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なぜ、中教審はこんなふざけた提言しかできないのか?給特法を廃止して労基法を適用し、教員に残業手当を出すことでしか現在の学校の惨状を回復することはできない!!!

 学校労働の「ブラック化」が言われてから、かなり時間がたち人口に膾炙してから久しい。この状況に文科省は、抜本的な対策を出すことができず、相も変わらず中教審に答申を出してもらって、小手先の対策で乗り切ろうとしている。50年前に当時の日教組に「賃金の4%」を上乗せするから超勤手当を請求しないという「毒饅頭」を食わせて成立させた「給特法」という法律が諸悪の根源だ。この「4%」を「10%」に値上げすることで、今の絶望的な学校現場を放置して乗り切ろうとしているのが、今回の中教審答申だ。それにくわえて、「若手教員の支援」などともったい付けた言い方で新しい職階制を導入しようというおまけ付きだ。

2024年5月11日 朝日新聞

 そのような文科省と中教審答申に対して最も根本的な批判が、内田樹さんの最新刊『だからあれほど言ったのに』の中にあったので、紹介したい。文科省の官僚は、学校現場の教員を信用していないのではなく、「信用したくないのだ」ということが内田さんの分析と批判からよくわかる。この「ダメな組織」がもたらすものは、さらなる学校現場の荒廃と教員の疲弊、そして子どもたちの学校からの逃走の拡大である。

「ダメな組織」の共通項

 ウスビ・サコ先生との対談を中心にまとめた『君たちのための自由論 ゲリラ的な学びのすすめ』(中央公論新社)という本を出版した。サコ先生は日本ではじめての「アフリカ出身のムスリムの学長」である。
 多様な出自の人々を同胞として迎える心構えにおいて日本社会はまだまだ十分な成熟に達していないと私は思うが、それでもサコ先生のような人が登場してきたこと、サコ先生の言葉に耳を傾ける人がしだいに増えてきたことは、日本の米来について私を少しだけ楽観的な気持ちにさせてくれる。
 私が日本の現状について「楽観的になる」ということはほとんどないが、サコ先生は私にその「ほとんどない」経験をさせてくれる稀有の人なのである。
 この共著の中で、私たちは主に日本の学校教育について論じている。それは学校教育が私たち二人の「現場」だからである。
 私はもう定期的に教壇に立つということはなくなったのだが、今でもいくつかの大学に理事や客員教授としてかかわっているので、大学で「いま何が起きているのか」はある程度わかっている「そして大学に関して言えば、楽観的になれる材料はほとんどない。
 大学教育は制度としてはどんどん劣化しているし、研究教育のアウトカムはどんどん低下している。それも加速度的に。
 その原因は「教育研究を中枢的に統御し、管理しようとする欲望」がもたらしたものであるぃ「諸悪の根源」というような激しい言葉をあまり使いたくないが、「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因であることは間違いない。
 だが、不思議な話ではあるが、「統御し、管理しようとする欲望」は「秩序」をもたらし、「効率」や「生産性」を向上させることをめざしているはずである。しかし、それがまったく逆の結果を生み出してしまった。なぜだろうか。
 それは「創造」と「管理」ということが原理的には相容れないものだからである。
「管理」がどういうものであるかはほとんどの人が知らているが、「創造」がどういうものであるかを知っている人はそれに比べるとはるかに少ない。

 日本社会では「管理」したがる人の前にキャリアパスが開かれている、彼らは統治機構の上層に上り詰め、政策決定に関与することができる。
 だが、「創造」に熱中している人はシステム内での出世にはたいてい興味がないので、創造的な人が政策決定に関与する回路はほぼ存在しない。
 だから、資源分配の決定を「管理が好きな人たち=創造とは何かを知らない人たち」が下す限り、その集団が創造的なものになるチャンスはまずない。したがって、自分の出世しか興味がない会社員が組織マネジメントを委ねられると、組織はどんどん息苦しく、みすばらしいものになる。
 というのは、「管理」が大好きな人たちはあらゆる仕にに先立って「まず上下関係を確認する」ところからはじめるからだ。「ここでは誰がボスなのか」「誰が命令し、誰が従うのか」「誰には敬話を使い、誰にはタメロでいいのか」「誰には罵倒や叱責を通じて屈辱感を与えることが許されるのか」ということをまず確認しようとする。彼らはまずそれを確認しないと仕事が始められないのだ。
 この集団はそもそも何のためにあるのか、いかなる「よきもの」を創り出すために立ち上げられたのか、メンバーたちはそれぞれどういう能力や希望があるのかということには副次的な関心しかない(それさえない場合もある)関心があるのは「上下」なのである。
 だから、日本の組織においては、上司が部下に対して最初にするのは「仕事を指示すること」ではなくて、「マウンティングすること」である。日下の人間にまず屈辱感を味わわせて、「この人には逆らえない」と思い知らせることがあらゆる業務に優先する。そんな集団が効率的に機能するだろうか。
 朝の会議で上司が部下に「発破をかける」ということが日本の会社ではよく行われるが、あれは今日する仕事の手順を確認しているわけではない。誰が「叱責する人間」で、誰が「黙ってうなだれる人間」かを確認する儀礼だ。そんなことを何時間やっても、は1ミリも先に進まないのに。
 だが、管理が好きな人たちは、その因果関係が理解できない。しっかり管理しているはずなのに、トップダウンですべての指示が末端まで示達されているはずなのに、なぜか組織のパフォーマンスはどんどん下がる。
 なぜ、仕事がうまくゆかないのか,そう問われると、彼らは反射的に「管理が足りないからだ」と考える。「叱り方が足りないからだ」「屈辱感の与え方が足りないからだ」と考える。そして、さらに管理を強化し、組織を上意下達的なものにし、査定を厳格にし、成果を出せない者への処罰を過酷なものにする。
 もちろん、そんなことをすればするほど組織のパフォーマンスはさらに低下するだけだが、その時も対策としては「さらに管理を強化する」ことしか思いつかない。

 軍隊には「督戦(とくせん)隊」というものがある。前線で戦況が不利になった時に逃げ出してくる兵士たちに銃を向けて「前線に戻つて戦い続けろ。さもないと撃ち殺す」と脅すのが仕事だ。軍隊の指揮系統を保つためには必要なものかもしれないが、もし「半分以上が督戦隊で、前線で戦っているのは半分以下」という軍隊があったとしたら「管理は行き届いているが、すごく弱い軍隊」だということは誰にでもわかるだろう。

 今の日本の「ダメな組織」は、この「督戦隊が多すぎて、戦う兵士が手薄になった軍隊」によく似ている。学校現場もそうである。
 教育行政が発令した政策はこの四半世紀ほぼすべてが失敗した,だが、それを文科省も自治体の首長も教育委員会も自分たちのミスだとは認めなかった。すべて「現場のせいだ」ということになった。
 指示した政策は正しかったが、現場の教員たちが無能であったり、反抗的であったりして、政策の実現を阻んだので、成果が上がらなかった。そういうエクスキューズにしがみついた。
 そこから導かれる結論は当然ながら「さらに管理を強化して、現場の教員たちに決定権・裁量権をできるだけ持たせない」というものになる。
 そうやって次々制度をいじっては、教師を冷遇し、格付けし、学長や理事
長に全権を集中させ、職員会議からも教授会からも権限を剥奪した。こうすれば「現場の抵抗」はなくなり、教育政策は成功するはずだった。だが、やはり何の成果も上がらなかった。
 この失敗も「現場が無能だからだ。現場が反抗的だからだ。もっと管理を強化しろ」と総括された。そして、学校現場における「督戦隊」的要素だけがひたすら膨れ上がり、「前線で戦う兵士」の数はどんどん減少し、疲弊していった・・・というのが日本の現状である。
 現在の学校教育現場で、最も深刻な問題は「教師のなり手がいない」ということだ。毎年、教員採用試験の受験者が減っている。さらに倍率が低いので、新卒教員の学力が低下し、社会経験が乏しいせいでうまく学級をグリップできない教員が増えている。それを青にして病欠したり、離職したりする教員も多い。
 これまで教員たちから権利を奪い、冷遇し、ことあるごとに屈辱感を与えてきたわけだから、こんなことは当然予測された結果のはずだ.だが、おそらく文科省も自治体の首長も決してそれを認めないだろう。
 

繰り返すが、「管理」と「創造」は相性が悪い。

 創造というのは「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスである。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるが、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことだ。
 やっていることは見た目には「いきあたりばったり」だから、「管理」する側から「何をやっているんだ」と問い詰められもうまく答えられない やっている当人は自分がある目的地に向かって着実に進んでいることは直感されるが、それが「どういう目的地」なのか、企行程のどのあたりまで来たのかは、自分でもうまく言葉にできないて「このまま行けば、『すごいこと』になりそうな気がします」くらいしか言えない。そういうものだ。
 完成品が何か、納期はいつか、それはどのような現世的利益をもたらすのかについて答えられないというのが「ものを創っている」時の実感である。

「創造」は科学や芸術に限られたものではない.

 例えば、食文化というのは本質的にきわめて「創造的なプロセス」だと私は思う。
 食文化の日標は何よりもまず「飢餓を回避すること」である。だから、「不可食物」の「可食化」がその主な活動になる。実際に人類は実に多様なI夫をしてきた。焼く、煮る、蒸す、燻す、水にさらす、日に千す、発酵させる……などなど。
 それまで不可食だと思われていた素材を使って最初に美味しい料理を創った人は人類に偉大な貢献を果たしたわけだが、こういう人たちはそれまで知られていたすべての調理法を試したわけではないと思う。よけいな辻回をしないで、割と一本道で目的地にたどりついたのではないか。
 じっと食材を見ているうちにその人の脳裏に「これを食べられるものにするプロセス」がふと浮かんだ。まったく独創的な、これまで誰もしたことのない調理法を思いついた「試してみたら、いささか試行錯誤はあったけれど「美味しいもの」ができた。
 このプロセスはまったくの偶然に支配されていたわけではないと私は思う。創造的な調理人は「なんとなく、こうすれば、これを美味しく食べられるようになるのでは?」という「当たり」をつけてから始めたはずである。だが、どうしてその「当たり」がついたのかは本人もうまく説明できない。「なんとなく、そうすればできそうな気がした」というだけで。

「だいたいの当たりをつけてから、そこに向かう」プロセスのことを「ストカスティックな」プロセスと呼ぶ。ギリシャ語の「的をめがけて射る」という動詞から派生した言葉である。創造というのは「ストカスティックなプロセス」であるというのは多くの創造的科学者たちが言つていることだ。
 フランスの数学者アンリ・ポワンカレによれば、数学的創造というのはそれまで知られていた数学的事実のうちから「これとあれを組み合わせたらどうなるかな」という組み合わせをふと思いつくということだそうだ。その場合の「これ」と「あれ」はいずれも「長い問知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた」事実である。誰も思いつかなかったその結びつきにふと気づいた者が創造者になる。
 創造的な調理人もそうだと思う。これまで不可食とされていた植物や動物は目の前にラングムに散乱している。調理法も経験的に有効なものがいくつかが知られている。
 ある日、ある調理人が「長い間知られていたが、たがいに無関係であると考えられていた」ある不可食物とある調理法の組み合わせを思いついた。それが新しい料理の発明につながり、人類を飢餓から救うためにいくらかの貢献を果たした。たぶん、そういうことだと思う。

 創造というのは「外からはまるでいきあたりばったりのように見えたが、ことが終わってから事後的に回顧するとまるで一本の矢が的を射抜くように必然的な行程をたどっていたことがわかる」というプロセスだ。だから、「ストカスティック」なのである。
 多くの創造的な人たちは、学者でもアーティストでも、自分たちの創造の経験を似たような言葉で語るのではないかと思う。
 こう説明するとわかると思うが、これはまったく「管理」になじまないプロセスである。
 ウスビ・サコ先生や私の関心は、どうやってもう一度「創造」を活性化するかとうことだ。それについて二人ともずいぶん真剣に考えてきたし、いろいろ「実験」もしてきた。
 その時点では成算があったわけではないし、どういう効果が期待できるかもわからなかった。なんとなく「これは『当たり』じゃないかな」という気がしただけである。でも、サコ先生も私もその直感を信じた。
 サコ先生も私も「管理する側」から見たら、とても手に負えない人たちだと思う。だが、それは私たちがただ反抗的であるとか、反権力的であるとかいうことではなく、「創造」ということに強いこだわりを持ちているからである.

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