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すべては距離感である(11) 自分との距離感
「承認欲求」で撮るか 「自分を捨てて」撮るか
人は誰しも「こうありたい」という自分をイメージして生きています。
人からよく見られたい━━モテたい━━デキる人と思われたい━━才能があると思われたい。
SNSで「いいね」をもらえると、最初はうれしかったはずなのに、次第に「今日はこれだけか……」と焦り、気づいたら「いいね乞食」になっている。
資格や自己啓発、転職や美容整形の広告があふれる世界で、多くの人が承認欲求の渦に飲み込まれ「本当の自分」を探している。
しかし「本当の自分」なんて存在しません。
人間は、自分と他者とを比較してしまう生き物です。
歴史学では、狩猟採集社会から定住社会になり「所有」という概念が生まれてから、人は妬み、憎しみ合い、争いを続けてきた━━と言われますが、きっと狩猟採集の時代から、人類が進化するために、他者と比較する能力が必要だったのだと思います。
私は、自分の才能や能力に「ほぼ」期待していません。
世の中にはとんでもない魅力と才能を持った人がいる(そういう人たちは大概、自分に能力があると思っていません)ことを知ってから、「こうありたい」という自分を捨て、他者から必要とされる自分に集中したほうがうまくいく……と考えるようにしています。
自分に期待していない分、ちょっとうまくいくと嬉しいし、うまくいかなければ「ま、こんなものか」と次へいく。
人と比較するくらいだったら、昨日の自分と今の自分を見比べて「どっちが面白いか」と考えたほうがずっと意味があると思っています(「面白い」が最優先)。
写真について学ぶうち、写真撮影もまた「承認欲求で撮るか」「自分を捨てて撮るか」で、アウトプットがまったく異なるのではないか、と考えるようになりました。
今回は、写真と人生には「物理的な距離感」と「記憶の中の距離感」に加え「自分との距離感」が存在するのでは━━という仮説です。
SNS上で「どう? 俺上手いでしょ?」と自信満々の写真を見た時、皆さんはどう感じるでしょうか?
その写真が素晴らしければ別ですが、大概の場合「何か変だな……」と感じ、私は人間が小さいので、イラッとします。
撮影者のしたり顔が、その写真に写っているように感じるからです。
一方で、他者の意見や評価をまったく気にせず「本当に感動して撮ったんだろうなぁ」と思わせる方の作品には心動かされます。良い意味で撮影者自身が写っていない。「上手く撮ろう」とか「人に褒められよう」という意識がなく、見ているこちらがその世界に入ってゆけるような写真が、私にとって「上手いなぁ」と思う写真です。
両者の違いは、どこから生まれるのでしょうか?
自分のことはわからない
自分のことなんて、自分が一番わからない。
自分が「こうありたい」と考えている自分には、他者は何の興味もない。
「自分とか、ないから。教養としての東洋哲学」という本がベストセラーになっています。
「自己(と神)」を中心におく西洋哲学と、「そもそも自分なんてない」というところから東洋哲学では、人生のあり方が大きく異なる。
「我思う、ゆえに我あり」と考えるか「自分など存在しない」と考える(考える必要さえない)かで、世界を見る目は大きく変わってくる。
本連載で何度か触れている、写真哲学の名著「明るい部屋」(ロラン・バルト著)において、写真には、
撮影者・被写体・鑑賞者
の三つがあると記されています。
撮影者である「自分」以外に、「被写体」と「鑑賞者」という他者が存在する。
このふたつの他者を考えることで、より良い写真を撮り、人生を生きることが出来るのではないかと思うのです。
撮影者である自分が、被写体に向けてカメラを構えているとします。
「うまい写真を撮って、『いいね』を沢山もらいたい!」
と考えて撮る写真と、
「被写体の魅力を写し出すにはどう撮れば良いか」
と考えて撮る写真は、まったく違うものになるはずです。
写真のプロ・アマ論争には興味がありませんが、プロは被写体の魅力を最大限に引き出すことに集中しないと仕事にならないが、自由に撮れるアマチュアの中には、被写体の魅力よりも自分が上手いと思われたいという意識で撮っているが一部いて、そこに「イラッ」とした人たちが「プロ・アマ論」に火をくべているのではないでしょうか。
アマチュア写真家の中にも、被写体の魅力を写し出す、素晴らしい写真を撮る方々が沢山いますし、プロの仕事も多種多様です。
ついつい私たちは人生には、「撮影者」と「被写体」しかいないと勘違いしてします。
しかし、人生には「鑑賞者」というもうひとつの他者=視点が存在する。「鑑賞者」とは、「他者が自分をどう見ているか」という視点ででもあります。被写体の魅力を引き出し、鑑賞者にそれが伝わってこそ「伝わる写真が撮れた」ということになる。
自分を捨て、自分と被写体、そして鑑賞者との「距離感」を測ること。
それが、本連載で書いてきた物理的な距離感や記憶の中の距離感に加えて、今後私自身、心にとめておきたいと考える、写真撮影におけるもうひとつの「距離感」です。
ウォーカー・エヴァンスとスティーブン・ショア
世界の写真文化について貴重な情報を得ることのできる雑誌「IMA」のオンラインサイト「IMA ONLINE」に記事に、写真家・スティーブン・ショアが、記録写真の名手、ウォーカー・エヴァンスの言葉を引用した、非常に興味深い発言が収録されています。
エヴァンスが信仰に似た写真の行為について語り、“超越”の瞬間に起こるある種の「乗っ取り(Taking over)」について説明していた箇所である。それは無意識に起こり、エヴァンスは「魔法のよう」と言い表し、「それはまるで、ある場所に隠されていた、素敵な秘密をとらえるような感覚。その瞬間と私のみが存在し、私だけがそれを捕まえることができる」「もし『乗っ取り』が起こらなくなってしまったら、制作活動は続けられない」と話している。
「その『乗っ取り』の感覚というのは、長年私自身も撮影の際に感じていたものだった」とショアは続ける。筆者と彼が議論し続けたのは、ある意味一貫してその問題だった。どうすれば芸術家は、超越を感じる瞬間に何度も巡り合うことができるのだろうか?
「乗っ取り」という言葉に、鳥肌が立ちました。
自意識や自己承認欲求に支配されている人は、何からも「乗っ取られる」ことがない。
「乗っ取られていない写真」に写っているのは被写体ですらなく、つまらない自分自身でしかない。
自分を捨て、被写体の魅力を引き出し、鑑賞者の視点を考える。
━━そしてさらに上位の世界に存在する、魔法のような「何か」を見つけようともがくことが、写真を含む芸術文化に関わる人間の最低条件なのだと思います。
宮﨑さんはアニメーターを「世界の秘密を知った人」と表現していました。
「今から撮る写真の中に、世界の秘密が写るだろうか」
そう考えながら、シャッターを押したい。
いつかこの世を去る前に、たった一枚でも、そんな写真を撮ってみたい、と心から思います。
自分に期待せずに……。