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村井実先生、逝去の報を受けて
今月、村井実先生がお亡くなりになったというお知らせを目にしました。享年102歳。稀代の教育学者が歴史に名を連ねられたということになるでしょうか。御冥福をお祈りします。
私が村井先生のことを知ったのは大学3年の時でした。玉川大学で沼野一男先生のゼミに入り、はじめに読むように言われたのが村井先生の一連の著書でした。はじめは確か『教育学入門』だったのではなかったかと思います。
衝撃でした。それまでも教育学科の授業で幾度となく「教育とは何か」という問題が論じられていましたが、納得のいく言説にお目にかかることはありませんでした。明確に自身の立場を明確にしない教授陣の姿は、何か逃げているように私には見えました。(今、思えば慎重なだけだったのだと思いますが。)
しかし村井先生はその著書の中で自身の立場を明確に示されています。
もちろん、その定義はツッコミどころ満載です。しかし、「教育とは何か」を論じたら、どうしたってツッコミどころは生じます。当時、教職に就くことを目指していた自分が欲していたのは「ツッコミどころのない完璧な答」ではなく、「自分はこの考えに立ってやっていくぞ」と強く思えるものでした。(そして、驚くべきことに今もこの定義を拠り所にしているのですが。)
大学院で一年間だけ村井先生の授業を受けることができました。しかし、どういうわけか、どんな話をされていたか,ということについてはほとんど記憶に残っていません。むしろ,学生の自主的な研究会で村井哲学を真っ向から否定する人が(一定数)いて、それが認められる雰囲気に感心したことの方が印象に残っています。
今はどうだか知りませんが、当時の慶應の教育学専攻にあった何ものをもタブーにしない自由にモノが言える雰囲気、それが大好きだったのですが、考えてみたらそういう雰囲気を作ったのは村井哲学だったのかもしれません。
人はみな善くなろうとしている。
この言葉の懐の深さは尋常ではありません。どんなにメチャクチャなことをしていても、善くなろうとしていると捉える。自らを否定してかかる向きも、善くなろうとしていると捉える。そう考える村井哲学は、私には愛に溢れたものに感じられました。
私自身の教育が愛に溢れたモノであるとは思いません。と言うか、村井哲学のおかげでギリギリのところで踏みとどまっていられているようなモノだと思っています。言い方を変えると、私が何とか教師としてやっていけている要因の一つが村井哲学にあることは間違いないです。
村井先生逝去の報せを聞いた週末に慶應での講義がありました。私が担当しているのは「教育方法論2(ICTの活用)」なので、特に村井先生の話は出さなかったのですが、三田のキャンパスに向かいながら勝手に何かの縁を感じていました。このキャンパスで先生のお話を伺ってから36年が経っています。私は今,どこまで来られているのでしょうか。