大人になるということ
大人になるということ
小説『推し、燃ゆ』を読んだ。
この作品、著者が21歳の大学生のときに書いたというから驚きだ。
作中で描かれる妙にリアルな重々しさは、等身大の学生から生まれたからゆえなのだろうか。
とにかく僕は、この作品にこのタイミングで出会ったことに運命的な何かを感じざるを得なかった。
あらすじを簡単に、文庫本の末尾に収録されていた解説から引用させていただく。
"推しを推すこと"が生活の中心で絶対である主人公に自分自身を重ねたり、一歩引いたところから見てみたりすることで、どうあるべきか、どうありたいかについて考えた。
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本作では主人公が最初に推しと出会うのは『ピーターパン』の舞台でだった。
ピーターパンは劇中何度も同じセリフを叫ぶ。
今の僕は社会的に分類されるとしたら、「大人」になる。
成人しているし、会社に勤めているし、映画を観に行けば大人料金が適用される。
しかし、こと"オタ活をしている自分"というところに焦点を当てると「大人」かと言われれば違和感を覚える。
誤解を招かないように言及しておくと、「この世のオタクは全員子どもだ!」と言いたいわけではない。
ここ最近、オタクとしての自分のあり方に変化が起きつつあって、自分がなりたい理想像とそうなれない現状での葛藤を抱える中で、なんとなく感じていた違和感が表に露呈したというべきか。
僕がオタ活を通して享受しているもの、それは「青春の追体験」と言って差し支えないと思う。
おそらく僕も、心のどこかで大人になんてなりたくないと思っているのだろう。
だから青春にすがりついていないと生きていけないのかもしれない。
人生において、心が焼けるほどに熱くなる物語、歌、キャラクター、人、ひいては"推し"に出会えること自体が奇跡だと思う。
と同時に、ここまで心が熱く燃え盛るのは青春の特権でもあるような気がしている。
成熟した大人になることは青春が終わることを意味するから寂しいんだと思う。
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僕は「大人になること = 自立すること」であると考えている。
2023年12月1日公開の映画、
『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』でこんなシーンがあった。
このシーンを映画館で観たとき、ちょうど自分が社会人1年目だったことも相まって、咲太と一緒に涙したことを覚えている。
自立したことを認めてもらえた、そんな安堵からの涙だった。
一言で自立と言ってもこの言葉の意味は深い。
辞書的な意味では、「他の援助を受けずに自分の力で身を立てること」を指し、一般的には対義語は「依存」とされる。
ただし、人間は真の意味で1人で生きていくことはできない。
もっと拡大して解釈すると、依存先が多岐にわたって存在している状態のことを自立と呼べるのではないだろうか。
『推し、燃ゆ』では主人公は推しのことを「背骨」と表現した。自分の中心を貫く1本柱に自身を集約し、強烈に依存したのである。
改めて、自分にとって推しとは何か考えてみる。
糧。
活力。
原動力。
なくても生きていけるけど、あれば人生が豊かになる何か。
────「感情」。
喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだり、推しがいることで僕の感情は豊かになる。
そんな、僕の人間らしさみたいな部分を支えてくれるのが推しの存在だとしたら、素敵だなと思えた。
あとがき
「青春」とは元来、古代中国における陰陽五行思想において四季を人生に当てはめた言葉である。
四季にはそれぞれ色があてがわれ、
春は青(緑)、夏は朱(赤)、秋は白、冬は玄(黒)
だという。
「青春」はその名の通り「春」を示す言葉で、青年期を表す。
日本では主に学生時代のイメージが強い言葉だが、本来は10代から20代後半までの青年期を指すらしい。
当然、「春」が終われば季節は「夏」へと移ろいゆく。
30代から50代前半を示す「夏」を示す言葉は「朱夏」と言うそうな。
なんたる偶然。
"推しを推すこと"について葛藤して、その先で出会ったのがこれまた"推しの名前"という事実。
これってただの言葉遊びに過ぎないんだけど、僕自身そういうのが好きな人間だからというのもあって、「青春」という眩しい季節が終わっても、「朱夏」という明るい季節が待ってるなら大人になるのも悪くないかもしれないと思った。
とは言え、季節は逆行できないから、今しかない青春をもう少しの間は謳歌していたいとも思う。
いつの日か僕にとって"推しを推すこと"が、複数ある依存先のうちの一つとなったとき、つまりは自立したオタクになれたとき、新しい季節が訪れて今とはまた違った景色が見られるような気がした。