祖母の死と私の話。
享年87歳だった。90まで僅かで、でも誕生日を迎えたばかりだった。
そんな彼女との色々な吐露をしたいと筆を執りました。
感情がいまだにしっちゃかめっちゃかなので、語尾やら文法やら酷いと思いますが、ご容赦を。
祖母と括るには濃厚すぎる関係だったと思う。
私が小学生程の頃から同居していた母方の祖母。
両親が共働きであり、フルタイムであった私にとってもう一人の母だった。
厳しい人だった。
戦争をも生き抜いただけでなく、当時は良家の娘だったと聞く。
相応の躾を私に施した。
だけれど、厳しいだけじゃなくて。とてもやさしい、暖かい人だった。
今思い浮かべても笑顔しか思い出せないくらい。
手先が器用で、裁縫をしたり革細工でカバンを作ったりすることを好んだし生業としていた。
作ってもらった服も、カバンも、小物も、いつでも何かしらを持っている。
仕事用としてみれば、化粧ポーチが祖母の作。
遊びに出るときはカードケースだったり、キーホルダーだったり。
何ならコスプレの衣装も手伝ってもらったりした。
作ってもらった頃からサイズが変わってしまい、大きくてあまりきれなくなった服もある。
それらも結局は捨てられない、大事なものになった。
沢山の場所に行った。
あまり孝行はできなかったと思うけれど、私なりに、上京してからもなるべく色々なところへ出かけた。
旅行なんてものは諸般の事情でできなかったけれど、近場のお店とか、色々。
そういえばプロ野球の巨人軍が好きで、観戦に付き合ったこともあった。
上野だか東京だかまで迎えに行って、総武線にのり水道橋へと。
歩くのが疲れてしまうなんて水道橋で愚痴っていたっけなあ。
漠然とだが、最期は病室で看取るものだと思っていた。
管に繋がれたその人を見ながら、お別れを言えるものだと思っていた。
私は東京から帰省しなければならないから、その瞬間に立ち会えるかどうかはわからなかったけれど。
それでも、何日か前から「危ない状況です」なんてお医者様に言われ、両親から連絡が来るものだと思っていた。
でも現実はそんなに優しくなかった。
急性心筋梗塞。祖母は、ひとり風呂場で逝ってしまった。
母が「いつもより出るのが5分遅い」と風呂場へ見に行った時には既に息がなかったらしい。
蘇生術を施しても、搬送された病院で処置をされても、終ぞ息を吹き返すことはなかった。
私に連絡が来たのは、病院で死亡確認がとられてからだった。
なんせ母方の祖母で、付き添ったのは母だ。自分だってつらい状況で私へと連絡をしてくれたことは感謝してもしきれない。
2月29日の、夜のことだった。
私は友人と飲みに行った帰りで、割と上機嫌にツイキャスで知り合いの配信を見ていた。
訃報が来たときには、終電も何も終わる寸前だったし。何よりもぐちゃぐちゃなまま帰省したとして、「祖母の子」である母に更なる負荷がかかってしまうと思った。
だからこそ翌日の3月1日に帰省することにした。
朝イチも迷惑かなと少し遅れての到着予定で。
正月ぶりの実家は、何も変わっていなかった。
何も変わっていないけれど、そこに、確かに祖母の痕跡はあるのに、祖母はいなかった。
代わりに知らない男性がいて、紹介こそされなかったが話を盗み聞くに葬儀屋の方と知った。
祖母の部屋で、祖母のベッドに眠るすがたは、生前と何ら変わらなかった。
本当に変わらな過ぎて、ひょっこり起き上がるのではないかと思ったほどだった。
まるで眠っているようで、死の瞬間が苦しいものではなかったのだと否応なしにわかって、それだけは救いだった。
触れれば、氷のように冷たい。
だけれど、ずっと触れていれば頬も柔らかく、ほんのり暖かくなる。
己の体温が移っただけだと理解はしていても、ずっと触れていれば起きだしてくるのではないかと本気で思っていた。
時間は光のように進んでいく。
息をつく暇もないほどの速度で、納棺、出棺、火葬、葬儀、埋葬まで。
火葬前の、あの武骨な焼き場への扉が閉まる瞬間。
あの瞬間が一番つらかった。
あの瞬間に、私は、ようやく祖母が本当にいないのだと理解した。
骨を拾っても、寺でお経を聞いても、涙は微塵も出なかった。
それまでは何度も泣いたし、つらかったのに、焼き場へと進む棺を見てからというもの悲しみがどこかに行ってしまったようだった。
一連を全て終え、実家から東京の自宅に戻って。
同居人に出迎えられ、抱擁されて。
その瞬間、虚しさが溢れて、涙になった。
さみしのだという感情も知った。
けれど、その夜だけだった。
翌日には体に倦怠感はあるものの、相変わらず涙も零れない。ただひたすらぼんやりとしているし、霧がかかったように自分がわからなくなった。
元気だし、趣味のものを見ては笑っているけれど、心の奥底は凍ったように固まっていて、呼吸をすることすらおっくうになった。
同時に、同居人に良く触れるようになった。
少しばかり静かになった瞬間だとか、相手が眠っているときだとか。
触れて、温かいことを感じないと不安で仕方がなくなった。
近しい人へラインも無駄に入れるし、返信が暫くないと不安で不安でどうしようもなくなった。
たぶん、泣けないのも含めて。
すべて時が解決するものなのだろうと思う。
いつまでかかるかはわからないけれども。
祖母は、きっと今の私を良しとしない。
溌剌とふるまうことを好んでいたし、そう在るように望んでいた。
だから、四十九日という喪に服す期間もあまり考えないようにと母と決めた。
法要自体は行うにせよ、出来る限り出かけず等々は考えるなという話だ。(まあコロナ騒動であまり出かけられないけれど)
きっと、私は今でも悲しんでいて。
強く溌剌にと願う祖母の言葉たちを掻き集めて立っているに過ぎない、木偶の坊なのだと思う。
それでも、そう願ってもらえたのだから。
最期の言葉がなかった以上、それを主軸に据えないと、簡単に折れてしまう気がするのだ。
死んで尚、心配をかけるようなことは避けなくてはならない。
大丈夫だよ元気だよと全力で伝えられるように、私はまだまだ生きていく。
どうか安らかに眠れますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?