「自転しながら公転する」(山本文緒)

 昨日、夜中、まだ残り20%ぐらいあるし、おれのはKindleだからページというよりパーセント表示で出て、それ、目安にしてる、ここで寝て後は明日、とか思ったけど、なんかやはり気になりそのまま読み続け読了。もう1時前だったかな。こんなに読書に嵌ったのは久しぶりかな、というか、読書自体、めっきりしなくなっちゃったし。

 読んでたのはもっぱらiPadで、ちょうどおとつい、スマホスタンド買ったのが届き、それにiPadくっつけて、老眼鏡掛けて読んでたので、結構読み易かった。そのスタンドはベッドすぐ横にパソコンが置いてあるデスクがあるんで、その脇っちょに噛ませて、そこからアームをベッドの方まで伸ばし、おれはベッド上に置いた無印良品の人がだめになるソファに寄っ掛かりながら読書。

「自転しながら公転する」(山本文緒)

 前作の「なぎさ」の時は聖地巡礼で久里浜まで行った。今回も出来れば牛久大仏とあみアウトレットパークには行ってみたい。聖地巡礼たのしい。

 山本文緒はおれは同い年、同学年てやつで、神奈川大学はおれも受験したことあるし、おれは落ちたが、なのでなんか親近感ある。神大の受験の帰り、古本屋で大江健三郎の「遅れてきた青年」を買ったのだけはよく憶えてる。大江健三郎は「遅れてきた青年」がいちばん好きだ。

読んでいる

 「自転しながら公転する」(山本文緒)、ぼちぼち読み進んでる。
山本文緒作品、油断ならないから、これからどう展開するか読めずドキドキする。貫一と都の関係が、そこだけ取ると70年代邦画の同棲カップルみたいで、けど、いまは2020年で、二人は30歳過ぎてるし、都会ではなく地方の話で。

 「自転しながら公転する」(山本文緒)、38%ほど読んだ。
出て来る人たちが、実は一人ひとりに人生と生活と考えがあり、それはあたりまえのはずなのに、そういうことが見えてくるタイミングが的確で、そしていきなりそれまではただの人が立体的になる瞬間があり、魅力を発し始める。ワクワクする。

 「自転しながら公転する」(山本文緒)、読み終わった。
あぁ。最後らへん、ちょっと泣いた。
胸に何か、いま、ある。
人生は続く。

森ガール

 主人公の都(みやこ)は森ガールな格好が好きで、アパレルショップに勤めてるし、小説の冒頭にはウエディングドレスを着た人が出て来るし、登場人物の着衣から読み解ければ又面白い筈だけど、残念ながらおれにはファッションの知識がない。もどかしい。

ドラマ化するなら

 「自転しながら公転する」はNHKのよるドラでやって欲しいな。脚本は安達奈緒子で。

 「自転しながら公転する」(山本文緒)、貫一は高橋一生になってしまってる。おれの中では。彼だとヤンキー気はないけれど。
あと、都が誰かがわからない。けど多部未華子が思い浮かんでしまっているのも確かだ。なんか違う気もするが、出て来た。

 そよかは桜井ユキ。これは割と揺るがない。貫一の知り合いのブルーシップのメガネの彼、彼は藤森慎吾で。

 都の両親、母親は池谷のぶえで。父親はおれと同い年の人だろうということで松尾スズキでどうかなあ。松尾スズキだとサラリーマンぽさはない気もするけど。

感想文(いつでも書き足りない)

 「自転しながら公転する」(山本文緒)、感想をnoteに書き始めたが(これだ)、上手いこと言ってやろうとか、思いついたこと全部余さず書いてやろうとかつまらぬ野心が出て来てしまい、なんだかだめだ。
でも少なくとも思いついたことは全部載っけて行きたいんだよなあ。

 それには思いつくたびメモを取ればいいんだけど、なんかねえ、めんどうで、つい、ねえ。

 といって構えてるうちに書くタイミングや勢いを失ってしまうのもあれだから、とにかく書く。飽きたらアップする。後でなんか足したりする。それぐらいのテキトーな方向性で。

都は「自転しながら公転する」をきっと読まない

 主人公、与野都の描写で、あ、これだ、って思ったのは後半、彼女が広島の台風被災地へボランティアに行く新幹線の車中、読書の習慣もないし、音楽も聞かないし、何もすることがないとなる場面だった。今の話なのにSNSさえしない。友達とLINEで連絡取り合う程度だ。

 都は、普通にいそうなあまり面白みのない、取り柄もなければ、自立心も大してない、年齢を考えれば子供っぽかったりもするし、仕事でも自分の分は出来るけれど、人を使うとなるとその力もない、これといって魅力的なところのない人物で、それでもファッションには興味があるか、けど音楽を積極的に聞いたりもしなければ、趣味らしいこともない、主人公としてはなんだか惹かれる要素がない。そのあたりが新幹線の車中の手持ち無沙汰にハッキリと見えて、すごく象徴的な気がした。

 けれど、同時に、彼女の仕事に対する中途半端さ、つきあう相手が出来ると母親の介護ということで実家へ戻ったにも関わらず、母親の面倒を見るのは二の次になってしまうことや、恋人の貫一に対する甘えや躊躇い、なんだかそういうものが読んでいて、他人事な気がしない。すごく単純化していえば「だめな子」なんだけど、でも読んでいるこちらにもあれこれ思い当たり過ぎる。こういう煮え切らない感じ、大体、でもこんなだ。

 都は仕事がイマイチのようでいて、けれど今の勤め先の前の店では青山の路面店の店長までしている。でもそこでは部下たちの信頼を得られず、彼らに一斉に辞められてしまったりもしてる。そういうちぐはぐさ、というか、中途半端な仕事の出来具合が、なんだかリアルだ。おれもなんかそんなかもなあとも思うし。仕事は出来ないわけじゃないけど、バッチリ出来るとも云えない。なんかそういうのって思い当たる人、多かろうかとは思ってる。

 それに都は今のアウトレットパーク内のショップで、いろいろ事件があった後は人にも恵まれて、今度は割としっかり、以前の反省もあってか、どちらかというと仕事の出来る人間に変わったりもしている。こういう時期時期で、だめだったり、出来る人間だったり、みたいのって、実際なんかそんなふうだと思う。

 なんだろう、だから都はそこらにいそうな人間なのに、でもだからこそ普遍性もあるし、読んでいくうちに誰にでも人生も生活も愛や何かはあるんだって気がついていく。自分とは擦れ違うだけで興味を持てる相手でもないけれど、でもその人にもやっぱり人生はあるし、角度を変えれば主人公として成立するんだと都と小説一冊分つきあっていくうちに気づかされていく。

 誰にでも人生と生活、そして思いはあるというのは章が変わると視点が変わることでこれまた気がつかされた。はじめはもっぱら都の話として進んでいて、すっかりそんなもんかと思っていたのが母親視点の描写になると、そうかこのお母さんにも考えてることはあるし、都が思ってるのとは考えが違うんだよなあとなるし、それにいきなり都が今度は母親から見られる存在になり、割と大人と思っていた彼女が、案外そうでもないのがわかってきて、ちょっとびっくりしたりもした。

ウェディングドレスを着てるのは誰?

 プロローグは結婚式当日の話で、しかし、それが誰視点なのかは分からず、少なくとも都じゃないよなあ、そこは少し誤解させるようにしてあるよなあ、でも一体誰だろう?と作者からの仕掛けがあって、その引っ張り方は上手く、読みながらプロローグの主人公が誰かを推理するのはたのしかった。おれは始めの方に出て来た、都に話があるからと思いつめたような表情だったMDの長谷川という女性ではないかと思ってた。彼女は社内の人間と結婚したみたいな事は後ほど語られもしたが、それはフェイクで、彼女こそが結婚してベトナムへ行ったんじゃないかと考えてた。なんか訳ありそうな風で、それほど行動的にも思えない彼女が、実は、的な。そんな引掛けを予想していたが、それは外れ、まさかのエピローグでの種明かし、気持ちよく作者にヤラれた。

連れてかれる、あちらへこちらへ思いがけないところへ

 スタートはいきなりベトナムだったりする。都会で、賑やかで暑く明るい。しかし、それはプロローグだけで、本編に入るといきなり牛久大仏周辺の地方の町、そしてアウトレットパーク。当分はその周辺でのみ話は進んでいく。はじめは話は小さく、都の行動と気持ちだけが示される。舞台が少し移っても、せいぜい柏まで。それがやがて都の母親の桃枝の視点になり、視点が移るだけでもびっくりするし、物語が拡がる。やがてはずっと具合の悪かった桃枝も友達に誘われてハイキングらしきことをして、行動的になっていく。彼女が山の上へ行くとぐっと視界が拡がる。


「頭の上には宇宙の黒が透けているような青すぎる空が大きく広がっていた」(9章ラスト)
 

  都は貫一と別れた後、少しずつ行動的になり、マッチングアプリの待ち合わせがチャラになった流れで東京駅近くのホテルでニャン君と会うことになる。ここでもちょっとびっくりしたな。まるきり地方の町の話に終始してて、そのことに不満はなかったのだけれど、読み手のおれはいきなり東京の洒落たホテルへ連れてかれるんだもん。

 そして場所が移動するだけではなく、後半になると話が今までにない展開をして大胆な移動を見せていき、素直なおれはいちいちびっくりして、ついにはエピローグで未来のベトナムへと連れてかれちゃう。この連れてかれちゃう感覚が、読んでてなんとも気持ちよかった。読後間もなくの、あぁ、というため息にはそれも大きく関与してた。

 終わり近く、12章になり、都は広島へボランティアへと行く。今までにない大胆な移動。明らかに物語は大きく動いてる。新幹線で移動する彼女といっしょに読んでるこちらの気持ちも旅へ出る気分となってるし、意外な成り行きに少しワクワクしてる。
 けど、結果はしょぼく、都は単なる足手まといでしかないまま、ぐずぐずと、その小さな冒険は、あっという間に終わってしまう。

 都は移動する。彼女の気持ちの変容と共に。広島から東京駅、そして四ッ谷へ。そう、冒険は簡単に終わってしまった。しかし、都は触れたい相手へと結果、辿り着く。

女性たちの声が聞こえる

 語る視点は変わることもあるが、都と母親の桃枝のみで、この2人のパートナーである貫一と、都の父親からのそれがない。それがなぜかはまだおれにはわかっていないのだけれど、ただ、話が進むに連れ、やがてわかってくるが、この小説は男に性的に見られる対象としての女、具体的には都が上司であるマーチャンダイザーの東馬から受けるセクハラ、彼女が森ガールである由来が実は単に彼女の服の趣味というだけではなく、胸の大きさを隠すための格好でもあるということ、貫一が中学生の時、不良仲間がレイプをする時の見張り役になっていたこと、そういったこととも結びついているのだとも思う。
 単に受け身で自分なんか大してないかに傍からは見える彼女たちにも内面があるというまるであたりまえなのに普段は見過ごされていることに由来してるといえばいいのか。

本気のしるし

 都は昔なら男性作家に「巨乳で頭が悪くてだらしない女」として描かれていた。その場合彼女の内面は描かれない。あくまでも主人公は貫一だったはずで、彼は言ってみれば問題を抱えて複雑さを持つ人物なわけで、彼こそがかつてなら物語を語られる人物、その内面に焦点が中る。
 それがここでは逆転して、都の内面と彼女の物語に焦点は中たり、貫一はその外側しか描かれない。結果的に謎めいた雰囲気にもなるが、単に表立って彼の物語が語られないだけで、謎はなく、実は読み手が昔から知るタイプの人間だ。
 映画「本気のしるし」(監督:深田晃司)での葉山浮世と辻一路と「自転しながら公転する」(山本文緒)の与野都と羽島貫一はその描き方で共通するものを感じている。従来ならカテゴリーとしての「女」として、主人公である男の方、また書き手である男の作者からの(男から見た)視点でのみ、一方的に描かれていたであろう存在だと思う。
 それがいま同じタイミングで従来であればサブキャラクターだった、男の願望の投影だった女性たちの方により焦点が中った形で表現され、むしろメインキャラクター、物語と内面を持つ存在として描かれているのは、偶然ではなく、フィクションに於ける地殻変動が起きていることの証左だと思う。
 それはきっとこの2作品に限らず、他にも見られるのだと思う。例えば「82年生まれ、キム・ジヨン」(チョ・ナムジュ)や「彼女は頭が悪いから」(姫野カオルコ)などにも共通するもののはずで、他にも探せばあると思う。

運命の恋

 人と人とは組合せで、お互いにいい所や理解できる所があったとしても、友達になれるわけでも、恋人に、そして夫婦として上手くいくわけでもない。
 組合せはピッタシになるとか、けどそんなもんじゃなくて、時間を掛けて変わっていく。よくなることもわるくなることもある。あたりまえだけどさ。

 最後の方で都が貫一に、私たち二人の関係は運命だと思う?と云う問いかけをするけれども、そもそも出会ったら、それは運命の人なんだ。完璧な恋も出会いもないし、完璧な人間もいない。人は斑(まだら)で、運命だって斑だ。ロマンチックじゃないけど、でもやっぱりロマンチックで、どういうことかって言えば、人生には意味があるってことだ。意味なんかない、それもほんとだ。でも時々、意味があるんだ。幸せでも不幸でも、どっちでもいい。だって、幸せと不幸せがないまぜになってるのが生きてるってことだから。時々ピッタシ来る瞬間もある。卑怯な人にも誠実な瞬間が訪れる。そこにあるのはなにかって、つまり”希望”だ。可能性があるってことだ。胸がざわざわすることもある。取り返しのつかないことだってもちろんある。けど、けど、それでもこの世界には希望があるべきなんだ。通りすがりのあの人、この人にも。世界中の誰にも。いつか、なんでもない日が。いつか、運命を感じる日が。いつか掛け替えのない相手との出会いが。




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