斉藤斎藤 歌集
ふと、東日本大震災の年にそのかたの「歌集」を読んだ憶えがある歌人を思い出しました。
この十年間に亡くなった叔母、継母、お袋は長い間神戸、西宮、大阪に暮らしながら震災に負けることなく生きてきました。昭和の時代に青春と戦争を向かえ、亡くなる約三十年間はひとりで暮らしていました。東日本大震災を思うとき、直接の痛みはないにしろその感触はいかほどかと考えていました。彼女たちがこのコロナ禍を経験しなかったことは、幸せだったのかとじい~っと思ってしまいます。
東日本大震災以降とそれ以前のわたしたちの時代は、違った世界なのか同じ歴史の流れのなかにあるのか、この十年では新しものは見えてこないものです。大震災の前後約十年の作品を集めた歌集には、歌人が見てきた事故、事件を時の流れとともに同じことの問題として追っているように思えます。
約一〇〇〇首のボリュームはそのテーマの重さに比例したものか、福島、加害者、被害者、死…そして少子高齢化と日本人がこの地に暮らし続けることの根深い問題を意識させられます。他者にどれほど向きあえているかの希薄くさは、震災という大きな亀裂が生じた地面に、亡くなった彼女たちは知らないコロナ禍の日本のダメージの大きさが、列島の沈没ではなく日本人の漂流に繋がるような気がしてきます。このままでは、こどもたちには聞かしたくないことばかりです。
読み通すには相当の労力が必要で、まずはこの三首だけ…。
「『それを思い出して何になるのだ。』と彼等は苦々しく云うだろう。」(P201)
車窓に見える冬田のような、道よりも一段ひくく更地がつづく(P212)
風車まわれよまわれ わたしたちに未来があったあのころの風で(P242)
一首追加します
自民党には誰も投票しなかった私の読者を誇りにおもう(P43)
斉藤斎藤の歌集「渡辺のわたし」から<十首選>
「斉藤さん」「斉藤君」とぼくを呼ぶ彼のこころの揺れをたのしむ
誰もいなくなってホームでガッツポーズするわたくしのガッツあふれる
蛇口をひねりお湯になるまで見えている――そう、ただ一人だけの人の顔が
寝返りにとりのこされて浮かんでるひだりのうでを君にとどける
あなたの匂いあなたの鼻でかいでみる慣れているから匂いはしない
上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに
ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁
お母さん母をやめてもいいよって言えば彼女がなくなりそうで
題名をつけるとすれば無題だが名札をつければ渡辺のわたし
阿波野 巧也氏による『渡辺のわたし』斉藤斎藤(歌人)の評価をご紹介します。