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「晩餐」 素木しづ
この文章は、近代小説の原文をちょっとだけ簡単に直したものです。「やさしい日本語」ほど簡約せず、原文をなるべく残したままで、長い文を区切ったり、語順を入れ替えたりして読みやすくしています。
「晩餐」 素木しづ
いつの間にか暗くなった戸の外に、激しい雨風の音がする。嵐だ。
その親子は、狭い部屋の壁際にぶらさがった、暗い電灯の下のテーブルに集まって、夕食を食べようとしていた。父親も母親もまだ本当に若かった。そして子供はようやくテーブルにつかまって、立つ事が出来る程の、くりくりと肥えた女の子だった。
男も女も、その顔にはまだ少しの皺もよっていなかった。しかし男の濃い眉毛の陰のくぼんだ優しそうな瞳には、だるそうな疲れの色が見えていた。そして女の濃い髪の色や、細い肩のあたりには、なお打ち沈んだような深い疲れと、まどろむような安らかさとが見えていた。
一日が終わったのだった。その日の悲しみも苦しみも、夜の安らかさに流れようとしているのだった。そして、彼らは黙って微笑みながら、その子供のすべてに瞳を注いだ。
子供は、あぶなそうに立ちながら、ふっくらとしてまるく鞠のように短い両手で、少しのすき間もなく、そしてあまりに早くテーブルの上のものをかきまわそうとしていた。そのため彼らは微笑みながら、すべての茶碗や土瓶、アルミ鍋などを、テーブルの下に置いた。テーブルの上には、わずかに子供の持つ小さなスプーンと小皿が一枚残されただけだった。
けれども子供は、さわがしい、小さなよろこびに満ちた叫び声を上げて、スプーンと皿をテーブルの上にたたきつけた。
『わんぱくな奴だな。』若い父親は、その小さなまるい腕や、素早く冷静にすきもなく動いている、黒目がちのまつげの長い子供の瞳をじっと見ていた。やがて、どうしたらいいだろうというように、顔いっぱいに微笑みを浮かべた。そして、子供のまるくつき出た頬を指でちょっとつまみながら、テーブルの下から探すようにして大きな茶碗をとり、彼女の手に渡した。
彼女は鍋から熱い炊き立ての、白い湯気がいっぱい立ちのぼっているご飯をよそって彼に渡した。そして彼女の若い大きな瞳も、母親らしい嬉しさに満ちて、子供の一瞬もじっとしていない、小鳥のように愛らしい様子を見つめた。そして、たまらないように、この子はどうしたというんだろう、とふと独り言を言った。どうにも仕方がないほど可愛いというような様子で、『坊や、』と強く言った。けれども、笑みが顔からあふれてしまって、彼女は助けをかりるように男の顔を見た。そして三人は、全ての事を忘れてしまったように、子供のためにお互いにどうしようかというように笑い合った。そして子供のために、彼らは暖かい賑やかさと、その上に自然にあふれる笑いと嬉しさを持って食事にとりかかった。また彼らには、ごたごたした騒がしさのために、雨風の音が聞こえない。
若い父親は、彼の赤く大きな片手を忙しくテーブルの上に広げていた。そしてその目は子供によって仕方がなく湧き出た笑みを堪えながら、子供を支えて、その小さな赤い口に少しの食物を入れてやった。そのすきに彼は、あわただしく大きな口を開けた。彼は彼自身の口のなかにご飯を押し込んだ。
母親は、壁に寄って黙ってうつむきながら藍色の深い鍋に煮た牛肉と玉葱と、人参とジャガ芋とを白い皿に盛っていた。そしてなにか言おうとして、甘く柔らかく煮たジャガ芋を口のなかに入れて、男の顔を見た。だが、彼女はなにかに気がついたように、ふと口を閉じてぼんやりと遠い所を見た。
彼女の口のなかのジャガ芋が、ちょうど凍ったかのように固くざくざくしていて、非常に不味かったのた。彼女はとつぜん驚いたように黙って前歯でかみなおしたが、彼女の心は、いつの間にか淋しくうつむいてしまっていた。
彼女は日々の苦しみや悲しみや疲れを思い出したのだった。そしてジャガ芋の味のない、かかわりのない冷ややかな不味さが、彼女に静かな淋しい遠く離れた心を与えた。彼女は結婚後の貧しい悲しみに満ちた現実の生活を思い浮かべたのだった。
そして、それがあまりにながく続いた生活のようにも思えた。彼女はふと自分がすっかり老いてしまったかのように感じた。そして静かに涙に満ちた日のことや、物のために脅かされ恐れてすごした日々や、病のために悲しみ苦しんだその日その日のことを、遠い心が静かに思い出しているのだった。けれどもいま思い出してる彼女には、すべてが夢のようであった。苦しみも悲しみもなつかしい夢のようであった。
そして考えて見れば、わずかに結婚後の三年ばかりの生活にすぎない。
彼女は、いつの間にか何かに注意を引き付けられたように、ぼんやりと遠くの方を見ていた。彼女のその静かな心が、いつしか幻のような絵を見ていたのであった。
それは薄暗い光の中に、そしてその光のように物静かな三人の人たちが、より合って頭をあつめて長い物語をしているのだった。その物語は、あまりに長く絶えることなく彼らの間に続いているようだった。そしてその物語のなかには、すべて世の中の善や悪や、悲しみや苦しみ、怒りも悩みも喜びも、全てが語られているようだった。けれども話す人も聞く人も、ただ静かに安らかにじっと微笑みを続けているばかりで、彼らは少しも動かなかった。首をかたむけて眼を伏せながら、そして、そこにはただ静かななつかしさと、許しとが彼らをつつんでいるように見えた。そしてまたそこには深い深い安らかさが彼らのすべてに表われているのであった。
世の中の全ての事、人生は過ぎ去るであろう。そして過ぎ去ったその日に初めて全てが、全ての事が懐しさと許しとに変わるだろう。そしてその時彼らは永久に夜のようなやすらぎの前にいるのであった。
遠い絵が暗く静かに、彼女の眼の底に映っていた。また瞳の底を通して遠くの未来に、淋しい安らかさを持って、その絵が見えるのであった。若い彼女は一人で淋しいひそかな溜息をついた。そして、散らかったテーブルの上と、夫と子供の顔とをちらっと見ながら黙っていた。
『どうして黙ってるの。』男は、不思議そうに女の顔を見て声をかけた。彼女は、あわててなにかを言おうとしたが、一言では何も言えずに黙ってしまうと、再びその眼が遠くへ行ってしまった。そして彼女は、また幻の絵を見たのだった。彼女は、その時はじめて戸の外の嵐の音を、静かに耳にした。彼女はなにも言わずにいた。
そうだ。あの日があるのだ。あのすべてがなつかしみと許しと、安らかさに変わる日があるのだ。ながい生活の後に、またながい悲しみの後に、またながい苦しみのその後の日に、あの安らかななつかしみと許しの日があるのだ。一日一日の苦しみや悲しみがなんだというのだ。一日一日の疲れや悩みがなんだというのだ。彼女はいつの間にか微笑みを浮かべていた。
『なぜ黙ってるの。』男は再び声をかけた。彼女は驚いたように頭を上げて、なつかしそうに笑いながら、
『まだ本当にわずかしか経ちませんのね、結婚してから。』
と男にも思い出して、いろいろなことを、結婚前の楽しかったことまでも、思い出して下さいと言うように言った。
『そうだなァ。』男も目を上げて言った。
『たった三年にしかならないんだな。けれども、俺たちはいろいろ苦労したなァ。』
『本当にね。』彼女は、また眼を伏せてあの絵を見ようとした。が、すぐに、
『けれども、まだ三年しか経たないんですものね。』と、なにか大きな、彼女にはわからないけれども、なにか大きなのぞみを彼に話さなければならないように瞳を輝かせた。
『そうだ、一日一日いろいろなことに疲れ悩まされ苦しまされても、二年はもう過ぎたんだからな。もうしばらくすると、坊やも歩くようになるんだから。』
男は、手持ちぶさたのようにスプーンを持って立っている子供を見た。彼女は、すぐに嬉しそうに、
『坊や。』と大きな声を出した、子供はそれと同時に大きな叫び声を上げて、母親の顔を見ながら、
『うまうまうまうま。』とスプーンをテーブルにたたきつけた。
父親は、あわてて子供の口に御飯を入れてやった。
彼らは、やがて箸をおいた。
『もう少しの間だ。』男は強く独り言のように言った。
『そうね、私たちは働きましょうね。』彼女は、おちついて安らかに言った。そして子供を膝の上に抱きながら、小さな乳首をだして乳をのませ始めた。
『さ、あとを片づけよう。そして寝よう、明日は早く起きようじゃないか。』
やがて、男は立ち上がった。そしてテーブルを片づけ初めようとした時、もはや子供は乳房に頬をつけて目を閉じていた。あたりは静まりかえった。
『嵐だな。』男は、立ち止まってささやいた。
素木しづ 著『晩餐』 ,青空文庫
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ちょっぴりやさしい日本語訳:じんけいこ
朗読音声:https://youtu.be/SVCWwwkPlJY