友を愛することと敵を愛すること
2023年3月5日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
ヨハネによる福音書15章11-17節(新共同訳 p.199、聖書協会共同訳 pp.194-195)
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▼ヨハネによる福音書15章11-17節
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。(新共同訳)
▼イエスの遺言
レントから10日あまりが経ちました。皆さんはどんな風にお過ごしでしょうか。私は晩酌をやめるという勇気もなく、甘いものは食べないと決めたものの、レントに入った翌日にはその決め事を早速破ってしまい、今年も何も我慢しない、締りのないレントを過ごしています。けれども、この時期、イエスさまが十字架につけられて亡くなられたことを覚える40日間の間に、イエスさまが亡くなる直前にどのような言葉を残されたのだろうかと探ろうと思って聖書をめくっておりました。
そして、今日の聖書の箇所に行き当たりました。今日の聖書の箇所には「互いに愛し合いなさい」と書いてあります。「互いに愛し合いなさい」。これこそ私たちに残されたイエスさまの遺言のような言葉だと思いました。やっぱりイエスさまは私たちに愛し合うことを望んでおられたのかなあと思いました。
しかし、少し先回りして言いますと、調べているうちに、これはイエスさま自身の言葉ではない可能性が高いということがわかりました。
キリスト教は「愛の宗教」とも呼ばれますから、「互いに愛し合いなさい」はイエスの教えの核心ではないかと思いたくなるのですけれども、そうではありませんでした。
今日お読みした聖書の箇所には、たくさんの印象深い言葉がちりばめられています。よく聞いたことがあると思う方もいらっしゃると思います。クリスチャンのメンタリティを形作っているような、大事な言葉があります。
たとえば、さっきも言った「互いに愛し合いなさい」。これは2回繰り返されています。それから、「あなたがたは私の友である/わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。これも、このように2回同じような言葉が言われています。「わたしがあなたがたを選んだ/任命した」というのも繰り返しです。
その中でも、もっとも私たちの胸に迫るといいますか、ある意味、捉えようによってはショッキングなのが、この言葉です。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)。
▼友のために命を捨てられるか
この言葉は私たちの心に、重い課題を投げかけます。「友のために命を捨てること以上に大きな愛はない」。
「互いに愛し合いなさい」という言葉に続けてこの言葉が投げかけられますから、「できればあなたがたも友のために命を捨てるほど愛せたらいいのにね」と迫られているように感じる人がいてもおかしくありません。
もっとも、ここでは「愛し合いなさい」とは命令されてはいますけれども、「これほど大きな愛はない」というのは、ただそう言っているだけですから、「あなたがたも命を捨てなさい」とまで言っているわけではありません。
しかし、それでも、「私は自分の大事な人のために命を捨てることはできるだろうか?」という問いを突きつけられたような気はします。そこまでいかないと、究極的に人を愛するということはできないのか。命を捨てることができなければ、その愛は本物とは言えないのか。そんな風な問が心に浮かび上がってくる。そんなことはないでしょうか。
この言葉は、「あなたがたはわたしの友である」という言葉にもつながっていますので、これはイエスさま自身が自分の命を捨てるという覚悟の言葉なんだろうと読むこともできるんですけれども、それだけでは終わらない、重い宿題を私たちの心に残すんですね。
これは危険な言葉でもあります。例えば、ある人にこんな問いをぶつけられたことがあります。
「聖書にこう書いてあるということは、キリスト教は太平洋戦争のときの特攻隊を肯定しているのか」と言われたことがあります。太平洋戦争で負けかけていた大日本帝国が行った特攻隊。祖国を守るために、家族を守るためにと言われて命を捨てた特攻作戦については、賛否両論あります。
命を捨てた若者たちを、祖国のために命を捨てた英雄として称えるか。英霊として祀るか。あるいは、彼らは国の誤った政策や無謀な作戦のために死なされた犠牲者・被害者であるという考え方もできます。もう少し敗戦の決断が早かったら、犠牲者を減らすことができたのではないか。沖縄戦についても、原爆についてもそうです。
そのような特攻隊について、聖書はこの「自分の大切な人のために命を捨てることより大きな愛はない」という言葉で肯定するんでしょう? と訊かれたことがあります。
その時、私は「そんなことはないですよ」と答えましたけれども、「じゃあこれはどういう意味ですか?」と改めて訊かれると、うまく説明することができませんでした。「友のため」あるいは「大事な人のために死ねるか」というのは、重い問いであります。
▼「互いに愛しなさい」という加筆
しかし、この聖書の箇所について調べていくと、もっと重い問いが浮かび上がってきます。それは先程も申し上げたように、これはイエス自身が本当に言った言葉ではないらしい。実はイエスが求めているのは、もっと大きなことなのだということなのですね。
そもそもイエスは、あまり愛について多くを語っていません。少なくともマタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書の3つの同じような観点から書かれた「共観福音書」の中にはほとんど出てきません。
「神を愛しなさい」、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という言葉は有名ですけれども、これもイエスが言ったという場面もあれば、イエスと話している相手の方が言う場合もありますから、あまりイエス自身がこの言葉を強調して主張したというわけでもなさそうです。
では、なぜキリスト教は「愛の宗教」だと言われるかというと、パウロさんが書いた手紙やヨハネの手紙など、イエスよりも後の時代に書かれた手紙に「愛」についての教えがたくさん含まれているからなんですね。
特にヨハネの手紙(一)の4章7節以降では、こんな風に愛の教えが強調されています。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(1ヨハネ4.7-8)
ここでも、「互いに愛し合いましょう」という言葉がありますが、これ、今日読んだ聖書の箇所の「互いに愛し合いなさい」と似ていますよね。
他にもいろいろ理由があって、ヨハネによる福音書に「互いに愛し合いなさい」とか「愛」について書かれているのは、実はほとんどイエスよりも後の教会の人たちで、特に「互いに愛し合うことが大事だ」と考えていた人たちが書き加えた部分だということがわかっているらしいんですね。
じゃあイエス自身は「愛」について何を言っていたのかというと、これは明らかにイエスの言葉だと言われていますけれども、「敵を愛しなさい」です。
マタイによる福音書ですけれども、こんな風にイエスは言っています。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5.43-44)。
「友のために」ではなく、「敵のために」というのがイエスの教えです。「敵のために命を捨てなさい」とは言っていませんが、「迫害する者のために祈れ」と言っています。迫害というのは命を狙われるということですから、要するに「迫害する者のために祈って命を奪われなさい」と言っているのと同じです。「敵を愛しながら、場合によってはその敵のために祈りながら殺されなさい」。
これはかなり過激な勧めで、とてもじゃないけど実行できない。でも、いかにもイエスらしい。あのイエスなら言いそうな言葉です。
▼敵を愛するのか、友を愛するのか
そういうわけで、イエスは「敵を愛しなさい」と言う。それに対して、ヨハネの福音書に加筆をした人たちは「友よ、互いに愛しなさい」と言う。
「友」に対して「互いに愛し合おう」というのは、「友」ではない人は愛さなくてもいいということにつながります。これは仲間内で愛し合おうという勧めです。
イエスの言う「敵を愛しなさい」か、それとも後から加筆した人の「友よ、互いに愛し合おう」のどちらを私たちは取るのか。どちらが私たちの従うべき教えなのか……。
……私個人の考えで言えば、どっちも大事。どっちも徹底することは難しい。けれでも、どっちも大事と思います。
極端なことはできません。「友への愛のために命を捨てよ」というのも、「敵を愛しながら命を奪われよ」というのも両極端で、いずれにしろ命を捨てるほどの愛を実行するのは、大変むずかしいことです。
しかし、命を捨てるほどのことではなくても、この世の私たちの生活の現実の中で、敵にあたるような人というのは必ず現れます。その人のために愛し、祈ることは可能だかも知れません。実害を受けながらその敵を愛するのは大変難しい。けれども、たとえば少し安全圏に離れることができれば、憎しみや嫌悪感を超えて、祈ることくらいはできるかも知れない。
ただ、たとえそれだけのことをするにしても、たった独りでそれをするのは、極めてつらいことです。
イエスは、こんな言葉も残しています。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(マタイ10.16、ルカ10.3)。
私たちは教会から送り出されて、この世へと送り出されていくわけですが、それは、ともすれば狼の群れに送り込まれるような場合や状況もあり得るのではないでしょうか。
私たちは礼拝の終わりに、賛美を歌い、祝祷を受けて教会から送り出されてゆきます。
賛美では、「心に愛を豊かに満たし、日毎のわざに遣わし給え」と歌います。「日毎のわざに遣わし給え」と歌います。私たちが派遣されるのは「日毎のわざ」、つまり毎日の生活の場所ということです。月曜日から土曜日に過ごす場所のことです。
この月曜から土曜に私たちが送り出されてゆく先は、ひょっとしたら狼の群れのような場所かもしれない。
その時に、私たちを派遣してくれる教会が愛に満ちたものでなかったら、その狼の中に入ってゆく力は与えられないのではないでしょうか。
「互いに愛し合おう」と言える場がなければ、敵のために祈る心意気さえも湧いてこないのではないのではないでしょうか。
私はこのお話に「仲間内だけで愛し合っていても仕方がない」というタイトルをつけましたが、実は仲間内で愛することはとても大切なことであり、それは敵を愛することとは矛盾しない。むしろ、仲間内で愛する場がなければ、敵のために祈ることさえできないだろう。その力は湧いてこないだろうと思いますが、皆さんはいかがお考えになられますでしょうか。
……私のお話はこのあたりにいたします。あとは分かち合いで、本日の聖書の箇所を巡って、皆さんの思うことを自由に分かち合いたいと思います。
ありがとうございました。
では祈りましょう。
▼祈り
神さま。
今日も、あなたに与えられた命をこうして生きることができます恵みを感謝いたします。あなたに与えられた命を、あなたに許された時の間、精一杯生ききることができますように、どうかあなたの御心のうちに、私たちの進むべき道をお導きください。
痛み、苦しみにあえぐ仲間が何人もいます。どうかあなたがその痛み、苦しみを取り除いてくださいますように、お願いをいたします。
私たちが仲間のために祈り、友のために祈り、また敵のためにも祈ることのできる、熱い心を持つことができますように。
熱い心を持って、しっかりと喜び、しっかりと悲しみ、泣く人とともに泣き、笑う人とともに笑い、日毎に生きてゆく力を与えてください。
全てをあなたにお委ねし、イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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