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心が亡ぶということ

忙しいという字は心が亡ぶと書く。そういう話は昔からよく聞くが、まさにそうだなと改めて思う。

忙しすぎると心に余裕が無くなる。ストレスが高まる。自分がストレスフルになるだけでなく、他人を受容したり許容する余裕も当然無くなる。不寛容になる。

特に現代のようなコンピュータに席捲された社会では、人間も迅速に動くことを求められるし正確さを要求される。自分のミスや遅れを誰も許してくれないし、他人のミスや遅れも許せなくなる。ミスも遅れも誰にとっても迷惑であり、あってはならないものとなる。

そうなると、機転のきかない人、時間のかかる人は全員のお荷物だということになる。他の全員にとって迷惑な存在だということになる。こういう人を叩いても誰も困らない。それどころか、他の全員の格好のストレスの捌け口として攻撃される。こうして大人社会のいじめ、いびりが起こる。

大人だけではない。子ども社会も同じで、忙しすぎると当然いじめが起こる。

もちろんいじめが起こる原因はそれだけではない。昔からいじめはあった。ただ、優秀な者、機転がきく者が出来の悪い者、のんびりしている者を攻撃し、スケープゴートにしてしまうという構図は、現代社会がスピード、正確さ、多忙さに支配されているという構造に起因するのではないかと思われてならない。

なぜ誰もが同じ限られた時間で同じ目標を達成し、その出来栄えで評価されなければならないのか。あるいはできるだけ早く、できるだけ正確であることが賞賛され、そうでない者が尊重されないのか。

しかし、賞賛されているはずの、また強者であり勝利者であるはずの人も、弱者を叩かずにはおれないのは、本人も非常にストレスフルになっているからで、このスピードと正確さを強要する不寛容な社会の被害者だとは言えるかも知れない。

ただ、そうは言っても、強者・勝者・多数者が弱者・敗者・少数者を攻撃し、暴力を働くような状況が続いていては、ますます社会は分断され、立ち行かなくなるだろう。

まさに忙しさは心を亡し、心が亡んだ人びとによる社会も間違いなく亡ぶだろう。

単純であっても難しいことだが、他者には他者のスピードがあり、几帳面な者がいればのんびりした者もいるという事実を受け入れ、間違いがあったとしても「人間とはそういうものだ」と鷹揚に構えて許し合う大らかさが、結局はこの世を持続可能で生きやすいものにしてゆくのではないかと思う。

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ぼやき牧師|富田正樹
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