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すべては距離感である⑧ 他者(被写体と鑑賞者)との距離の縮め方

距離を縮めるためには、まずは相手の話を聞く


若い頃(今もですが)、私は猪突猛進型の人間でした。
言いたいこと、やりたいことが頭の中に溢れていて、すぐに自分の話や本題に入ってしまう。
ある日、こう言われました。

「誰も、若い君の話に興味をもっていないよ。自分の話をするよりも、まずは相手の話を聞くこと」

よほど尊敬できる人でない限り、相手の話をただ聞くというのは苦痛なものです。
自分の話をするよりも、まずは相手の話を聞くことで、本当に大切なものが見えてくる。そう教えられてから、すぐに本題や自分の話に入らず、じっと相手の話に耳を傾けるように心がけました。
否定も反論もせずに、ただただ話を聞くだけで、相手は徐々に心を許し、距離感が縮まってゆく。
多くの人は自分の話をしたがっています。社会や組織、コミュニティの中で自分を殺し、言いたいことを吐き出せずにいる。その言葉に耳を傾けることで、大きな信頼感を得ることができるのです。

若い人に、こんなことを聞かれました。

「では、自分の意見や考えを、相手に伝えるには、どうすればいいんですか?」━━と。

書店に並ぶ話し方や伝え方の本をパラパラをめくると、基本的には同じことが書かれているように感じます。
言葉の選び方、情報の組み立て方、論理的な話し方……。YouTubeやテレビの討論番組でも、理路整然と相手を論破出来る「コミュ力」のある人が人気を集めている。でも、全ての人が理路整然と流暢に話せるわけではないし、実際に「コミュ力お化け」のような人が身近にいたら、決して楽しくないのではないかと思うのです。

僕がこれまで出会ってきた作り手の中で、最も言葉に正確さと厳密さを求められたのは、高畑勲監督でした。
ある日、高畑さんと雑談をしているときに、「会話って、キャッチボールのようなものですよね」と口にすると、当たり前のことを言ったはずなのに、高畑さんは身を乗り出して「そうなんですよ!」と目を輝かせ、こう仰ったのです。

「私は、コミュニケーションという言葉が嫌いなんです。なんか軽く感じるでしょう。あと『心を開く』という言い方も好きではない。『心をオープンにして、どうぞ私の中に入ってきて下さい!』って、とても一方的で不遜じゃないですか。今石井くんが言ったように、会話って、互いに考えていることを、言葉を通して交換することなんですよ」

心は開くものではなく、通わせるもの

相手から情報(言葉)をもらったら、こちらも返す。会話というのは、情報のギブアンドテイクなのです(高畑さんは「ギブアンドテイク」という言葉は使いませんでしたが)。
「コミュ力」とは、自分の考えを相手に一方的に伝える能力ではなく、互いに言葉を交換できる能力なのだ……ということを、この日からずっと考えるようになりました。

では、相手の話を聞きつつ、自分も相手にとって有益な(=自分が言いたいこと)をどう返せばいいのか。
私は自分が伝えたいこと、考えていることのストックを引き出しに入れておきつつ、相手の言葉を「鍵」にして、それらを引き出して話すようにしています。
まずは相手の話を聞く。その話の中から、自分が考えていること、伝えたいことと関係がありそうなことを「今、◯◯さんが仰ったように」とか「今の◯◯さんのお話、むちゃくちゃおもしろいですね。僕も最近〜」とか「そうなんですか! びっくり。実はこんなことがありまして」と、相手の話を肯定してから自分の話にもっていく。
やってはいけないのは、否定すること。「いや」とか「それは違いますね」とか「逆に」は禁句です。
「なるほど」「さすが」「いいですね」「すごい!」と褒めてから、自分の考えを、まるで相手の言葉がきっかけで思い出したように話し始める。しばらく話したら「で、さっきの◯◯さんのお話、続きは?」と、再び返すようにする。

アメリカを代表する写真家、アニー・リーボヴィッツのポートレート撮影現場の映像を観察していると、被写体を褒めて乗せつつ、実に見事に、自分のイメージ通りに演じさせているかがわかります。

私は、「街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜」というYouTubeチャンネルを欠かさず見ています。

傷を背負った人たちと街頭で待ち合わせし、カメラを被写体ギリギリまで近づけて、その人生を聞くだけの番組なのですが、ディレクターの三谷さんという方の聞き方が本当にすごい。
「ほえ〜」とか「そうなんですか」とか、一見間の抜けたような相槌を打ちながら、どんどん相手の本音を引き出してしまう。
本当の「コミュ力」とは、まずは自分の意見を捨て、相手の言葉を聞くことが出来る人。そして、最も重要なタイミングで相手の心を動かす言葉を放てる人のことを言うのだと思います。

一年に一度は必ず読み直すファンタジー小説の名作「モモ」(ミヒャエル・エンデ著)の主人公・モモの特技はたったひとつ、何時間でも、何日でも相手の話を聞くことができる━━というものでした。
エンデの作品は、写真撮影のヒントにあふれていて、いつかエンデだけで一章書きたいと思っています。

良い写真、そうでない写真の差はたったひとつ?

カメラを手に、ポートレートを撮ったり、ストリートスナップに出かけたりするうちに、良い写真を撮れるか撮れないかの差は、先に述べたコツに近いのでは……考えるようになりました。

SNS上には、高性能なカメラで撮影された、完璧に見える風景写真やポートレート写真が溢れています。
ここ数日Xで、写真を「長押しして4K(別に4Kの写真って、そんなに多画素でもないと思うのですが……)で読み込んで」というミームが流行っていますが、拡大して細部を見て、いったい何が見えるのでしょう? 解像度が低く、少しボケたくらいの写真のほうが、見る人の脳内の想像力の力を借り、心理的解像度の高い写真を演出することができると思うのですが……。

歴史に残る写真家の写真を見続ければ見続けるほど、思います。
撮影者と被写体との対話の中に生まれる情報や空気感のようなものを、鑑賞者である私が想像し、心を動かされているのだ──と。
写真は「写っているもの」よりも「写っていないもの」の方が大事なのだと。

ロバート・フランクの「THE AMERICANS」と、スティーブン・ショアの「Uncommon Places」は、名著と言われながら「何がいいのかよくわからない」と感じる方が多い写真集です。

私のような新参者が分析的に語ることはおこがましいことですが、多くの読者は「この写真は何を意味しているのだろう?」と考えるのではないでしょうか。でも、そこが面白い。

「『THE AMERICANS』の表紙に写る乗客は、いったい誰を見ているのだろう?
「Uncommon Places」の表紙に写る車の並び方や色の配置に、何か意味があるのではないか?

その答えは、撮影者本人しか知らないし、もしかしたら撮影者本人にもわからないかもしれない。
しかし、写真を見て「これはなんだろう?」という疑問が脳内にひらめいた時点で、撮影者と被写体と鑑賞者の間に距離感が立ち上がります。

写真集の世界は多様で、人の死体ばかり写っていたり、汚物だけで構成された写真集もある。
目をそむけたり、写真集を閉じた時点で、撮影者の術中にはまったことになる。写真から「距離を置きたい」と読者が感じた瞬間に、そこには撮影者(著者)の意図した読者(鑑賞者)との距離感が生まれているからです。

最新のカメラを使ってセオリー通りに撮れば撮影できる写真や、美しいモデルをただ美しく撮っただけの写真には、ある特徴があります。そこには「美しいもの」が写っているだけで、距離感がない。
素晴らしい写真には、鑑賞者を立ち止まらせ、問いかけ、問い直させる距離感がある。写真と鑑賞者の間には対話という情報の交換があり、鑑賞者の脳内にひらめくイメージや言葉が、その写真を完成足らしめている。
写真と人生における「距離感」とは、互いに言葉や情報、むしろ言語化出来ない空気感のようなものを通わせ合い、互いの距離を近づけたり離したりしてゆくということなのではないでしょうか。

第一の距離感が、カメラと被写体との「物理的な距離感」
第二の距離感が、
前回記した「記憶の中の距離感」
第三の距離感が、「鑑賞者との対話という距離感」

写真を撮るということは、被写体との距離感を撮るだけではなく、撮影された写真と鑑賞者との距離感を生み出すという行為である。
冒頭に述べたような一方的に相手を論破している写真との間には、対話も感動も生まれない。
「長押しして4Kで見て!」ではなく「私はこう撮ったけど、あなたはどう思う?」というメッセージの方が、鑑賞者の脳内イメージを、無限の可能性をもって借りることができる。被写体と対話し、その情報の交換が、鑑賞者との対話にもなるような写真がきっと「良い写真」なのだと思います。

だいぶハードルを上げてしましましたが……。
著名な写真家の写真を上げるわけにはいきませんので、理想の域にまったく達していない私の写真の中から数点、今回の考え方をもって撮った写真を、キャプションと共にUPさせて頂きます。

あれ? なにか変だな……と思って目をこらしたら、男性は階段ではなく階段の手すりにあたる段に座っていた。
日常の中のちょっとした非日常を撮れるようになりたい
大工事中の渋谷の高架を歩いていたら、まるでバスが出口を目指すヘビのように交差点を目指すのに気づきシャッターを切った。
後で見返して、各々のバスが「俺がさきだよ」「私のほうが先よ!」と言い合っているのを想像してひとりでニヤニヤ。
左右の扉で行先が違うのでは……? と妄想して、一枚。人が写っているカットもあったが、人が写っていないほうが扉そのものに意志を感じような気がする。
ゆっくり近づいてゆく男女をなぜかそのまま撮るのはつまらないと思い、手すり越しに撮って互いの距離感をつくってみた一枚。このあと二人は、少し距離を置きながら一緒に歩いていった。夫婦だったのだろうか……。
明け方。彫像越しに月を撮ろうと思っていたら、二話の鳥がプレゼントをくれた。
ルーブル美術館周辺をいくら撮っても観光写真にしかならないので、表通りに出て振り返った瞬間に「あ!」と思って撮った一枚。
問いかけられ、撮影し、また問いかけられ……。

ああ……恥ずかしい。
こうしてキャプションを書きながら写真を見直すと、私の写真にはかろうじて鑑賞者との「対話」は生じても、フレーム外がないということに気づかれます。写っていないものをどう映すことができるか。こうして note で考えたことを整理するだけで課題が見えてくるのも、読んで下さる読者の皆さんがいらっしゃるおかげです。
写真を見て下さった皆さんの中に生まれた「何か」が私と被写体、そして皆さんとの距離感なのだと信じ、今後も心動かされる瞬間を撮り続けたいと思います。

今回も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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