イエスは誰も肯定しないし、否定もしない
2024年3日17日(日)徳島北教会 受難節第5主日礼拝 説き明かし
マルコによる福音書14章3-9節(新約聖書・新共同訳 p.90−91、聖書協会共同訳 p.89)
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▼マルコによる福音書14章3−9節(ベタニアで香油を注がれる)
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(新共同訳)
▼レントも大詰め
みなさん、おはようございます。
今年のイースター(イエスさまの復活を祝う日)は3月31日の日曜日だということは、皆様ご存知ではないかと思います。イースターは、春分の日(3月21日)の直後の満月の日の直後の日曜日という風に決まっています。このように、毎年日付が変わる祝日のことを「移動祝祭日」といいます。
そして、このイースターの前の日曜日を抜いた40日間のことを「レント」といいます。日本語では「四旬節」または「受難節」といいます。
四旬節というのは「40日間」という意味ですね。イースターからさかのぼって、日曜日を別にした40日前から、この四旬節が始まります。今年は2月14日の水曜日から始まりました。
2月14日というと、たまたま今年はバレンタインデーと重なっていたんですね。で、私は今年も学校でほとんどチョコレートもクッキーももらえませんでした。レントというのは、禁欲・節制の季節ともされているので、「レントだから甘い物は控えよ」と神さまに言われているのであろうという風に、無理くり解釈して自分を納得させておりました。
40日間と言っても、日曜日をどけて40日間を数えるので、実際には日曜日を入れると46日間になります。レントというのは、結構長いんですね。レントは受難節とも言われていて、イエスさまの受難、つまり十字架につけられて苦しみ、殺されていったことを心に留める時期でもあります。
それで、自分も何か好きなものを我慢して、少しでもイエスさまの苦しみにつながり、寄り添おうとする。あるいは、いつもよりお祈りの時間を増やして、信じる気持ちを強めるようにしてみる、など。いろんなことに挑戦してみる時だとされているんですね。
それでぼくも、毎年レントには少しお酒を我慢しようとして、毎年失敗してきました。しかしですね、今年に限っていうと、実は(まったくやめるところまでは行ってませんが)、3日に1回くらいしか飲まない生活が実現しているんですね。別に無くても困らなくなったというか。これをちょっと皆さんに自慢したかったです。
まあ本来は、別に何かを我慢することがレントの目的というわけではありません。あくまでイエスさまの十字架の苦しみに心のフォーカスを当てていき、そのことが自分にどういう意味を持っているのかを黙想する時間があれば、それでいいのだと思います。
▼300万円の香油をぶちまける
そういうわけで、レントの時期には、イエスさまの受難(苦しみを受けること)を思い起こすような聖書の箇所も読まれることが多いです。今日も、イエスさまと最後の別れをすることになった人たちの様子を描いた場面を選びました。お手元の聖書では「ベタニアで香油を注がれる」という小見出しがついているところです。
ベタニアという村で、重い皮膚病を患っているシモンという人の家で食事をしているところに、1人の女性が壺を持って来て、それを壊し、非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけたという事件ですね。
この女性の行いに、何人かの人が憤慨して、「香油の無駄遣いだ。300デナリオンで売れば、生活困窮者の支援に回せるのに!」と怒り出したけれども、イエスさまは「困窮者はいつでもあなたたちの周りにいるんだから、いつでも(その気になれば300デナリオンも無くても)支援できるだろう。この人を困らせるな。この人は私の埋葬の準備をしてくれたんだ」と言ったというお話です。
「ナルドの香油」というのは、インドやネパールの高地、ヒマラヤ山脈に生えている植物から取られる香りの高い油だそうで、大変貴重でお値段も高いものだったようですね。古代から、ただ単に香水のような使われ方をするだけでなく、宗教的な儀式にも重宝されていたそうです。
これを売ったら300デナリオン以上すると、ここで言われていますけれども、1デナリオンがだいたい1日の日雇い労働者の賃金にあたるとされていますので、だいたいこの1壺で、低く見積もって150万円、高く見積もって300万円くらいの香油だったということになります。
1壺300万円の香水って、ちょっと一般庶民では買えないですよね。ですから、この香油を持っていたこの女性は、実は非常にお金持ちだったのかもしれません。
とにかく彼女は、このものすごく高価な、しかも貴重で、特別な儀式に使うこともあるような香油を、壺を割るというショッキングなやり方で、イエスの頭に注ぎかけたわけです。
それもイエスが他の人達といっしょに食事をしている最中です。ご存じの方も多いと思いますけれども、当時の人たちが集まって食事をする時は、真ん中に食べ物を置いて、それを囲んでみんなでゴロンと寝そべって食べるという風習ですね。
ですから、この女性はみんなが食べている真ん中にやってきて、ガシャンと壺を割り、寝転んでいるイエスさまの頭の上から油を注ぎかけたという状況です。みんなびっくりして凍りついたのではないでしょうか。
▼男たちは驚いた
古代のユダヤ人が、儀式に使う香油を人の頭に注ぎかけるという様子を見ると、連想したのは王の任職式であろうと言われています。ちょっと我々から見ると、変わった風習ですけれども、大昔のイスラエル民族の王様は、大祭司(つまり、宗教的な地位では最高位の人)から、頭に香油を注ぎかけられることで、王として正式に認められる、という儀式があるんですね。
つまり、「王」というのは「油注がれた者」ということになるんですが、この「油注がれた者」というのをヘブライ語で「マシアハ」と言います。私たちは「メシア」と言っている言葉は、実はこの「マシアハ」です。そして「メシア」というのは「救い主」という意味にもなります。
ですから、この女性がイエスの頭に香油を注いだ様子を見て、おそらくその場にいたユダヤ人たちは、この女性がイエスを王様であり、メシアである、救い主である、と示す儀式のマネをしたように見えたはずだと考えられるわけです。
この女性は、「イエスさまこそが私たちの本当の王であり、救い主なんだ」と言っているんじゃないか。それを見て、そこにいた男性たちが憤慨してこの女性を非難します。
この男の人達も、すごく戸惑ったんじゃないかと思います。「イエスは私たちの王なんです! 救い主なんです!」と宣言する女性の行いに、ぎょっとしてうろたえた。いろんな意味で混乱したと思います。
まず、イエスを王にするというのは、さっきも言ったように大祭司の役割です。神の代理人として、王を王にする。それが大祭司。大祭司は絶対に男性です。女性は祭司にはなれません。しかし、ここでは女性が祭司の役割を果たしている。女性が神の代理人をしている。
ここでは、女性と男性の立場の逆転が起こっています。イエスのもとに集う人たちの間では、女性のほうが地位が高い者として立つこともあったのだということです。これは、通常の人の集まりや家族ではありえないことです。その様子に、ここに集まっていた男性たちは驚いた。
それから、「イエスを王にする」というのにも驚いたと思います。
この時のユダヤ人にとって、「マシアハ」つまり「油注がれた者」つまり「王」つまり「我々を救ってくれる方」というのは、ローマ帝国の支配に対抗してユダヤを解放してくれる指導者という意味です。
「イエスさまは王です!」と宣言したということは、「イエスさまはローマをこのユダヤから追い出して、私たちを解放してくださる方です!」と宣言したということです。
これは危険な宣言ですよね。イエスさまを軍事的な反乱のリーダーにするということですからね。帝国主義的な支配にはみんな苦しんでいるし、何とかしてほしいと思ってはいたものの、本当に反乱運動をするとなると、かなり危なっかしいことになります。ですから、周囲の人たちがうろたえるのも無理はないと思います。
そこで男たちは、そのうろたえをごまかすといいますか、この衝撃的な宣言を濁すようなことを言い始めるんですね。「なんというもったいないことをしたんだ! こんなに高い香油をダメにして! こんなことをするくらいなら、この香油を売って、300デナリオンにして、困窮している人の支援に回すことができたのに!」
こういう風に言うと、いかにもイエスが納得してくれそうですよね。イエスはいつも貧しい人を助けるような活動をしていましたから、イエスなら自分たちの言っていることに賛同してくれるんかないかと、ちょっと忖度したような感じでしょうか。
それに加えて、イエスを反乱軍のリーダーにしようとするような危険な動きは封じ込めようとしたとも考えられます。男たちは男たちなりに、イエスを危険な目に遭わさないように、守ろうとしたのかもしれません。
▼さりげなく別れを告げる
そこでイエスは言います。
「するままにさせておきなさい」と寝転んだままで言ったんでしょうね。
「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(マルコ14.6−8)。
イエスはここで、女性がやったことを、イエスなりの解釈で説明していますね。「この人は、私の埋葬の準備をしてくれたんだよ」と。
そしてその際に、ちょっと男たちに対する皮肉も交えていますよね。「別に300デナリオンもの大金を用意しなくても、生活に困窮している人たちはいつもどこにでもいるのですから、あなたが助けたいなと思えばいつでもできるでしょう」と。自分に忖度したような男たちの発言を、ここでピシャっと抑えていますよね。そういうことを言って、この女の人を困らせたらいかんよと。
しかし、その一方で、「イエスさまは王様です!」というこの女性の宣言に対しても、それを肯定しているわけではないんですね。イエスは自分が反乱軍の指導者になるつもりはないんですね。むしろ、このことを通して、自分はもうすぐ命を落とすことになるんだよ、ということをほのめかしているわけです。
「この人は前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」。香油は、亡くなった人の遺体の匂いを抑えるために塗られるという使い方もされます。イエスは、「私はもうすぐ死ぬから、前もってこの人は私に香油を塗ってくれたんだ」と。それは彼女の最初の意図ではなかったかもしれませんが、そういう風に言うことで、彼女が悪いことをしたわけではないんだと庇いながらも、自分がもうすぐみんなとお別れしなければならないということも、みんなに伝えているんですね。
▼別れ際にあらわになるもの
どうでしょう。このイエスの残り少ない時間に起こった出来事を通して、私たちは何を感じ取ることができるでしょうか。
私がこの聖書の箇所を読んで感じるのは、人は最期の瞬間まで、人を理解し切ることはできないのだな……ということです。当たり前のことかもしれませんが、改めて、人が人を理解するのは難しい。そのことが改めて別れ際にあらわになる。そんなことを思い知らされます。
イエスの頭に油を注いだ女性は、「イエスさまこそが王様であってほしい!」という願望をイエスにぶつけた。
まわりの男性たちは、「イエスさまなら、こんな贅沢品は売ってお金に変えて、貧しい人を助けるために使おう、と言えば、よしと言ってくれるだろう」と思った。
でも、実はそのどちらもがイエスの本意とはすれ違っていた。イエスが言いたかったのは、「私はもうすぐあなたたちとお別れすることになる」ということだけでした。
イエスは「私はいつも一緒にいるわけではない」と言いました(14.7)。これはイエスが私たちのもとを去るということです。そして実際、私たちはイエスが一緒にいない毎日を過ごしています。イエスという人は、もう2000年ほど前の人ですから、いま私たちと一緒にはいない。あたり前のことです。
大丈夫です。イエスさまは再び私たちと共に生きることになる。それが復活というものなのですが、今、このレントの期間は、私たちは「イエスがここにいない」という状況を噛みしめるのが良いのではないかと思います。
イエスさまはお亡くなりになります。そして、最期まで私たちはイエスさまの本当の気持ちはわからないのです。しかし、わからないままでいいのだという優しさも、今日の聖書の箇所では、私は感じます。
イエスさまは、ご自分について、あれこれ「イエスさまはこういう方だ」と定義されてしまうことを避けているように思われます。と同時に、ご自分をどのように定義されても、それを強引に否定したりもしない。ちょっと皮肉まじりなところもありますが。「そうではないんだ!」とも言わない。そういう謎めいた優しさを持っておられたのだなと思うんです。
私たちは、イエスさまについて、いろんな事を言うし、その考え方の違いで論争をしたりもします。けれども、本当にイエスさまが思っていたのはどういうことだったんだろうか。それが、本当は誰にもわかっていない。この「わかっていない」ということが「わかる」。イエスの本当の意図は明らかでないということが、イエスの去り際に明らかになっている、というのが、今日の聖書の場面だと思うのですね。
ですから、「イエスさまはこうだ!」と断言することは誰にもできません。しかし「イエスさまはこうではないだろうか?」と問い続けることはできます。そして、聖書を読み、分かち合いをするというのは、そんなイエスの思いを探る楽しみではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
……というようなお話も、私個人が考えたことに過ぎません。
皆さんご自身は、イエスが何を思い、何を考え、何を願っていたのだと思いますか?
祈りましょう。
▼祈り
全ての命の源なる神さま。
今日も、こうして愛する方々と共に集まり、あなたと共に礼拝の時を過ごすことができます恵みを、心から感謝いたします。
レントの時を過ごしています。イエスがこの世からいなくなるということを思うこの時期、イエスさまなしで、神さまなしで生きるということがどういうことかを思い知ることができますように。
そして、神さまなし、イエスさまなしで生きることの、どんなに虚しいかを思い知ることができますように。
そして、来たるべき復活の日に、あなたと共に、イエスさまと共に生きることのありがたさを覚えることができますように。そのための備えを、この体と心でなすことができるレントとさせてください。
イエスさまのお名前によって祈ります。
アーメン。
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