命がけで慈悲を請い願う
2025年2日2日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
マタイによる福音書5章10−12節(新約聖書・新共同訳 p.6、聖書教会共同訳 p.6)
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▼命をかけた説教
今から18年前になるので、ずいぶん前の話になりますが、私が『信じる気持ち はじめてのキリスト教』という本を出させていただいた時、日本基督教団の首脳部から、「売った本を回収しろ、そして廃刊にし、絶版にしろ」という圧力をかけられたという話は、私は何度もあちこちでお話しているので、ご存知の方もいらっしゃると思います。
その時、関西でも私の本の不買運動や、廃刊を求める署名運動が起こったりしまして、その署名運動の首謀者のある牧師に、「富田は我々を愚弄している。我々は命をかけて説教をしているのだ」と言っていた人がいました。
「我々は命をかけて説教をしているのに、この本はそういう命がけの牧師を貶める内容だ」と言うんですね。
私、結構、この言葉にダメージを受けたと言いますか……傷ついたというのとはちょっと違うような気はするんですが、かなり違和感を感じたんですね。
「命をかけた説教をしているんだ」と自分で言っている牧師に対して、「おまえのどこが命をかけている説教やねん」とは言えません。本人がそのつもりになっているのですから、文句をつけても仕方がない。
それに、自分だって命をかけて説教しているのか、本を書いているのか、わからない。そもそも「自分でそんな事を言う事自体が嘘くさくて不愉快です。
そんな不愉快なモヤモヤした思いだけが残り、かえって私の心の中に、「命をかけた説教とは何だろう?」という疑問や課題が刻み付けられて、その問いが胸につっかえたまま、18年間来てしまいました。
しかし、つい先日、その胸のつかえが取れたような、「これが命をかけた説教なんだ」という説教を聴くことができました。
多くの国で話題になっており、その記事も映像も広がっているので、ご存知の方も多かろうと思います。今年2025年1月21日(火)のアメリカのワシントン国民大聖堂で行われた、伝統的に大統領の就任にあたって行われてきた「国民のための祈祷礼拝(A Service of Prayer for The Nation)」の中で語られた、米国聖公会の主教、マリアン・エドガー・バディ(the Right Reverend Mariann Edgar Budde)さんの説教です。
▼バディ主教の説教
既に騒ぎが広がっているとおり、このバディ主教の説教は、トランプ大統領の機嫌を損ねて、トランプ大統領から主教は「国民に謝罪しろ」と要求されています。下院議員の中には「彼女を国外追放者リストに入れるべきだ」と言っている人もいました。そして現在、彼女に対する殺害予告もされているような状況で、彼女を支えるため、また守るための世界的な書名運動も展開され始めています。
このバディ主教の説教、15分足らずのお話なんですけれども、問題になっているのは、その最後の2~3分くらいの、締めくくりの部分です。
ちょっと長くなりますけれども、この締めくくりの部分の日本語訳を、改めて読んでみたいと思います。何かの記事で読んだことがある人もいるかもしれませんが、もう一度訊いていただければと思います。立教学院院長の西原廉太先生が翻訳されたものに一部手を加えて読みます。
「大統領閣下、最後に懇願させてください。何百万人もの人々があなたを信頼しています。そして、昨日、あなたが国民に語ったように、あなたは愛に満ちた神の摂理を感じておられるはずです。私たちの神の名において、今、恐怖を感じている自国の国民に慈悲(または憐れみ:mercy)を施してくださるよう、お願いいたします。
民主党、共和党、無所属の家庭には、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの子どもたちがおり、中には命の危険すら感じている子どもたちもいます。私たちの農作物を収穫し、オフィスビルを清掃し、養鶏場や食肉加工工場で働き、レストランで食事をした後の食器を洗い、病院で夜勤をこなす人々の中には、市民権を持たないか、あるいは適切な書類を所持していない人がいるかもしれません。しかし、移民の大多数は犯罪者ではありません。彼らは税金を支払い、良き隣人でもあります。彼らは教会やモスク、シナゴーグ、グルドワーラ(シーク教徒の寺院)、寺院(temple)の忠実な信徒でもあります。
大統領閣下、どうか私たちのコミュニティで、親が連れ去られてしまうのではないかと恐れている子どもたちに対して慈愛の心を持ってください。そして、自国での戦地や迫害から逃れてきた人々に対して、この国で思いやりと歓迎の意を見出せるように支えてください。私たちの神は、私たちがよそ者に慈悲深くある(憐れみ深く)あるようにと教えています。なぜなら、かつて私たちは皆、この国ではよそ者だったからです。神が私たちに、すべての人間の尊厳を尊重し、愛をもって互いに真実を語り、互いに、そして神とともに謙虚に歩む強さと勇気をお与えくださいますように。すべての人々のため、この国と世界のすべての人々のために。
アーメン」
▼預言者の伝統にのっとって
トランプ大統領は、この前日、20日(月)の大統領就任式の直後に、難民認定申請の受け入れを停止する、不法移民を強制送還する、そして、性別は男性と女性という2つの生物学的な性別だけしかない、という大統領令に立て続けに署名しました。
この大統領令によって、今後、紛争や迫害、飢餓などで逃げてきた難民の人たちはアメリカに助けてもらうことができなくなり、これまで入ってきていた人たちで正式な書類を手に入れる事ができない人も、国外退去、強制送還させられるということになります。
正式な市民権を証明する書類を持っていない人は排除されるということにもなるので、私がネットのニュースで知る限りでは、先住民族(ネイティヴ・アメリカン)の人たち(報道ではナヴァホ族の人たち)も、逮捕され始めているということです。もともとアメリカ大陸に住んでいた人たちですよ? どこに強制送還しようというんでしょうかね?
米国が認めるのは性別は男性と女性の2つしかない、と決めてしまったのも、かなり恐ろしい影響が起こることが予想されていて、これは性的マイノリティ、特にトランスジェンダーの存在を否定する。トランスには生きる場所が無くなり、差別し攻撃する人から命を守る方法がなくなります。「おまえたちは本来存在していない」と、大統領から決められてしまうんです。こんな恐ろしいことがあると思います?
このような様々な人を切り捨て、命の危険に追いやる政策を進める大統領に対して、バディ主教は、旧約聖書にたくさん書かれている預言者の伝統に則る形で、預言者たちがその時々の王たちに、神さまからの忠告や勧めを告げてきたのと同じように、アメリカの王様である大統領に、神さまからの忠告と勧めを述べたんですね。
この預言者的な言葉に対して、トランプ大統領は、その日の夜にSNSで、「21日朝の礼拝で話をした主教『とやら』(So-called Bishop)は極左で強硬な反トランプ主義者(トランプ・ヘイター)だった。彼女は無礼な方法で教会を政治に巻き込んだ。人々を殺した多くの不法移民について言及しなかった。陰険な口調で、説得力も知性も感じられなかった。礼拝自体も非常に退屈で、つまらないものだった」と書き込んで拡散させました。
そしてトランプ大統領は、「主教は国民に対して謝罪するべきだ」とも言いました。これに対してバディ主教は「私は、他人のために慈悲/憐れみを求めたことについて謝罪するつもりはありません」と、「TIME」という雑誌のインタビューに答えておられます。
▼謙虚に優しく憐れみを求める
大統領は、「陰険な口調で」と言っていますけれども、私がバディ主教のメッセージをYouTube動画で観た限りでは、彼女はとても優しく、穏やかで、謙虚な口調で、非常にへりくだった態度で、大統領に慈悲/憐れみ(mercy)を求めていました。
「私に1つの最後のお願いをさせてください、大統領」と言っています。「最後のお願い」は、ここでは「final plea」と言っていますけれども、この「plea」というのは、単なるお願い(wishとかhopeではなく)「嘆願・懇願」という必死の思いでするお願いです。
そして、さっき私は「優しく、穏やかで、謙虚な口調で」と言いましたが、ちょっと声が震えて、恐れに耐えているようにも見えました。語り終わる直前には、かなり口が乾いているようでした。それは、就任式を終えたばかりの大統領に異議を唱える説教を語るのですから、自分がどれだけの攻撃を受けるだろうか予想はできたと思います。
しかし、それでもバディ主教は、自らの預言者としての務めを果たしました。聖書の中の預言者たちも、みんな王から命を奪われる恐怖に耐えながら、王に進言したのですけれども、バディ主教はこの預言者の伝統に則って大統領にお勧めをしたんですね。
▼聖書と祈りの伝統に則って
ここで主教が使った「mercy」(慈悲/憐れみ)という言葉は、キリスト教の歴史を通じて語り継がれてきた、「キリエ・エレイソン(Kyrie eleison)」(主よ、憐れみ給え/主よ、憐れんでください/私に慈悲を、慈しみをください)というラテン語の定型の祈りの言葉も踏まえているんだと教えてくれた、私の友人もいました。
もともとラテン語の「キリエ・エレイソン」を、英語圏の人たちは「Lord, have mercy」(主よ、憐れんでください)と訳して、ミサや聖餐式などで使っています。この「Lord, have mercy」の「mercy」つまり神さまから私たちに与えられる憐れみのことを、聞く人が思い出せるように、主教はこのお話を作っているのですね。
そして、その本来神さまのものであるその憐れみを、大統領であるあなたが持ってください。それを神さまのお名前によって、あなたにお願いします、と言っているわけです。
更に言うと、このメッセージの終わりに近いところで、主教は「なぜなら、かつて私たちは皆、この国ではよそ者だったからです」と言っています。
これは、もともとアメリカという国自体が移民国家で、その始まりからして先住民族から土地を白人が奪って出来上がった国じゃないかということを指摘していると同時に、旧約聖書のレビ記19章33〜34節の言葉も踏まえているんですね。レビ記19章33節以降には、こう書いてあります。
バディ主教の言葉は、聞く人が聞けば、この聖書の言葉を踏まえているとわかるはずなので、やはり、聖書の伝統的な教えを踏まえている。本当に、聖書と祈りの歴史に立った、よくできた説教なんですね。
けれども、トランプから見れば、「あなたのやっていることは神の御心ではない」と裁かれたように受け取られても仕方なかったのかもしれません。
▼義のために迫害される人びと
本日の聖書の箇所には、迫害される預言者のことが書いてあります。
聖書の言葉も、もう一度読み上げてみたいと思います。
マタイによる福音書5章10から12節。
今、バディ主教が置かれている状況はまさにこのようなものではないかと、私には思われます。
バディさんは、先ほどちょっと紹介した「TIME」誌のインタビューの中で「個人的に危険を感じていない」ともおっしゃっていますが、同時に「死んでほしいと言っている人たちがいて、少し心が痛む」とも認めています。預言者として神の言葉を語ったことで、命を狙われているわけです。
▼命をかけた祈り
今回の出来事で、沖縄の平良修牧師のことを思い出したという方も、私の知り合いには複数いらっしゃいました。この「平良牧師のこと」というのは、いわゆる「アンガー高等弁務官就任式の祈り」のことです。
1966年11月2日、アメリカ陸軍のフェルディナンド・トーマス・アンガー(Ferdinand Thomas Unger)の第5代琉球列島高等弁務官としての就任式でのお祈りに招かれたのが、平良修牧師でした。
高等弁務官というのは、当時アメリカに占領支配されていた沖縄では、「沖縄の帝王」と呼ばれるほどの絶対的な権限を持つ最高権力者でした。その就任式で、平良牧師はこんな祈りを捧げました。ごく一部、よく知られているところを読んでみます。
「過去二十年、戦争と、戦争の脅威により、世界の多くの人々が家庭と愛する者たちから引き裂かれ、私どもの郷土、沖縄も祖国から切り離される憂き目を体験してまいりました。
神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、せつに祈ります。」
「この新しい高等弁務官が最後の高等弁務官になり、沖縄が本来の正常な状態に戻りますように」。今の沖縄の置かれている状況は、本来のものではないから、このアンガー高等弁務官を最後にして、米軍は琉球から出ていってほしい、ということを祈ったわけです。
この祈りは大問題となり、平良牧師の安全が大変心配されました。最終的には米軍はこれを黙認し、平良牧師の命は奪われずに済み、今も元気に沖縄で暮らしておられますけれども、この祈りを献げた時、平良さんも「万一のことがあるかもしれない」と覚悟されたと思います。
ここにも、命をかけた祈りがあります。
▼信教の自由を守る日
まもなく、2月11日(来週の火曜日ですが)には、私たちの教会は「信教の自由を守る日」を迎えます。日本では一般に「建国記念の日」とされていますが、もともと明治時代に大日本帝国政府によって作られた祝日で「紀元節」と呼ばれていたものが、アジア太平洋戦争に負けたあとの日本で、改めて「建国記念の日」として復活させられたものです。
もう今日はお話が長くなってしまったので、この日についての詳しい話はまたの機会に譲りますが、多くのキリスト教会は、この日を「信教の自由を守る日」としています。
それは、戦前の大日本帝国の時代に、キリスト教会は信教の自由を奪われて、1人の人間に過ぎない天皇をカミとして拝まされた。
いや、もう少し正確に言うと、一部の教会を除いて、大部分の教会は生き残りのために消極的に、あるいは政府に従えば規模を拡大できるのではないかと期待して、積極的に天皇の戦争を後押ししたり推進したりする役割を果たした。
神さま以外のものをカミにしてしまうという過ちを犯した、つまり信教の自由を自ら放棄した。そのことを反省し、二度とそのような過ちを犯さないために意志を確認する。それは「信教の自由を守る日」です。
しかし、昔わたしが高校生だった時、通っていた教会の年老いた牧師に、「先生、日本基督教団は戦争協力したんですよね?」と話しかけた時、血相を変えて怒鳴られたことを憶えています。
「あのときは、仕方なかったんです!」
生き残るためには、政府の方針に従わざるを得なかった。あの頃の忍耐があるから今の我々の教会がある。そのような苦渋の選択をしたことを追求することは、その時代を生きた牧師・信徒の逆鱗に触れる大問題だったのでしょう。
日本基督教団のように戦争協力して生き延びたグループもあれば、最後まで非戦を貫き、天皇を拝むことを拒否し続けた、「ホーリネスの群れ」というグループもありました。ホーリネスの人たちの多くは逮捕され、投獄され、獄中で亡くなった方もおられます。
文字通り命をかけた信仰だったわけです。
▼踏み絵
命をかけて説教をする。命をかけて祈りを捧げる。
誰もができることではありません。またしなければならないということも言えないと思います。それは現代における「踏み絵」のようなものであったかもしれません。「さすがに、命をかけることはできません」と、踏み絵を踏まない選択も、許されています。
けれども、私たちは、いま自分たちの生きている時代の中で、とてつもない権力で多くの人々の尊厳と命を奪おうとしている王に向かって、命をかけて預言の言葉を投げかけている人を見ています。
いま私たちはこのような時代を生きていることを、よく心にとどめて、神さまがご自身の思いを伝える預言者を守り、また私たち自身が何が神さまの思いであるかをしっかりと考え、言葉を発し、行動してゆくことができるように、導きと守りと支えを祈り願いたいと思うものです。
皆さんは、いかがお考えになりますでしょうか。
祈りましょう。
▼祈り
天の神さま。今日もあなたに与えられた命を生かされていることを、深く感謝いたします。日々、あなたによって造られた者として、この世で生きることができます恵みに、少しでもあなたに感謝をお返しすることができればと願います。
しかし神さま、人間世界で、私たちの間には、人の命を命とも思わないような暴虐を行う為政者が現れ、多くの人を恐怖に陥れています。
神さま、あなたはこの事を通して、私達に何かの試練をお与えになろうとしているのでしょうか。それとも、これは全く人間の過ちであり、全てを私達は自分たちの力で解決しなければならないのでしょうか。
神さま、どうか御心でしたら、あなたの望まれていることを私たちに示してください。
御心でしたら、人が命を奪われ、尊厳を奪われ、自由を奪われてゆくこのおぞましい状況を乗り越えて、愛と平和と自由と、尊厳のある世界をこの世に作り出してゆくことができるよう、知恵と力と勇気をお与えください。
この先、この世の荒波が、私達ひとりひとりにも、大きな痛みを重荷をもたらすかもしれません。どうぞそのような試練にも耐え、あなたへの思いを失わずに生き延びることができますように、どうか私達を導き、守り、お支えください。
語り尽くせない思いを胸に、この祈りを、ここに集った全ての者の胸にある願いと合わせて、私たちの主であり、友である、イエス・キリストのお名前によって、お聴きください。
アーメン。
2025年1月21日(火)ワシントン国民大聖堂におけるバディ主教の説教動画
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