見出し画像

愛せない奴こそ愛される

2023年10月8日(日)枚方くずは教会 聖日礼拝 宣教
マタイによる福音書5章3節(新約聖書・新共同訳 p.6、聖書協会共同訳 p.6)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志のお方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。


▼マタイによる福音書5章3節

 心の貧しい人々は幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
(新共同訳・聖書協会共同訳) 

▼山上の説教

 今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書の5章から始まる「山上の説教」、古くは「山上の垂訓」と呼ばれていた箇所の最初の方にある言葉です。本当はイエス様は、あちこちの村や町で、何度も人に教えを説いたと考えられるんですけれども、マタイはそれらを、この5章から7章にまとめて、イエスの説教集のような形に編集しているんですね。それを後の人たちが、「山上の説教」と呼ぶようになりました。
 それで、実は同じようにイエスの説教集みたいなのはルカによる福音書にもあって、そっちの方は「平野の説教」とか「平地の説教」と呼ばれているんです。これはどういうことかというと、この説教集の最初に「(イエスは)山に登られた」(マタイ5.1)と書いているのがマタイの特徴なんですね。
 他にも、たとえば「100匹の羊」のたとえ話。ある人が100匹羊を飼っていて、1匹が迷い出たら、あなた探しに行きませんか? というたとえ話がありますけれども、そこでもマタイ版では「山で」羊飼いが羊を飼っていたことになっています。「99匹を山に残しておいて」(マタイ18.12)という一言があるので、「ああ、山で羊を飼っていたのか」とわかります。
 そこで、この「山」というのが教会のことで、「迷い出た羊」というのが、教会から出ていってしまった人たちにたとえている。教会生活に挫折した人でも、神様は探しに行って、その羊を見つけたら喜んでくださるだろうね、という話になっているのであろうと。だから、マタイによる福音書で「山」という言葉が出てきた時は、これは教会のことを象徴しているんだと解釈する人もいます。
 つまり、「山上の説教」というのは、イエスの語られた説教を、教会向けにアレンジしたものだよ、ということです。実際にはイエスが生前、人を教えていた頃は、キリスト教会はまだ影も形も無かったのですけれども、マタイはそれを「『いま』教会の中でイエスが語っているのだ」という考え方で5章から7章にまとめたというわけです。
 ちなみに、さきほどの「100匹の羊のたとえ話」ですけれども、マタイでは「山から迷い出た羊」、つまり教会を自分から出ていってしまった信徒のようにたとえた話になっていますけれども、ルカでは「羊飼いが見失った羊」、つまり教会をまとめるリーダーが1人のメンバーを見失ったという形になっているところが、マタイとルカの違うところです。このあたりの物の見方の違いは、これはこれで考えてみると面白いんじゃないかと思いますがいかがでしょうか。

▼貧しい者は幸い

 で、マタイによる福音書の「山上の説教」の、一番最初に書いてある教えが、今日お読みした「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」です。一番最初の教えからして、これちょっと意味がよくわかりません。
 これをまたルカと比べると、ルカの方では単純に「貧しい者は幸いである」と書いてあります。これはこれで「なんで貧しい者が幸せなの?」とわけがわからなくなりますが、しかしこれはいかにもイエスらしいといいますか、貧しい人や差別される人のそばに寄り添って、励ましたり、一緒に闘ったりするイエスなら言いそうなことではないかなという気もします。
 「貧しい者は幸いだ」。「我々は貧しいけれども、幸せだ!」と言います。イエスらしい逆説的な言葉です。
 先々週の金曜日、私は宇治市にある「ウトロ平和祈念館」というところに行ってきました。ウトロというのは、太平洋戦争が激しくなる中で、宇治に建設されていた戦闘機の飛行場建設のために集められた朝鮮人労働者が、日本が戦争に負けたときから、何の補償もされずに、劣悪な環境のまま放置されてスラムになった地域のことです。
 何の社会保障もされず、生活環境は劣悪なまま。水道もない。低地だから水害もひどい。毎日、何を食べたら良いのかと悩むほど、苦しい生活。おまけに勝手に自分たちの住んでいた土地を売られて、立ち退きを迫られる。しかし、70年以上の長い激しい闘いの末に、国際的な支援も受けて、現在はだいぶ生活の状況は改善されています。
 しかし、おととしの夏には、在日朝鮮人に対する差別意識を持つ人による放火事件も起こりました。差別による犯罪。「ヘイトクライム」です。
 そんなしんどい、苦しい生活を経験してきた、在日の人たちの歴史のほんの一部を、ウトロ平和祈念館で学んできたわけですが、私の心に一番強く突き刺さったのは、ある高齢の方が「あの頃のウトロは良かった」と言っていることでした。
 「もうあんな苦しい生活は二度としたくない」と言う人が多いだろうと思っていたら、そうではない。「あの頃は、みんなで集まって、みんなで助け合って、一緒に生きていた。思い返してみれば、あの時が一番良かった」と言う方がいらっしゃるんですね。
 そのような証言があるのを見つけた時に、私はイエスの「貧しい者は幸いなり」という言葉を思い出しました。貧しさの極限にある時に、「我々は独りで生きているのではないのだ。我々は幸せなのだ。」とイエスは叫んでいたのだろうなと思います。

▼霊において貧しい者

 これに対して、マタイ版の方では、「心の貧しい者は幸いである」。「心の」という言葉が加わっています。話が、貧困という社会的事実から、人間の内面の問題に移ります。ルカの方がイエスのオリジナルの言葉に近いだろうという説がありますが、マタイにもマタイの意図があるでしょうし、どちらがより大事で、もう片方には値打がないということは言えないと思います。
 「心の貧しい人」というのは、日本語の感覚から言えば、あまりよくない響きがあります。
 「心の豊かな人」というと、なんだか人格的に立派な、心にゆとりがあり、人に優しくできるような人柄であるような印象がありますので、逆に「心の貧しい人」というと、人格的にあまり優れていない、あまり立派ではない人というニュアンスが、日本語の場合は漂ってしまいます。
 この「心の貧しい」と日本語で書いてあるのは、聖書のもとの言葉を直訳すると「霊において貧しい」となります。余計にわかりづらくなったような気がしますね。「霊において貧しい」「霊が貧しい」とはどういうことでしょうか。
 聖書の中には「霊」という言葉が何度も出てきます。「霊」は「風」という意味も「息」という意味もあります。今の私たちの感覚から言うと、「風」は空気の流れにすぎませんけれども、古代の人たちの感覚では、「風」の流れの中に、霊の流れを感じるという感性があったんですね。「風」がびゅうっと吹いてくると、その中に何らかの命の流れを感じる。そういう感性です。
 それに、人間の鼻には常に「息」という「風」が出入りしていて、この「風」が止まると人は死ぬ。つまり、「息」は「命の風」でもあったわけです。

▼貧困なる精神

 聖書の中にはいろんな「霊」が出てきます。まず「聖なる霊」。日本語の聖書では「聖霊」という1つの単語で表されますけれども、神から来ているような霊。神がかった霊という感じですね。
 他にも聖書には「汚れた霊」や「悪霊」というのも出てきます。汚れていたり悪い霊なので、これが鼻や口から入ったら、人は病気になります。体調が悪くなったり、熱が出たり、心の病になったり、てんかんを起こしたりすると考えられました。また、人間に悪い考えを起こさせるのも、この「悪い霊」の仕業です。イエスはこのような「汚れた霊」や「悪い霊」と何度も戦っていますよね。
 今あげた「聖なる霊」「汚れた霊」「悪い霊」というのは、自分とは別の存在としての霊です。
 これらに対して、人には自分自身の霊もあると考えられます。自分の鼻を出たり入ったりしているのは、自分の霊です。この霊の動きが止まってしまうと人は死んでしまいますから、これは命の動きそのものです。
 そして、話が戻しますと、「霊において貧しい」というのは、この「霊」が貧しい状態だということです。
 ここの箇所の伝統的な解釈では、「へりくだった心を持つ者」というような読み方もされているようですけれども、へりくだるとか、謙虚であるとか、そういうお行儀の良い状態よりも、もっと貧しい、低められている者のような心。いつも何かが足りない、何かが欠けている、飢えているような精神の貧しさを表しているのではないかなと、私は思います。
 つまり、日本語で言う「心の貧しさ」とそんなに変わらない、「貧困なる精神」と言っても良いような人間のことをさすと考えてもいいのではないかなと、私は個人的には思っています。
 「霊において貧しい」。つまり、人間として大事な心の力に満たされていない。人間として大切な何かが欠けている人間だということです。けれどもマタイは、このように「人間として何か大切なものが欠けているような人間」こそが幸いだと言うんですね。

▼貧しい人こそ与えられなければ

 「人間として何か大切な何かが欠けている」と聞くと、皆さんはどんな人間のことを思い浮かべますか?
 気が利かない。人を大切にできない。人のことよりも自分のことばかり考えていて、自分の方を優先してしまう。人と自分を比較して、自分が勝っているのか負けているのかにばかり執着している。与えるよりは受け取るばかり……「ああ、それは俺のことやぁ」と私などは思ってしまいますね。
  要するに愛と命の力に満たされているとは言えない、むしろハッと気づいてみたら、愛されることばかりを望んでしまっている、愛に飢えた人間だということです。
 でも皆さんも、ご自分の胸に手を当てて考えてみて、自分は霊的に満たされた人間だと思いますか。人間として大切な、人に対する愛情や良心や生命力が全身に満ちあふれた人間でしょうか。
 そうだと自分で言える人はそれで結構なことだと思います。そういう人には、もう何も言うことはありません。
 ただ、マタイは「そういう霊的に、つまり生命力や愛情に満ちていない人、人を愛せない奴こそが幸せなのだ」と言うのです。どういうことでしょうか……。
 それはおそらく、そういう人ほど愛の栄養が必要なのだから、愛を与えられるべきなのだ、ということなのではないかと思います。
 「多く赦された者が多く愛する」という言葉も聖書にはあります。自分の霊の貧しさ、愛のなさを悔い改める人こそが、神様に多く赦されて、愛の栄養が与えられるべきなのだ。
 お腹が空いている人にはしっかり食べさせないといけないように、愛の欠けた人こそ多く愛されなくてはいけない。神さまは霊的に貧しい人こそを愛してくださる。そんな神さまを信じなさい。
 それが今日の聖書の言葉のメッセージではないかと思うのです。
 人を愛せない奴ほど、愛されるべきである。愛せない奴こそ私は愛するのだという、マタイが伝えるイエスさまも、信じてみてもいいのではないでしょうか。
 祈ります。

▼祈り

 私たちに命を与えてくださった神さま。今日も与えられた命を生きることができます恵みを感謝いたします。
 また、私たちの心の中に愛を求める心を与えてくださって、ありがとうございます。
 しかし、私たちは、ともすれば、求めるばかりで与えることを忘れてしまうことがあります。
 そのような私たちを赦してください。そして、願わくは、私たちも人を愛せるように、あなたのお力をもって私たちを押し出してください。
 愛の足りない人にこそ、あなたが愛を注いでくださいますことを信じ、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
 アーメン。


ここから先は

0字

¥ 100

よろしければサポートをお願いいたします。