神の世界を壊したのはわたしたちです
2024年4日14日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
創世記2章4−14節(旧約聖書・新共同訳 p.2-3、聖書協会共同訳 p.2)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。
▼創世記2章4-14節(アダムの創造とエデンの園)
これが天地創造の由来である。
主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまだ、琥珀の類やラピス・ラズリも算出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
▼2つの天地創造物語
創世記の一番最初には天地が神によって造られたと書いてありまして、その天地創造の物語には2つあるというお話を、だいぶ前の礼拝でお話ししました。ご記憶の方がいらっしゃったら嬉しいです。
1つ目の物語と2つ目の物語の境目は創世記の2章4節です。1つ目の物語では、世界が6日で造られて、7日目に神さまがお休みになったということになっていて、これがユダヤ人の生活の週1日の安息日と関係していますし、結果的にはこれが世界中(たぶん)7日で1週間というカレンダーのもとになったので、その影響力は非常に大きかったと言えますよね。
で、今日お読みしたのは、2つ目の天地創造物語の始まりの部分です。よく天地創造物語が2つあるというと、びっくりされる方がクリスチャンの中でもいらっしゃるんですけれども、いったん6日間かけて植物も動物も人間も完成したのに、もう一度、「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった」と書いていますし、このあともう一度人間を造る話が出てきますから、最初からやり直しなんですね。これで2つの創造物語があることがわかります。
▼霊が鼻を出入りする
第2の天地創造物語には、土の塵で人間を造ったと書いてあります。水が無かったところに水が湧き出て来て、「土の面をすべて潤した」と書いてあるので、おそらく、泥をこねて人間を造ったということなんでしょうね。
この泥をこねて人間の形を造って、その鼻に、命の息を「ぶうっ!」と吹き入れます。そうして、人は命あるものとなったといいます。
なぜ土をこねて人間を造ったと古代人が考えたのか、確かなことはわかりませんが、私が想像するには、おそらく大昔の人は行き倒れになった人の遺体を見て、それがだんだんと腐って、虫がたかって、次第に時間をかけて乾燥して、最後は骨になる様子を観察していて、人は土に返ってゆくという感覚を持ったのか……。
あるいは遺体を土に埋めるという風習はホモ・サピエンスの発生の時点からあったようなので、そうやって土に返ってゆくから、もともと土から出てきたのだという感覚が、言葉が整ってくる以前から伝わってきていたのか。
とにかく古代人のある部族が、人間はもともと土なんだと考えた。そして、その土の肉体に、命の息が鼻から吹き込まれて、人は生きる者となったのだと考えたのでしょうね。
「命の息」という言葉は、ヘブライ語では「命の魂」とも訳せる言葉です。「息」と「魂」という意味が、同じ言葉で表現できるんですね。そのことから、古代のヘブライ人は、「息」の動きというのが「命」の動きでもあると考えていたようです。ですから、神さまが人間に命の息を吹き入れたということは、魂を吹き入れたということです。
ですから、人は息が鼻を出入りしている間生きているし、息が止まる時すなわち魂の動きが止まった時、死ぬのですね。
▼ハイ、深呼吸
この、人は魂を呼吸しながら生きているという古代人の感覚といいますかイメージ、想像力といいますかイマジネーションを、私たち現代人も持ってもいいのではないかなと思います。
ひとりひとりが息をしている、その鼻や口を出入りしているのは、命の霊なのだ。だから、ひとりひとりの命は、神に与えられた霊そのものなのだ。それは尊いものだから、誰一人それをむげに奪われてはならないと。
また、命の息を与えたのは神さまだから、その息を引き取るのは神さまのわざなのであって、人が勝手に捨ててはならないという考えも出てくるのですね。
ですから、自分の息を、つまり魂を大切にしなくてはいけません。
そして、呼吸というものは健康のためにも非常に大切です。ウォーキングやランニング、水泳などの有酸素運動というのは、呼吸によって酸素をたくさん取り込む運動ですし、心肺機能を高めて、人を健康にします。
それに、マインドフルネスでも、自分の呼吸に集中することで、リラックスしたり、自分を見つめ直したりしますよね。私は、座禅は専門的な指導を受けてやったことはありませんけれども、やはり似たようなところがあるのではないでしょうか。
そして、今言ったようなことは何ひとつやらなかったとしても、緊張した時、疲れている時、ふさぎ込んでいる時に、深呼吸ひとつするだけでもだいぶ違うと思います。
「ハイ、深呼吸しよう!」と息を新たにする、呼吸を新たにすることは、古代人風に言えば、霊を新たにする、命を新たにするということにつながるのではないかと思います。
▼エデンの園はどこか
さて、「人を泥で作った」と書いてあるところの後に、「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」とあります(創世記2.8)。
このエデンというのが、現代で言うどこの地域のことを指すのかはわかりません。ただ、「東の方のエデン」と書いてあるということは、書いている人たちは、自分達は「エデンの西」に住んでいると認識しているということになります。
この続きの10節から14節のところに、エデンからは4つの川が流れ出ていると書いてあって、そのうちの2本がチグリス川とユーフラテス川です。他の2つは実際には無い架空の川です。
第1の川のピションが流れているハビラ地方というのも、アラビアのどこかだという説がありますが、はっきりしません。第2の川のギホンというのがクシュ地方を巡っていたと書いてあって、「クシュ」というのはナイル川上流あるいはエチオピアの方にあった王国の名前なので、ナイル川のことではないかと推測する人もいますが、はっきりとしたことはわかりません。どうであれ、そういう説が本当だったとしても、チグリスやユーフラテスと同じ場所から流れ出ているというのは考えにくいです。
チグリスとユーフラテスの源流が、今のイラクの北西の方ですので、そこよりちょっと西の方だと、今のシリアのあたりになります。これは、前にお話したアブラムの住んでいた地域に近いので、まあ同じような言い伝えがそこから出て来ているのではないかな、と考えると、やはりエデンというのは、シリアの北の方ではないかなと推測をすることもできます。
そういうわけで、たぶんエデンというのは、チグリス・ユーフラテスの水源地の、豊かな土地ということなんでしょうね。そこが、この物語を書いた人たちの、理想郷のようなところだったのかもしれません。あくまで物語を作った人たちにとっての理想郷であったということですけれども。
その理想郷を追われたというのは「失楽園」の物語なので、やはり、失われた憧れの土地、という感覚が「エデン」という土地の名前に載せられたいるのではないかと思うわけです。
▼園の中央の木々
そして、ちょっと戻りますけれども、9節では、このように書いてあります。
「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」(創世記2.9)。
この命の木と善悪の知識の木というのは、今日読んだところよりずっと後の方で、アダムとエバが善悪の知識の木からその実を食べて、エデンから追い出されてしまう話が出てきます。善悪の知識の木については、そこの聖書箇所を読むときに、またあらためてお話をしようと思いますけれども、「命の木」というのは、ここにしか出てきません。
16節で、神さまは善悪の知識の木からは食べてはいけないと言いますけれども、命の木から食べてはいけないとは言いません。それを食べたら命が得られるのでしょうから、食べて何も問題ないはずです。
なによりここで、「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ」られたと書いてあります。
神さまはこの世を、ものすごくよいものとして造った、その中でもこのエデンというのは最高の場所で、人間はもともとそういう場所で食べて生活していたのだという、麗しい物語なんですね。
▼息をすることと食べること
今日読んだ聖書の箇所で大切なのは、「命の息」と「命の木」という言葉であろうと思います。
つまり、呼吸することと食べることの大切さを訴えている箇所と言えるかもしれません。呼吸と食事は健康の基本です。今回の聖書の物語は、人間とは本来、しっかりと命そのものである息を呼吸し、命のもとである食べ物をしっかりととって生きるものだという、シンプルな人間観に立っていると言えるのではないかと思います。
この後、物語は人間が神との約束を破ってしまう話につながっていきます。その「約束破り」をキリスト教では「罪」と呼んできましたが、「罪」というのはもとの言葉の意味で言うと「的外れ」、つまり神が望んだ本来の姿から外れてしまっているということになります。
なんでそれを「罪」という、まるで犯罪でも犯したかのような日本語に翻訳したのか、そこまでは調べきれませんでしたけれども、「罪」という訳語は誤解を与えやすいですね。実際には「本来のあり方から外れている」ということです。
ということは逆に言うと、神さまが望んだ人間の本来の姿は、神さまが用意した楽園で、おいしい空気を呼吸し、おいしい食べ物を食べる、そうであるべきなんだと聖書は語っているということになりますし、これは「地上は造られた当初は、そういう場所だったんだ」ということを伝えようとしている物語なんですね。
……しかし、残念ながら、この世は現在はそうなっていません。
むしろ、そのような人間にとっての理想の世界は、大きく失われてしまったように思われます。
人間は地球の土も水も空気を汚してしまいましたし、今も汚し続けています。そして自分たち自身が汚れたものを飲み、食べています。そして、腹いっぱい食べることができている人と、じゅうぶんな食事がとれない人がいるという不公平な格差のある社会を作ってしまいました。
これは本来の神さまが望んだ世の中ではないんだと、私たちは聖書から問い直されているのではないでしょうか。神さまが望んだ世界、神さまが望んだ人間の姿から離れている。これが「罪」というものなのではないか。今、私たちは「罪」のなかに生き続けているのではないか。そのように聖書に問われているのではないかと思うのです。
▼責任をもって罪を自覚するということ
最近読んだある本に、「罪」とは何か、「わたしは罪人です」というのは、どういう意味なのかということが書いてありました。
このような言葉がありました。
「この世・この世界に山積する様々な問題について、わたしたちは神に対する責任があると考えるべきです。
『わたしは罪人である』という言葉は、『わたしは神さまの前で、この世・世界に山積するさまざまな問題を背負って生きている』という責任を自覚した言葉でもあります。」(山本光一「第5章 洗礼を受けてから」『洗礼を受けるあなたに』日本キリスト教団出版局、2022、p.142)
つまり、私たち自身が、神さまがこの世を造られた最初の意図から「的外れ」な状況を作ってしまった。それが「罪」であり、この「的外れ」な世界を作ってしまった現実を背負って生きてゆくということ。
それを何とかしてゆこうとすることが、「わたしたちは罪人である」という、責任を伴った告白なのだということではないかと思うんです。
では、この「わたしたちは罪人である」という自覚から始まって、これから私たちはどう生きてゆけばいいのか。それをみんなで考えながら進む。それが現代を生きる私たちにとって大事なことではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
祈ります。
▼祈り
神さま。
私たちの罪をお赦しくださいますように、お願いいたします。
私たち人間は、あなたが私たちのために造ってくださった、この美しい恵みに満ちた世界を、汚し、壊し、ないがしろにしてきました。そして、私たち自身にとっても生きづらい世界にしてしまいました。
けれども神さま、感謝したいと思います。私たちはあなたに与えられたこの世界で、今も与えられた命を生きることができています。何よりもあなたにこの命を与えられたことを感謝いたします。
与えられた寿命の間、改めてあなたと出会い直し、あなたと共に歩もうとする者であらせてください。
与えられたこの世界において、様々に山積する課題を前にして、ひるむことなく、人間としての責任を果たしながら生きることのできる勇気を与えてください。
私たちの日々の生活をお守りください。
また、私たちだけではなく、地上の全ての人が恵みを分かち合って豊かに生きる、そんな神の国が来ますように。
「神の国は近づいた」と宣言されたイエス様の、その言葉を信じる気持ちを与えてください。
言い尽くせぬ感謝と願いの祈りを、我らの友、イエス・キリストのお名前によって、お捧げいたします。
アーメン。
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