Take A Chance With Me
元友。
4歳?5歳?ぐらいから保谷に住み始めて、小3の2学期まではいた。生まれたのは板橋の大山で、その次が保谷。
保谷時代が人生でいちばん友達がいた。いちばん仲良かった子が割とボス的なタイプで、そうすると人間関係(小学生だけど)が拡がるんだよな。
うちは保谷でも極めて新座市寄りで、小学生らしく、よく道一つ越えては東京から埼玉県行った、みたいなこと口にしてた。
保谷にはなんか郷愁と思い入れがあるな。いまは西東京市になってしまい、ピンと来ない。いや、保谷だろ、と。田無じゃねえぞ、みたいな。
小学校に入学したのはだから保谷で、保谷市立第一小学校、それが2年生になると栄小学校というのが出来てそちらへ移った。プールの底がアルミ(?)でなんか新しかった。
うちからは割と近いところに青嵐中学校というのがあり、いずれはそこへ行くんだと思ってた。けど、小3で引っ越して、そうじゃなくなった。青嵐中学校、名前がカッコいいし、そこが良かったな。友達ともそうすれば続いたわけだし。
保谷で憶えてるのは漬物工場と、そこに時期になると翻る大きな鯉のぼり。夏になると市営プールへ友達と行ったこと。おれだけ自転車がないんで、走ってついてったこと。いまはもうそういうことはないけど、当時は「空き地」で遊ぶのがデフォルトだった。道端のツツジの蜜を吸ったこと。母親に妹と一緒に連れられて銭湯へ行き、帰りにアーモンド(型)パンを買ってもらったこと。近くの商店へ歩く道から富士山が見えたこと。うちは父親の働くサッシ屋の平屋の社宅で、玄関がなかったこと。たぶん、現場の関係などで本来は一時的に寝泊まりするような場所だったんだと思う。風呂はついてなかったけど、いつか後付の風呂をつけたこと。なんか家の外にそういうのを設置するのがあって、照明や水やらガスはどうしてたのか、まったくわからないけど。憶えてない。小学生がそんなことわかるはずもない。検便の時に外便所で新聞紙にうんこをしたこと。外便所があったんだな。家の中にも、でも、便所はあったと思う。いまは使ってない倉庫もあり、その中で友達と遊んだこと。トラックも出入り出来るような場所だったのもあって、庭が割と広かったこと。その庭に大きな穴を掘って遊んだ。掘り返すとゴミがいっぱい出て来たこと。近所に同い年くらいの子供たちがいっぱいいたこと。変電所が近くにあったこと。近所の林に、クラスメイトが遊んでるうちに誤って火をつけてしまったこと。豆腐売りが時々来て、鍋持って買いに行ったこと。酒屋の御用聞きのお兄さんに友達がねだって、おれはそういう声掛けがシャイで出来ない、コマ回しをしてもらったこと。上手だったんだ。いま思うと、結構若かったんだろうな。御用聞きなんて、いまはもういない。メンコを盛んにしていたこと。ぜんぜん、おれは強くなく、メンコを取られる一方で、勝った気のしなかったこと。時々友達と連れ立って大泉学園方面の公園まで行ったこと。大した距離じゃなかったんだろうけど、小学校低学年にしてみたら、結構な遠出だ。そんなときにサラリーマン(?)のおじさんにかき氷をおごってもらったこと。それはどういう流れだったのか。両親はよく夫婦喧嘩してて、お母さんが出てっちゃって、お父さんが自転車で追いかけて行ったこと。顛末とか全く憶えてない。お父さんが自転車でお母さんを追ったというイメージだけが残ってる。
他にも思い出せばなんかあんだろうな。
それで、そういう保谷時代の思い出ってより、書きたかったのはおれがその後、川越に引っ越してからも友達とは手紙のやりとりがあって、それだけじゃない、2度3度(?)はお互いの家に泊りがけで遊びに行ったりなんかしたんだよな。よくそんなことしてたよな。日帰りじゃなくて、泊りがけだった。川越へ来た時に、ガメラかなんかの映画を見に行ったのと、そのときに帰りにタクシーを使ったことを憶えてる。なんで小学生がタクシーなんか使ったんだろ?川越の時はうちから駅までは割と遠かったからかなあ?友達は2人、あるいは3人でうちに来た。うち、1人が夕方になって、家が恋しくなっちゃって、泣き出して、1人だけ自分ちへ帰ったのをよく憶えてる。けど、どうやって彼は帰ったんだろうなあ?親が迎えに来た?憶えてない。そんな風に引っ越した後もつきあいは続いてたけど、いつかなんとなく手紙も止まってしまい、それきり。でも、小学生にしてはアクティブにつきあってたよな。お互いの家に行くぐらいなんて。川越と保谷だから、そんな距離はなかったと云うのも幸いだったんだろうけど。なにしてるかな、阿久津くん。鈴木くん。