教会でのお話【筋書きどおりではないところに神の筋書きがある】(有料ですが全文読めます)
創世記45章1−8節(ヨセフ、自分の正体を明かす)旧約聖書:新共同訳p.81−82、聖書協会共同訳 p.74−75
▼族長物語
旧約聖書の創世記は全部で50章ありますけれども、最初のおよそ5分の1、11章までが「現初史」と言いまして、天地創造の物語からアダムとエバと禁断の木の実の話、カインとアベルによる最初の殺人、ノアの方舟と洪水の物語、そしてバベルの塔の物語まで、この世の最初に何があったのかと語る物語集になっています。
そして、12章から50章までは「族長物語」と言いまして、ユダヤ人の先祖であるイスラエル人民族の物語で、最初の族長のアブラハム以降の部族のドラマになっています。
この族長物語は、最初の族長アブラハムから、イサク、ヤコブ、ヨセフの4代に至る族長たちを描く、大河ドラマのような壮大なスケールの物語です。
この物語は、最初の族長アブラハム(最初はアブラムという名前でしたけれども)が、おそらくメソポタミア文明のあった地域のハランという地域を出発しなさいという主の言葉を聞いたところから始まります。そしてアブラムはハランを出発し、カナン地方つまり現在のパレスティナ地方に移住するんですね。
そして、このアブラム、後にアブラハムという名前になるこの人物の子どもイサクがどのように生まれたか、イサクの子どもである長男のエサウと弟のヤコブのやり取り、弟であったヤコブが族長になり「イスラエル」と呼ばれるようになったいきさつ、そしてその次の世代であるヨセフの物語まで、面白くて読んでいて飽きるということがありません。
ぜひ創世記は最初から最後まで読んでいただきたい書物です。旧約聖書の他の部分は、なかなか読み進めるのがしんどい所も多いですけれども、創世記は読んでいてドラマとして面白いと思いますので、まだ読んでいない人は、ぜひ読んでいただければいいなと思っています。
▼ヨセフ物語
そして、この4代の族長物語の中でも、私が個人的に一番面白いなと感じるのは、4代目のヨセフの物語ですね。面白いというより感動的だと思います。
「もう読んだことあるわ」という人は既によくご存知だと思いますけれども、まだ読んだことはないという人には、あまり詳しくお話するとネタバレになってしまいますので、簡単にしか紹介しません。
3代目の族長のヤコブという人のところに12人の息子が生まれるんですね。一夫多妻なので2人の妻がいると同時に、更に2人の側女にも子どもを産ませるので、合計12人という大人数になったわけです。そしてこの12人の息子たちが、後のイスラエル12部族連合の先祖となるという設定です。
この12人のうち、下から2番めのヨセフという男の子は、特に父親のヤコブに可愛がられました。というのも、ヤコブの4人の妻のうち、一番ヤコブが愛していたのは、ラケルという女性だったので、このラケルが生んだ最初の子、ヨセフをえこひいきしていたんですね。当然、他の兄弟たち、10人いるお兄さんたちに嫌われます。
おまけにこのヨセフというのは夢の意味を解き明かす力を持っておりまして、自分の見た夢から「将来お兄さんたちもお父さんも自分に対してひれ伏すことになるだろう」と予言するんですね。
そこでこのお兄さんたちは、ヨセフを何とかしてとっちめてやろうとしまして、最初は殺そうとするんですけれども、兄弟のうちの1人が「殺すのはさすがに良くないだろう」と止めまして、結局、奴隷商人に売ってしまえということになります。
奴隷商人はヨセフをパレスティナからエジプトに連れて行きまして、そこで彼はポティファルという宮廷の役人に買われます。その後、トラブルに巻き込まれて牢屋に入れられたりするんですが、牢屋にいる間に夢を解き明かすことができるという能力が発覚しまして、ファラオ(エジプトの王様ですね)の夢を解くことになります。
そして王様の夢を解き明かして、7年間の豊作と7年間の飢饉を予言し、ファラオのナンバー2に任命されて、7年間の豊作の間に食糧の備蓄をする政策を任されます。
そして7年が経って飢饉がやってきます。エジプトの周りのいろんな国から食糧を求めて人々がたくさんやってきます。エジプトは備蓄した穀物を売って、たいへん儲かります。
▼再会
この食糧を買い求めに来た人たちの中に、パレスティナからやってきたお兄さんたちがいることをヨセフは発見します。そして、最初は自分を奴隷商人に売ったお兄さんたちに対する怒りとトラウマから、このお兄さんたちに「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない」(創世記42.9)、つまり「お前たちはスパイだ」と言いがかりをつけて復讐しようとするんですね。けれどもその一方で、お父さんや自分の弟、末っ子であるベニヤミンという男の子のことを思って、陰で泣いたりしているわけです。
そしてついに、クライマックスとして描かれているのが、今日お読みした箇所なんですね。もう一度読んでみます。創世記45章の1節からです。
「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。
ヨセフは兄弟たちに言った。
『わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。』
兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。
ヨセフは兄弟たちに言った。
『どうか、もっと近寄ってください。』
兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。
『わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(45.1-5)
このヨセフが自分の正体を兄弟たちに明かす場面は、今こうして要約だけをさっさと話しているとそうでもないんですが、ヨセフ物語を最初から読んだり、これアニメ映画になっているのもあるんですけれども、それを最初から観たりしていると、もう涙なしには観れないシーンなんですね。
何十年にも渡る恨み、心の傷があるわけで、最初はそのネガティブな感情を乗り越えてゆくことが難しいんですけれども、あれこれ色んな手を使って、お兄さんたちを試している間に、だんだんと家族としていつまでも敵意を持っているわけにはいかない、やはり和解したいという思いがつのってくる。
やがて、お兄さんたちが自分たちのやったことを心から後悔していることを知って、ついに和解への思いのほうが勝って、ヨセフはお兄さんたちを赦すんですね。この和解のドラマが泣かせます。ぜひ改めて読み直してください。
▼向こうからやってくる人生
このヨセフ物語がこれより前の3代の族長、アブラハム、イサク、ヤコブの物語とちょっと違っているのは、この非常に波乱に富んだドラマティックな展開と、あとは、このヨセフという人は、自分の運命を自分で切り開いてゆく人ではない。それよりも、自分の身に迫ってくる色々な出来事にその都度一生懸命に対処して生きているうちに、ドラマティックな物語に巻き込まれてゆくという点ですね。そのあたりが妙に私たちの人生に似てリアルな面があるように思われます。
お兄さんたちに恨まれるようになったのも、彼の意図したことではありませんし、奴隷商人に売られるのも、もちろん自分が望んだことではない逆境です。
エジプトで奴隷になって、懸命に能力を発揮するわけですけれども、まさかその主人の財産を全部管理するほど偉い役割になるとは思ってなかったでしょうし、その主人の妻に気に入られてトラブルに巻き込まれるのも、全く自分の本位ではなかった逆境です。
牢屋に入れられてしばらくの間過ごしてから、ファラオのナンバー2に引き立てられるのも、全くの偶然ですし、食糧を買いに来たお兄さんたちに再会することになったのも、運命のいたずらです。
こういった出来事のひとつひとつは、何一つヨセフが自分で何かを成し遂げようと目標を立てて実行したことではないんですね。全て出来事のほうが向こうからやってくるんであって、ヨセフは懸命にそれに対処しながら生きていたということなんだと思います。
▼思いもよらない展開
ヨセフは自分の人生が、まさかこうなるとは思っていなかったことばかりを経験しました。
私たちの人生も同じで、人生というのは何が起こるかわからない。「こうすればこうなるだろう」という筋書きや計画を、近日中のことなら私たちは立てることもできますが、多少先の未来のことは、そのような筋書きや計画どおりに行くことはまずないと言ってよいのではないでしょうか。
FacebookというSNSがありますけれども、それの機能に、何年か前の今日の自分の投稿を見せてくれるのがあるんですね。だいたいそれでよく出てくるのか、例えば7年前から9年前ほどの自分の投稿した写真とか記事です。9年ほど前の記事がよく出てくるのは、ひょっとしたら自分がFacebookを始めたのが9年ほど前だったからかもしれませんが、それはよく憶えていません。とにかく、7年前、8年前、9年前の記事がよく出てきます。
すると、ちょっと驚くんですね。9年前の自分と今の自分がいかに違っていることかとびっくりします。あまりにも違うので、9年前のことでも遠い昔のことのように思わされます。そして、9年前には現在の自分がこうなっていることなんて夢にも思わなかったなぁということも、改めて思い知らされます。
そして、そう考えると9年先の未来も、こうして9年前のことを見せられてみると、「すぐ9年先なんて来るんじゃないか」みたいな気がしていたけれども、案外長いんではないか。そして、きっと現在あれこれ考えても、きっと思いも寄らないような未来が待っているんだろう、絶対に今予想した通りにはならないんだろうということも思わざるを得ません。
▼内側にこもらず、愛をふたたび燃やす
ヨセフは、とんでもなくひどい目に遭わされます。自分の望んでいなかった、被害者としか言えないこともありますが、自業自得の面も無いわけではありません。
彼が自分の夢のことをペラペラ人に話して、兄弟たちが自分にひれ伏すようになるだろうなんてことを言わなかったら、あんなに兄弟たちに恨まれることはなかったんじゃないか。そもそも父親のヤコブに特に可愛がられて、調子に乗っていたということもあるんでしょうね。ですから、自分の招いた悲劇だったという面もあります。
けれども、そういうトラウマが残るような悲惨な出来事、そして必ずしも被害者とばかりは言い切れない、自分の過ちから出た悲劇を経験した後でも、何十年もたって、それら全てが神の導きであったと振り返ることができたことが、ヨセフの成長であったと思います。
それを可能にしたのは、ヨセフの心の中に残っていた兄弟たち、また父親、母親への愛情だったのではないでしょうか。自分の内側にこもって被害者意識に凝り固まっていては、このような心の変革は起こらなかったのではないかと思います。
そういう意味では、彼が兄弟たちと再会したのは、彼の中に残っていた、わずかに残る愛が再び燃え上がるために必要なことだったのかもしれません。たとえ恨んでいた相手でさえ、他者と出会い直すということが、自分を変えるきっかけになったのではないでしょうか。他者とのやり取りの中でこそ自分が変えられるということがあるのではないかと思います。
そして、そうやって自分が変わることによって初めて、それまでの人生が全て神の導きであったと認識することができるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
▼よく生きてきたなぁ
さて、私は実は(あるいは思いっきりバレているかも知れませんが)非常にネガティブ思考です。自分のこれまで過ごしてきた人生に後悔の念が起こることがよくあります。
しかし、ここしばらく続けていることがあります。自分の過去を悔いる時、自分に言い聞かせるんですね。それは、「こんなにひどい過去を送ってきた」と思うのではなくて、「こんなにひどい目に遭ってきたのに、よく生きてこれたなぁ」と自分を褒めてやるという方法です。一種の心のトレーニングですね。「こんなに大変だったのに、あなたよく生きてこれましたね」と褒めてやります。
これまでの人生は決して予想通りではありませんでした。その都度その都度起こってくる予想外の問題に対処しながらなんとか生きてきました。もう死にたいなと思ったことも正直あります。けれども、そんな自分を客観的に見直し、「よくこんなんで生きてこれたな。えらいわ自分」と褒めるのです。生きてこれたということ自体に、神の守りがあったのかなと信じたいと思います。
人生は絶対に予想通りには進みません。9年前の自分には想像できなかったのですから、9年先には今決して想像できない人生を歩んでいるのでしょう。5年先、3年先、1年先でも想像もつかない未来が待っているのではないかと思います。だから、あまり詳細に予測を立てたところで仕方がありません。
人生は筋書きがありません。筋書きを知っているのは、神様だけです。その都度その都度自分の人生に立ち現れてくる出来事の中に、神様が自分に何を望んでおられるのかを読み取ろうとする信仰を持ちたいです。
そして、予想もしなかった出来事が自分を襲う時、その時には神が何を望んでおられるかはわからなくても、それを意味あるものにしてゆくための愛、自分を変えてゆく力になる人とのつながりを大切にして、生きてゆきたいと思うのです。いかがでしょうか。
祈りましょう。
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