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すべては距離感である 6〜10までのまとめ

前回に引き続き、「すべては距離感である」のまとめ、後半です。

距離感について考えているうちに、物理的な世界における距離感だけではなく、「記憶の中の距離感」をどう演出するかが重要なのではないか。読者や鑑賞者の「記憶の再生スイッチ」を押せる人が表現者の条件なのではないかと再認識するに至りました。

note ユーザーの方の中には、表現者を志向している方も多いのではないでしょうか。
多くのクリエイターと仕事をしてきましたが、共通するのは「記憶力」(丸暗記ではなく、印象的な出来事を独自のイメージで記憶できる力)と、表現によって他者の記憶を喚起できる「鍵」を持っているかどうか、でした。

宮崎駿監督は、幼い頃の記憶と、今起きていること、これまで見てきたものを組み合わせ、世界中の人々の脳内に、ノスタルジーにも似た感覚を呼び起こさせます。「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」の押井守監督は、SF映画を作る時「誰も見たことのない世界を作ってもリアリティは生まれない」と、古い風景の中に新しいものを共存させることで「未来感」を表現します。
「攻殻機動隊」の世界が香港を舞台になっているのは、古い建物や焦点がひしめく世界の中でサイボーグが活躍するほうが、観客の脳内に「どこかで観たことがある」世界の中で「これから起こりうるかもしれない」「ありそう!」というリアイリティが生まれるからに他なりません。

第⑥回は、漫画やアニメのキャラクターの「目」の描き方や位置によって、キャラクターが「何を観ているか」がわかるということを書きました。主人公キャラは寄り目が多く、視野は狭いけどまっすぐ物事を見つめている。ヒロインの目は少し広く、全体を見ている。
写真撮影においても、どのような「目線=距離感」で世界を見るかどうかで、伝わるものが変わってくるのではないか、ということを考えています。

第⑦回は、今回冒頭で記した通り、才能のあるクリエイターは、見る者の記憶の中から、感覚を引っ張りだすことが出来るということ、物理的な距離感よりも、記憶の中の距離感の方がむしろ重要なのではないかということを考えています。
宮﨑さんはよく「5歳の頃に戻っていた」と口にしていました。5歳の時まで記憶をさかのぼり、その時感じたことをアニメーションとして描く。写真であれば、幼い頃にどこかで観たような風景を撮り、同じような経験をした人たちの5歳の頃の記憶をさかのぼらせることができる作品が、歴史に残る写真になるのだと思います。

第⑧回は、他者=鑑賞者(作品を観てくれる人)との距離感の作り方について考えました。
距離感には、三つの距離感があると思います。

第一の距離感が、カメラと被写体との「物理的な距離感」
第二の距離感が、第⑦回で記した「記憶の中の距離感」
第三の距離感が、「鑑賞者との対話という距離感」

第一、第二の距離感まではなんとか身につけられても、第三の距離感をつくることは本当に難しい。
作品を観てくれる人が自分の作品を観てどう感じるかを考えないと、表現は独りよがりになってしまうのでは……と思います。

哲学的な話が続いたので、第⑨回は実践編でした。
被写体を円の中心に置き、円周を回り込みながら撮影すると、被写体との距離は変わりませんが、見えてくるものは変わってくる。
距離を詰めたり離すことは大切ですが、距離を変えず、回り込むことで見えてくるものがあるのではないか。
この数年、世の中化を騒がせているメディアの狂乱を見るにつけ、ますますそう感じます。

最新回では、私たちが懐かしいと思う過去の記憶は「その時見た風景」ではなく、当時のメディアに定着した解像度や色彩によって再現されているのではないか、ということを書きました。
50年前の東京の空と、現代の東京の空の色は変わらない。私たちが「懐かしい」「エモい」と感じる過去の記憶は、実は当時のメディアの色彩や解像感によって規定されている。第⑦回「記憶の中の距離感」と同様に、撮影者(作り手)と鑑賞者との間に共通する「記憶の再生スイッチ」をどう押すことができるかが、写真に限らず、表現において最も重要なことなのではないかということを書いています。

第⑩回まで読んで下さった皆さんに、心より御礼申し上げます。
これからも「人生の距離感」について考えたことを、書かせて頂ければ幸いです。

次回は「自分との距離感」と題して、自意識や自己承認に欲求とどう向き合うか。
自分のことは一番わからない……ということを書いてみたいと思います。

さて、今日はどんな人と出会い、どのような距離感で関係を結べるか。
ちょっとめんどくさいな……と思う気持ちもあるけれど、楽しみです。

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