
あなたがたをみなしごにはしておかない
2024年9日22日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
ヨハネによる福音書14章15-19節(新約聖書・新共同訳 p.197、聖書教会共同訳 p.193)
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あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。
世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに、戻って来る。
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
▼パラクレートス
今日の聖書の箇所は、イエスが弟子たちとの最後の食事の時に、お別れのお話をしたときの言葉です。「これでみんなとはお別れだよ。でも、わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。そしてわたしが目に前からいなくなっても、わたしはあなたがたと共に生きているのだから、あなたがたはわたしを見ることができるし、また「弁護者」と別名で呼ばれる真理の霊を神さまが遣わしてくださるから、わたしたちはイエスがこの世からいなくなったからと言っても、放り出されるということではないんだよ」ということを、イエスが語っているわけです。
ここで「真理の霊」を神さまが送る、と言っていますけれども、これは私たちがよく耳にする三位一体の「聖霊」ではなくて、ここでは「弁護者」と書いてあります。
ギリシア語で「パラクレートス」という言葉で表されていて、これまた別の訳し方では「通訳」とも言われるんですけれども、そういう人間と神さまの橋渡しをする霊が、神さまから送られてくるというんですね。
これが具体的にどういう体験かというと、ここではヨハネはおそらく神さまと直接つながるような神秘的な体験のことを言っているのだろうと考えられるので、通常の意識の状態ではよくわからないんでけれども、とにかくイエスは、「自分が亡くなったあとでも、私はあなたがたを見捨てないんだ」「親が死んでしまった子どものようにみなしごにはしないんだ」「神さまが神さまとあなたがたの橋渡しをしてくれる霊を送ってくれるんだ」という言葉をかけて、私たちを励まそうとしてくれたのだということはわかります。
あるいは、私たちが神さまのことを、教会のつながりの中であれ、個人的な生活の中であれ、何らかのヒントを与えられて、自分が神さまとつながっているなと感じることができたなら、それは「パラクレートスが神さまと私たちの間に働いてくれたということなのかな」とイメージをふくらませることができるわけです。
▼あなたがたをみなしごにはしておかない
さて、ここで改めて「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14.18)という言葉に注目してみたいと思います
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。
これは、私たちの教会と深い関わりを持ち、たびたび一緒に集いを持っている徳島児童ホーム。その前身である、徳島婦人ホームの1930年(昭和5年)の創立時に最初の寮母になられて、それ以来1957年(昭和32年)に亡くなられるまで、生涯を婦人ホームに捧げられた、大西静枝先生という方の愛した聖書の言葉であったと伝えられています。
私はこのことは、3年前に日本キリスト教婦人矯風会徳島の設立100周年のときに調べる機会があって知ったのですけれども、この大西静枝さんという方は、徳島婦人ホームが設立される前からも、日本キリスト教婦人矯風会で、暴力的な夫から逃げてきた女性とその子どもをかくまったり、逃げるのを手伝ったり、追いかけてきた男性と対決したり、そういった、ちょっと女性運動という言葉で簡単に括れるようなものではないような、激しい闘いをされていました。
そして、その活動を更に進めて、子どもを引き取って寝食をともにしながら一緒に生活して、命を守り、支えるという働きを婦人ホームが担い、その中心となって粉骨砕身全身全霊を込めて、打ち込んでこられたのが大西静枝さんです。
そして、そんな大西先生を支えていた聖書の言葉が、このヨハネによる福音書14章18節だった。おそらく大西先生が読んだであろう文語体の聖書だと、「我汝らを孤児(みなしご)とはせず」となります。
この「我汝らをみなしごとはせず」という言葉をそのままに生き、ひとりの子どもも取りこぼさない。ひとりも孤児としておいたままにはしない。それを実践してきたのが大西静枝先生であり、現在ある徳島児童ホームのいくつかある精神的基礎のひとつに、この聖書の言葉も含まれていると言えます。
イエスが私たちに「あなたがたをみなしごにはしておかないよ」と言った言葉を、そのままに生きようとした人がいたことが、私たちの教会の歴史と無関係ではないということを、覚えておきたいと思います。
▼あなたを離れず、置き去りにしない
この「我汝らをみなしごとはせず」を聞いて、私が連想するもうひとつの言葉は、ヘブライ人への手紙13章5節の中にある、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」という言葉です。
この聖句は、先日8月3日(土曜日)に行われたYさんの納骨式で読まれました。これは、YさんがKさんにLINEで送った最後の聖書の言葉であったとお聞きしています。
Yさんがこの言葉、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」をKさんに送られた本意について、私はKさんに確かめてから、私が今日のこの説き明かしの原稿を作ろうかな……と最初は思ったのですが、ちょっと考えて、やっぱりあえて確かめないで、勝手な解釈をするのも面白いかなと思ったんですね。
この聖書の言葉をYさんがどういう思いで送ったのか……それを自由に連想してみたいなと思ったんです。
私が思ったのは2つの可能性でした。
ひとつは、これはYさんご自身がそうやって神さまに言われているように感じていると言っている可能性。
ここでは「神御自身『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない』と言われました」とあります。
Yさんが、「これから神さまのもとに旅立ってゆくのだけれど、その旅の途中でもずっと神さまが離れずに付き添ってくださるから、何も恐れることはないんだ、だから安心してね」という思い。
もうひとつは……こっちの方が可能性が高いのではないかと思うのですけれども、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」。つまり、「もし私が天に帰っても、決して残されたあなたをひとりぼっちにはしないよ」とKさんに伝えたかったのかな、と。
これは、先程も申し上げたようなイエスさま御自身の「あなたがたをみなしごにはしておかない」という言葉とも合い通じる思いだったのではないかと思うのですね。
「わたしは世を去るけれども、あなたはひとりではないよ。あなたをみなしごにはしない。あなたを離れず、あなたを置き去りにはしない」。
私たちより先に天に帰られた愛する人たちは、みんなそういう思いを持って、イエスさまと共に残された人を見守っているのではないかなと思います。
イエスさまが世を去るときに、心にかけてくださったのは、私たち人間がこの世でみなしごのようになって、心細くなって、生きてゆくのがつらいよと思ってしまうことだったのかもしれない。そこをイエスさまは心配したんじゃないですかね。
でも大丈夫、私はいる。あなたがたは私を見る。神さまとあなたがた、そして亡くなられた方々とあなたがたをつなぐ霊を送るから。
そういう思いがイエスさまにはあったのではないかと思います。イエスはそういう人の気持ちがわかる方だったんだろうなと思います。
▼友なき者も見捨てはしない
もうひとつ、私が、「私たちは見捨てられていない」ということを感じるのは、私も大好きな讃美歌である、21の493番「いつくしみ深い」の歌詞をたどるときですね。
特に3節に「世の友われらを捨て去るときも♫ 祈りに応えて、慰められる♫」という歌詞がありますね。
個人的な話しですが、私は昔から、この歌を歌っていて、この「世の友われらを捨て去るときも」というところに来るたびに、ぐっと胸が詰まるような気持ちになる時があります。
もともと心を開くことのできる友達が幼い頃からほとんどいませんでしたし、いじめられることが多かったので、この讃美歌の「世の友われらを捨て去るときも」の部分に、心が掻き立てられるんですね。酔っ払っているときに歌うと涙が出そうになります。
そして、「祈りに応えて、慰められる♫」と続く歌詞を聞いて、イエスってそういうふうに、孤立した孤独な人間を前にして、なんとかしてくれようとしたのかな……と思ってきました。
似た歌詞を持つ讃美歌で、「馬槽のなかに」というのもありますよね。讃美歌21の280番です。この讃美歌の2節の後半はこういう歌詞になっています。
「友なき者の友となりて こころ砕きし この人を見よ♫」。
ここにも「友なき者の友」となってくれるイエスの姿が描かれています。「友のいない孤独な人を捨ててはおかない。置き去りにもしない。そんな人のためにイエスは心を砕いていたじゃないか」と、讃美歌は訴えています。
そしてそんなイエスさまだから、亡くなったあとにも、この世を生き続ける私たちの心のなかに存在し続けて、わたしたちをみなしごにはしない。それを信じること。
あるいはそれを丸ごと信じることが難しくても、それを伝えようとした人の愛を信じることはできるのではないか。その思いは永遠なのではないでしょうか。
「イエスがここにいる」とまで告白することができなくても、イエスはそうやって、心細くなりそうな私たちを愛そうとしてくれた、その愛の気持ちは信じるに値するのではないか。
その愛を信じる気持ちを、一緒に大事にしてゆこうじゃないかというのがキリスト教なのであろうと思います。
▼人を捨てないという理想
誰ひとり見捨てない愛を信じるというのは簡単なことではないとは思います。自分が愛されているということを確信するのが難しいときはあります。また、誰もが見捨てられないような共同体を作るのが難しいと感じる時もあります。
残念ながら、経済的利益を生み出さない人や、助けてもメリットがないと思われた地域は平気で見捨てるような風潮が、社会や政治にはびこっていますから、ひとりの小さな魂を顧みるということを、忘れてしまいがちな世の中になってしまっています。
こんな状況で、私たちが「誰もが見捨てられない」「誰もがみなしごにされない」という世界を作り上げていくのは、とても困難に思えることもあります。
ひょっとしたら、こうやって誰かが見捨てられ、みなしごにされるような世の中が、もう少しましになるという希望は持てないのかなと失望しそうになることも、正直私もあります。
しかし、「あなたは見捨てられない」「あなたはみなしごではない」「あなたを置き去りにしない」という言葉を、イエスが遺言として残していった、その思いは私たちは信じられるんじゃないか。その思いは信じてもいいんじゃないか。
そして、それを信じるのなら、その思いを実現するために、私たちも互いに「私はあなたのことを見捨てない」「私たちは互いにみなしごではないよ」と声を掛け合う。
あるいはただ声を掛け合うだけでなく、そんな世界が、たとえ小さく狭い世界であったとしても実現できるように、微力を注ぐこと。それは値打ちのあることなのではないでしょうか。
イエスの残した思いを形にするならば、それは誰もがみなしごにならない人のつながりを作ること。誰もが見捨てられない場を作ること。たとえ何度失敗してもです。
そして、ひいてはそれが、誰もが置き去りにされない社会を作る行動にも、つながってゆくのではないでしょうか。
お祈りしたいと思います。
▼祈り
私たちの命の源である神さま。
今日は、聖書の中に残されたイエスさまのお別れの言葉を読みました。そして、それをめぐる連想をたどって、拙い説き明かしを行いました。
イエスさまが、お亡くなりになる前に、「あなたがたをみなしごにはしておかない」とおっしゃった、その優しさを今一度思い起こしたいと思います。
その思いを受け取って、私たちも、誰もがみなしごにされないような世界を作ってみたいです。
どうかそんなあなたやイエスさまの思いを信じる気持ちを与えてください。そしてその信じる気持ちに裏付けられた行いをなすことができるように、私たちを導いてください。
私たちは何度も失敗し、悔しい思いをするかもしれませんが、それでも、誰もがみなしごにならずにすむ世界を作ることを、諦めることのないように、私たちを力づけ、勇気づけてください。
ここにいる私たちは、皆あなたにあってみなしごではありません。この一人ひとりの胸にある思いと共に、私たち一人一人を愛してくださるイエスさまのお名前によって、この祈りをお聴きください。
アーメン。
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