中で水をさしたのは、怪我なんかよりも怖いものだった。
そう。それは、コロナウイルス
2月に入り順調に時間、強度を上げて走ることが出来ていた中で、2月の終わりごろに、都立高校が臨時休校になるというニュースが飛び込んできた。そしてその休校は1ヶ月に延びていった。マジか。そう思ったものの、
「あれ?これチャンスじゃね?この期間に治しきって体力筋力を頑張って戻したら、みんなと同じスタートラインに立てるんじゃないか?」
そんなことを考えた。そしてそこから、筋力体力を戻すためのトレーニングが始まった。まずは体重を落とすことだった。2月3月の2ヶ月で約10kgほどの減量に成功した。たぶん本当に余分な脂肪だった分落ちるのも早かったのだろう。そしてそこからは筋力をつけていくことにシフトした。そして休校もどんどん延びていった。休校が延びれば延びるほど自分にとってはチャンスだった。

《13》ただいま

休校が明け、部活が再開されたのは6/22のことだった。最初は筋力を戻す目的と、密を避けることを目的で、ソーシャルディスタンスを保ちながらの筋トレから始まった。その練習のメニューには走り込みも入っていた。何人かの選手は、その走り込みでぜぇぜぇなっていたが、私はならなかった。自分でもついていけるかな、大丈夫かなという不安は少なからずあった。しかし、休校期間中の努力は意味のあるものだったらしい。それが証明されたことはものすごく嬉しかった。それから1ヶ月ほど経った、7/24。チーム編成のための青白戦が行われた。そこで私は10ヶ月ぶりの実戦復帰を果たした。
「やっと帰ってこれた、、、」
なんだか達成感のようなものすら感じた。
プレーはお世辞にも良かったとは言えないが、そんなことよりも、またこのみんなとサッカーが出来たということが何より嬉しかった。
それからは足を引っ張らないように、無理をし過ぎないように、練習に励む日々が始まった。そしてそれと同時に休校明けから来た新しいトレーナーさんに指摘してもらった、背中の筋力の無さを改善するトレーニングも行っていった。実は6月の活動再開から数週間後に、今までと同じような痛みを感じて練習を抜けたことがあった。その時にトレーナーさんに診てもらい、背中の筋力がサッカーをやる人のものじゃないと言われた。盲点だった。背中を鍛えることは何一つやってなかったような気がした。そしてそれが10ヶ月も続けばそりゃサッカーをやる筋力なんてあるはずがないよな笑 そんなことを思いながらトレーニングを始めた。
すると痛みはかなり軽減され、プレーに支障が出ることも無くなっていった。

《14》行かなくちゃ


そして、8/9。
遂に時が来た。
復帰後初めての対外試合だ。そして相手は奇しくも、浦和と名のつく高校だった。燃えないはずがなかった。

私は4-3-3の右WGとして出場した。
ゲーム体力的な課題は大きく感じたものの、2.3回右サイドから裏に飛び出すプレーも出せて、逆サイドからのクロスにあと数cm届かなかったクロスへの飛び込みなど、かなり前向きに捉えられるプレー内容だった。
そして、その試合後。先生から明日の練習試合が相手高校のコロナウイルス関連の問題で、出来なくなってしまった。という連絡があった。その練習試合の代わりに後輩と青白戦をするということになった。
8/10
その青白戦で待っていたのは、最後の悪夢だった。(夢ならば良かったのだが)
その日も4-3-3の右WGとして出場した私は、相手のコーナーキックをセンターサークルのあたりで待っていた。コーナーは弾かれ、ボールがこぼれた。あ、行かなきゃ、え、間に合うか?そんなことを思った瞬間周りからGO!という声がかかった。
「行かなくちゃ」
そう思いそのボールに向かってスピードを上げた。こういった一瞬の速さには少なからず自信があった。そして見事に相手が拾いに来ていたボールに先に触ることに成功した。しかし、右足の先でボールに触ることが出来た直後、太腿の外側に同じボールにアタックした相手の膝がモロに入った。激痛と共に、嘘だろ、やめてくれ、嫌だよ。そんな感情が走った。駆け巡った。その後なんとかプレーを続けたものの、置き物のようになってしまいもう何もすることが出来なかった。
その後アイシングをして、次の出番まで待った。やってみれば出来るかもしれない。そんな感情と希望を持ち、次の出番が来て、ピッチに立った。
「やばい、止まることも前に出すことも出来ない。」
私は、なんでもないところでボールロストを繰り返した。これ以上チームの迷惑になってはいけないと思い、交代を申し出た。
もう頭の中は真っ暗だった。どうしよう。そんな考えすらもなかったかもしれない。

《15》迫る決断の時 心はもう決まってた


家に帰ってからは痛みが倍増し、歩くこともままならなくなった。筋挫傷だった。
筋挫傷は最低でも復帰までに2〜3週間はかかる。その時すでに怪我で1年以上棒に振っていた私にとっての、2.3週間は周りの想像以上に長いものだった。休校期間中に必死に積み上げてきたものがここでリセットされる。そんなことを思ったらやってられなくなってしまった。それから数日ほどはリハビリで部活に行っていたものの、夏休みがあと1週間で終わるという時に、先生に少し考える時間をもらいたいと願い出た。それから1週間部活に行かずに家で過ごした。もうその時には心が決まっていたのかもしれない。1週間後にトレーナーさんと話した。トレーナーさんは私が辞めるなんていう考えを持っていることは全く頭に無さそうだった。しかし、私のメンタルはもうとっくに折れていた。かといって、悲しい気持ちだけでもなかった。長い長いリハビリから復帰してみんなとサッカーが出来た、あの最初の青白戦が終わった時に、ある種の達成感を感じていたため、もう後悔もそこまで大きくはなかった。
簡単に言うと、
当初は「復帰して点を取るんだ」そう意気込んでリハビリに励んでいた。しかし、いつの日か、絶対復帰してやるんだ。と復帰することを目指してリハビリに励むようになっていた。
これが全てだと思う。

《16》18番


リハビリ中や、怪我をした時にずっと心の支えだった人がいる。それはFC東京クラブコミュニケーターの石川直宏さん。そうナオだ。
ナオといえば調子が最高に良い時に限って、怪我をしてしまい、でもその度に乗り越えて必ず帰ってきてくれた。味スタを駆け抜ける18番は私にとってのヒーローだった。
そんなナオの大切にしてる言葉の中に
「起きることすべて良きこと」
という言葉がある。
それを胸にリハビリも頑張れたし、怪我をしても悲観的になり過ぎずに前を向くことが出来た。
筋挫傷で部活の無い生活を送ってみた私は、これも新鮮で良いな。そう思った。まさに起きることすべて良きことというものの受け取り方が出来るようになっていた。
ここで怪我をしたことは神様からもう頑張らなくていいんだよ。と言ってもらえたのだ。頑張ったことが認められたんだ。そう思うことが出来た。

《17》9/2


色々と手を尽くしてくれたトレーナーさんには申し訳ないという気持ちを持ちながら、3年前にナオの引退発表があった8/2から1ヶ月遅れた、9/2。私はサッカー部を引退した。
そこで高校サッカー人生に終止符を打った。
後悔が無いわけではない。
だけど後悔しちゃいけないなんてことは無いと思うし、みんな後悔はするものだ。しない人なんているかな?そう思う。

《18》きみに夢がでてきたよ


長く、苦しかったリハビリ生活。
それを近くでずっと見守り続けてくれた人たちがいる。どんなときも気にかけてくれて、まだか?などと待ってくれていたり痛みどんな感じ?出来た?などと聞いてくれたり、そしてリハビリ中に怪我と関係ないことで笑って話しかけてくれたり。
そうトレーナーさん達だ。
怪我の話をしているときは真剣に、でもそれ以外のところでは明るく接してくれた。
それは本当に助かったし、ありがたかった。
怪我人にとって一番辛いのは、
かわいそう
という目で見られることだった。
かわいそうだと思われることが一番かわいそうだと思う。
怪我を治している期間、リハビリをしている期間に夢が生まれた。
「トレーナーになりたい」
「そして1人でも多くのサッカー選手の選手生命を守りたい」

この夢が出来たおかげで、志望校も定まった。そして、怪我をしたということは無駄なことでは無かったと思えるようになった。

《19》ゆめかなうかな?


この夢叶うかな?
そんなことを思った時は、この言葉を思い出すことにする。

にんげんは夢を見るし
にんげんは夢のために踠くし
にんげんは夢を叶える
そのためににんげんは生きるし
やるしかないより
やってみせるで
生きていくんだ

(葉菜子)

https://twitter.com/hnknic/status/1317067245697204224?s=21

私は怪我をしたことで、高校サッカーに向けて持っていた様々な夢を打ち砕かれた。
しかし、怪我をしたことで、高校のその先での夢を見つけることが出来た。

いつか
僕は
大きくなるし
震えるくらいの輝きで
期待しちゃうな
自分のことを
大真面目なんです

CHEER SONG/CARRY LOOSE

《20》1人でも多く

1人でも多くのサッカー選手を怪我から守るための私の人生が始まった。
起きることすべて良きこと
この言葉を胸に私は今日も前に進んでいます。

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