震災と私の話。前
こういう日でもないと文字を綴れないと思うので、3.11のあの日の事を書きに来ました。
ピックアップされるのは帰宅難民と津波被害ばかりで、ちょうど間に挟まれた茨城のことってあまり報道されなかったと聞いた記憶があるので…
乱文にはなりますが、今でも覚えている記憶たちを取り留めもなく。
9年前のあの日、私は茨城県で仕事をしていた。
生まれも育ちも茨城で、三次・四次請けなんていう環境下で仕事をしていた。
今でも覚えている。あれは金曜日で、私は納品まであと一週間というプチ炎上中の身だった。
朝からほんの少しだけ体調が悪くて、今まで経験したこともないような眩暈と倦怠感を感じていた。
それでも出勤できない程ではないし、ただ、万全を期して親に車で送ってもらったのだ。(当時の私は自分で運転し通勤していたので)
昼過ぎ。
祖母の作った弁当を食べ、自然と重たくなった瞼を必死で開きながら連結テストをしていた。
出たバグを、懸念点をExcelに起票し次の項目へ。
いつもと変わらない業務で、いつもと変わらない日の筈だった。
――あの震災が起こったのは、そんな日のことだ。
突如襲った激しい揺れは、朝からの体調不良と重なって簡単に私の平衡感覚を奪った。
とりあえず貸与されているPCを、ディスプレイを落としてはならないと手で押さえてこそいたが、学生時代に嫌というほど叩き込まれた「地震がおきたら机の下へ」なんてできるわけもなかった。
観葉植物が倒れ、偶然にも休みだった同僚のPCが机上から落下し盗難防止用のケーブルでぶら下がって。
一度目の揺れが収まったころ、茫然自失としていた私は妊娠何か月だかの同僚に引っぱたかれて外へと避難した。
道路はめくれあがっていた。
まるで鋼の錬金術師の、主人公の彼がパンってやった後に隆起した台地のように。
道路を挟んで目の前、歩いていたであろう老人がブロック塀の雪崩に押しつぶされた。
路肩に止まっていた背広の人が慌てて降りて救助しにいったのを今でも覚えている。
現実味がわかないまま、突如として家が心配になった。
平日は祖母しかいない。
祖母の部屋は古い箪笥や衣装箱に囲まれているし、洗濯物でもしていたら落ちてきた瓦に、…と最悪な想像をした。
パニック状態のまま一旦オフィスを閉め帰宅する流れになり、私は家の近い先輩の車で帰宅した。
いつもなら15分程度でつく道のりも散々たる有様で、迂回したり、徐行したりで30分以上掛かった。
家の前まで送るという先輩の申し出を断り、先輩の家と我が家の間くらいにあるコンビニで降ろしてもらい、めっちゃ走った。
学生時代の短距離走でも出したことがないんじゃないかってくらいの速度で、もう半泣きになりながら。
我が家は半壊していた。
正しく言えば、離れのような部分が倒壊し、母屋は瓦が落ちきって廃墟みたいだった。
息も切れ切れに駆け込んだ私を、祖母はきょとんとした顔で出迎えた。
早かったねえ、怖かったね、なんてほけほけと。
そうして言葉をいくつか交わして、その日、金曜日は母が定休日の日であったとようやく認識したのだ。
その母も、「揺れが収まってから布団を取り込んでいたら、10センチくらい隣を瓦が落下していった」なんて怖いことを笑いながら言っていたけれど。
自室も悲惨だった。
入口付近に置いていた箪笥が倒れて道を塞いでいたし、ディスプレイしていたオタク活動の資料たち(フィギュア)はその箪笥の上に鎮座していた。
てっきり落下していると思っていたPCは無事で、聞けばちょうどその時その場にいた母が必死で守ってくれたらしい。ありがたかった。(買い換えたばかりだったので…)
父の安否も確認し、まだ電話がかろうじて通じていたころ、ひとまず連絡を取った先は同人誌の印刷所だった。
我ながら馬鹿だと思うが、開催が迫っていた春の祭典への直納だけは避けなくてはいけないと思ったのだ。
その時は東京が、東北が、どうなっているかなんて全く知らなかったし赦してほしいと思っている。
程なくして、電気と水道が止まった。
勿論携帯電話も圏外となった。
ラジオもほぼほぼ入らず、テレビがつくわけもなく。
何時間かに一度放送される市内放送だけが情報源で。
ひとまずと仕舞い込まれていたキャンプ道具を出し、断続的に揺れが続くなかテントやタープを張った。
家の一部が使えなくなりかけていたからだ。
あのころ、3月はまだ寒くて。締め切った冷凍庫はなかなか冷気も逃げなかったし、何とか食い繋げた。
父の実家があわや水没だったと聞いたのは三日後だった。
海際の町とはいえ、かなりの高台にある家だ。完全に安心しきっていた。
灯台のような高い位置にある施設へ船が刺さっただのと聞いたときは血の気が引いた。
井戸水が出るという知り合いの家に水をもらいに行ったり、
給水が生きているという隣の市まで自転車で水を分けてもらいにいったり、
喫煙者が多い家なので、たばこを買いに早朝から走ったり、
深夜は駅前で、一瞬だけ入る電波を頼りにネットワークの世界へと赴いた。
自家用車のガソリンが乏しくなってからは、開店狙いで深夜みたいな時間からGSに並んだりもした(車がないとスーパーにもいけないようなへき地なので)(私はまだ若く、自転車で移動していたけれど)
私の市は水系統が特にやられてしまって、電気が復旧した後なんにちも水が復旧しなかったのだ。
そうそう、原発の事故や津波の話を仔細に知ったのは被災から1週間たったころだった。
漸く電気が復旧し、テレビが、ウェブが返ってきたころ。
そこに映された光景に息をのんだ。
大きい地震だとはわかっていた。わかっていたけれど、津波とは。
私の市への物流が滞っている理由もわかった。
酷い被害を受けたのはこの県だけではないと、その時に知った。
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