死んだ先と私の話。
諸君、私はオカルトが好きだ。
先日別のノートに綴った通り、身内の死を受けて色々考えることがあるわけで。
まあ極端に言えば「人は死んだらどこへ行くのか」という根本的なお話。
前述したとおり、私はオカルトが好きである。
所謂心霊系の話や映像等々なんでも美味しく頂く…というか一種のコンテンツとして好き。
ただ、あくまであれらはフィクションであって実在しないというか、基本として私は幽霊を信じていない。
心霊・怪奇現象なんてものはあくまで人間の恐怖心、畏れが生み出す幻覚的なものであって、現実で起っているものではないと思っている。
コンテンツとしてのあれらはその幻想をあたかも実在するかのように表現しているだけであって、リアルには有り得ないものだという見解だ。
今だって亡くした家族が近くに居るような気がしたりするけれど、これは私の「近くにいてほしい」「見守っていてほしい」という感情が生み出した錯覚なのだと認識しているわけで。
だけれども、日本の歴史、または宗教観において「魂魄」という概念は浸透しすぎていると思う。
肉体という物理的な容器を脱した魂は三途の川を渡り~というアレ。
事実、見たこともないものを信じろというのが土台無理だというのに、科学者であれ政治家であれみんな魂の概念を信じ切っている気がする。
なんでだろう、と思う。
感情や個性なんてものは、自我の生成にいたる経験と脳内の感情あたりを司るシナプス的なものが形成しているわけであって
必ずしも魂なんていう見えない存在が介入しているわけではないと思うのだ。
それこそAIの育成に近い手法をもってして、ひとりの人間の個は作られると思っている。
勿論、魂なる存在があって、何度も輪廻転生を繰り返し――なんてのも浪漫があって良いと思う。
前世の記憶とやらが幻想でなく実在するならばそれもそれで面白い。記憶領域は脳でなくて、誰も解明できていない魂であるといえるのだから。
現状。私は、死んだら無に帰すと信じている。
何を思うこともなく、ましてや恨めしや~なんて化けて出ることもなく。
その人間の個の消失。各々の人生が一つの物語であれば、<完>と記載されあとは白紙のページが続くだけのような。
そもそも「思う」というのは感情の起伏であって、脳が処理をしている分野だと認識している。
肉体の生命活動が停止したのであれば、さながら電池の切れた玩具のようにパタリと止まってしまうのが道理ではないか。
そう信じていても、幼いころから「死ぬときは綺麗なお花畑のある、三途の川を渡ってね、」と言い聞かされていれば否応なしにそれを夢想する。
漠然と、刷り込みのように定義付けられればそれが正となることもあるんじゃないかなあ。
話は戻るけれど、ひとの一生が本であり、死は本文の終了を指すのだとすれば。
まだ生きている私たちがその本を後生大事にしていけば、忘却することなく所持し続けていけば、それこそ本当の愛になるんじゃないだろうかとも思う。
何度も言うが、私はオカルトが好きだ。
きっと心の奥底では、魂が存在し縁ある死者が私の生を陰ながら見守ってくれることを望んでいる。
私は哲学者や科学者ではないから、未知なる存在が在る「かも」しれないという事実だけで漠然と高揚することもできる。
正直言って、死の向こう側なんて誰にも見れないのだ。
霊能者の半数以上はコールドリーディングだと思っているし、本物がいたとしてそれが本物だと証明し得る手法は存在しない。それこそ、普遍的な人々(=私とか)でも死霊なるものと対話し、誰それは正しいとでも言ってもらわなくては証明しようがない。
それでも、それでも。
やはり、オカルトが好きだ。この場合でいうオカルトとは心霊の話であってUMAの話ではないけれど。
何処へ逝き、どんなことをしているのか。
わからないからこそ己の、家族の、友人の死後が怖い。怖いけれど、愛おしい。解らないからこそ、こうであったらいいなと心の底から思える。
「三途の川を渡る頃には、体もいたくなくて、健康な状態に戻れるんだよ」
「だから、きっと楽になったねぇ。良かったねえ」
そう思い込むことでの救いだってあると信じたい。
〆。