生まれてくれてありがとう
2023年12月24日(日)徳島北教会 クリスマス礼拝 説き明かし
ルカによる福音書1章26-38節(新約聖書・新共同訳 p.100、聖書協会共同訳 p.99)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志のお方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。
▼ルカによる福音書1章26-38節
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去っていった。
▼クリスマス、おめでとう
皆さん、クリスマス、おめでとうございます。
今年も振り返るといろんなことがありました。嬉しいこともありましたが、悲しいこと、寂しいことが多かったような気もしています。
個人的には、教会の仲間、そしてその家族の方々とお別れを告げることが多く、そのたびに私たちは深い悼みを覚えました。
また、少し外の世界に目を転じれば、今まさにガザではイスラエル軍の集団殺戮によって、ユダヤ人虐殺と同じくらいひどい、ユダヤ人による虐殺。これは間違いなく歴史の汚点となるでしょう。私たちがこうして安らかなクリスマスの時を迎えている今もこの時にも、多くの人の命が奪われ続けているというのが現実です。
人ひとりの命が失われるだけでも、こんなにも心が揺れ動くのに、次から次へと命が奪われる状況の中で、人はまともな心で生きることができるでしょうか。
こんなひどいことが、イエスの生まれ育ったイスラエルの地で行われていることを受けて、イエスなら何を言い、何をしたでしょうか。
それを想像すると、私はこの日本で、ニコニコと「クリスマスおめでとう!」と言っている場合なのだろうかと悩んだりもするのです。
けれども、色々考えたのですが、今ガザで殺され、傷つけられている人たち、子どもらが、だからといって、他の国に住んでいる人たちも、暗く悲しい、沈んだクリスマスを過ごしてほしいと思っているかというと、そういうことではないと思うんです。
同じことが、やはり個人的に親しい人のことでも言えると思います。
私たちのもとを去った方々が、そのことで、皆んなもずっと暗い沈んだ気持ちでいてほしい、クリスマスをお祝いしないでほしい、そんなことを望んでいるか。
そんなことはないんじゃないかと思うのですね。
私たちは、特別に贅沢で派手なクリスマスをはしゃいで迎えようとしているのではありません。今ある目の前の小さな幸せの種を大事にしながら、新しい年に向けて、その種を大事に育ててゆくような、ささやかにお祝いするクリスマスでありたい。
そして、その小さな、一見弱々しく見えるかもしれない幸せの種が、少しでも広がって、いま争いの中にあって痛み苦しんでいる人のためにも、何か力になることができないかと探る、その手探りの始まりになるクリスマスになればと思っています。
▼ページェントの神話
今日お読みした聖書の箇所は、よく知られたマリアの受胎告知の場面です。これは新しい命が生まれますよということを告げ知らされるという物語です。いま多くの人の命が奪われる世の中でこそ、読まれるべき聖書の箇所と言えるのではないかと思います。
この物語の中で、マリアは天使ガブリエルによって、「あなたのお腹の中にはもう子どもがいるのですよ」とイエスの誕生が告げ知らされます。
キリスト教主義の幼稚園や保育園などでは、この場面はページェントのクライマックスのひとつで、私も自分の娘が幼稚園にいた頃、私の20年以上前の記憶が間違ってなければと思って娘たちに確認してみたんですが、次女が天使ガブリエルの役をやったみたいです。ゆっくりと舞いながら、マリアに近づいてゆくその姿が、かわいらしくてかわいらしくて、目に涙が浮かびました。「神さま、この娘を与えてくれてありがとう」と思いました。
ちなみにですね、親が涙うるうるになって見つめている一方で、娘本人は「なんで羽根があるのに、こんなに腕をバタバタさせんとあかんのやろ?」と思っていたそうです。さめてますね。
まあとにかく、本人がどう思っていたかはともかく、親としては、天使を演じた子どもたちが、本物の天使のように見えたんですね。感動しました。
▼非神話化
ところが、牧師になろうと思って聖書学を学ぶようになってから、この美しい物語には問題がいろいろとあることにも気付かされることになりました。
世界が6日で造られたというのも、ノアの洪水の話も、イエスが処女から生まれたというのも、全て歴史的・客観的な事実ではなく、何千年も昔からイスラエルに伝わる伝説や神話、あるいは福音書記者の創作した物語であるということがわかってきました。
こういう話を聞くと、非常に驚き、傷つくタイプのクリスチャンの人がいます。あるいは、そういうことを言うのは冒瀆だと怒り出す人もいます。「聖書に書かれていることは、全て事実なのだ。そうでないとおかしい。何を信じていいのかわからなくなる。事実だと言わない奴は神を冒瀆している。そんなことを言い出す牧師は、牧師をやめたほうがいい……」。私はTwitterでそこまで言われたこともあります。
聖書に書いてあることは事実でないと気が済まない。それを否定されると怒り狂ってしまう人は一定数います。
でも、これは私がアドヴェントの1日目の礼拝で言いましたように(といっても、もう忘れになった方も多いかもしれませんが)「ナラティブ」、私たちに大切なことを伝えてくれる「物語」なんですね。
では、何をこの「物語」は私たちに語りかけようとしているんでしょうか。
▼とんでもない大役
マリアという女性。今から2000年ほど前、日本では弥生時代と言われていた頃の女の人ですけれども、その時代は女子は14~15歳くらいで結婚するのが当たり前だったようです。ですから、既にマリアには婚約者がいて、結婚が控えていたということは、彼女は13~14歳くらいだったということになるでしょうね。
今だったら児童虐待と言われても仕方がないような年齢ですけれども、そもそも貧しい庶民の寿命がせいぜい30歳前後という時代でしたから、15歳くらいで子どもを産んで、子どもを15歳くらいまで育てて、そして世代交代するということで、それが当時、当たり前とされていました。
そんなマリアのところに、ガブリエルという神の使いが現れます。そして、まだ結婚していないマリアのお腹の中に既に赤ん坊がいるのだと告げます。
「どうしてそのようなことがありえましょうか!」とマリアは驚きます。当たり前ですよね。男の人を知らないのに、妊娠するわけがありません。
しかしガブリエルは、マリアが産む子はヤコブの家を治めるだろうと。ヤコブの家というのは、つまりイスラエルですから、マリアが産む子どもはイスラエルの王になるというんですね。
ルカという福音書記者が「王様」という言葉を出す時、それはローマ帝国の王様、つまりローマ皇帝と反対側に位置する者という意味になります。ローマの皇帝は、軍隊によって力による平和を押しつけようとしますけれども、イスラエルの王は(……といっても今のイスラエルとは別物ですけれども)、本当の意味での、軍隊の力によらない平和の王なんだ、あるいは平和であるはずなんだ、ということなんですね。
とにかく、マリアはローマ皇帝と真っ向から対抗するような新しい平和の王を産むことになるんだ、とガブリエルは言う。マリアは突然とんでもない大役を神から押し付けられることになったわけです。
マリアという少女はナザレという貧しい、しかも「ナザレから何かいいものがでるか」と差別されていた村です。そんな村の平凡な少女が、とんでもないことをやる人間として選ばれてしまうわけです。
平々凡々な人間、どちらかと言えばパッとしない人間が、ある日突然とんでもないことをやらされることになる。ここにも意外と聖書が語るところに、人生の真実があるのではないでしょうか。そういう風に人生が思いもよらない方向に動き出してしまうということはないでしょうか……。
▼四面楚歌のマリア
さて、マリアが驚き、慄いたのは、自分が与えられた大きな役割よりも、とにかく自分はまだ結婚もしてないし、男の人と枕を共にしたこともないのに、妊娠しているという、そのこと自体にだったのかもしれません。
これは、マリアにとってはかなり大きな危機的状況なんですね。
まず、婚約者のヨセフに対して言い訳ができません。「この子は聖霊によって身籠った神さまの子なのよ」と言っても、「おまえは何を言っているのだ」と、信じてもらえる可能性はまず無いと思われます。
それに、当時のユダヤ人の掟、律法では、姦淫の罪は石打ちによる処刑と決まっていますから、ヨセフが見捨てれば、間違いなくマリアもお腹の子も殺されます。
じゃあこの子をどうするか。
予期しない妊娠に対して、古代の堕胎の方法がどういうものだったかは、私は詳しくありませんが、聞いたことのある限りでは、お腹を棍棒で殴ったり、毒を飲んだりといったことをしていたようです。
むしろ知られているのは、望んでいなかった妊娠の場合、あるいは男の子が欲しかったのに女の子が生まれてきたとかいった場合など、堕胎よりも、生まれたばかりの子どもを、その場で家の裏からゴミとして捨てるなり、土に埋めてしまうということの方がよく行われていたようです。
ということは、つまり堕胎ということはしないわけですから、大きくなってゆくお腹を隠すことはできない。つまり、マリアは婚約者以外の男性と交わった、姦淫の罪を犯した女として、殺されるしかないということになります。
そういうことになる、ということぐらいは、マリアの頭にさっと浮かんだと思います。
「これはヤバい」。ヤバすぎる。
▼そうだ、私は産んでやる
けれども、マリアは「でも、産もう」と決心します。
なぜ彼女が「産もう」と決心したのか。わかりません。
ひょっとしたら、ガブリエルが言うような「平和の王」を産むということに、大いなる役割を果たす意義を感じたのかもしれませんが、むしろマリアは、その赤ん坊が誰であっても、赤ん坊の命は尊い、と思ったんではないかなと、私は想像します。自分のお腹の中にいる赤ん坊を、死なせたり棄てたりはしたくなかったんじゃないでしょうか。
そして、それは、大人にとって都合の悪い子どもは遠慮なく殺してもいいという、当時では当たり前だった風潮に対する抵抗でもあります。
気に入らない赤ん坊が生まれたら、棄ててしまってもどうってことない。そういう世の中に対してマリアは、自分が迫害されることが予想されるにもかかわらず、反旗を翻したわけです。
もちろんこのことは、「マリアは予期しない妊娠でも産んだのだ」「だから予期しない妊娠でも産まなければならないのだ」という風に絶対化してはならないと思います。
原理主義的なクリスチャンは、「どんな妊娠でも出産しないといけない」と言います。そのために、人工妊娠中絶を行う産婦人科の医院に行こうとする人を必死で妨害したり、ひどい場合は人工妊娠中絶を行う産婦人科の医院を爆破したりします。命を守ろうとするためには、人を殺しても構わないと思っている。命を守りたいのか、奪いたいのか。何を考えているのかよくわからない。それくらい、人工妊娠中絶の禁止を、信仰というよりはイデオロギーみたいに唱えている人たちはいます。
そんな、「とにかく産みなさい」というイデオロギーに対抗して、「私は産まない」という選択をする人がいてもいい。
そして、同じように「棄ててしまえ、殺してしまえ」という風潮に対しては、「私は産むのだ」という選択をする人がいてもいいのです。
▼迫害されたからこそ
マリアは大きくなってゆくお腹を抱えて、間違いなくナザレの村で後ろ指をさされて、罵られたことでしょう。
唯一の助けは、婚約者のヨセフが、どういうわけか心変わりして、マリアを妻として迎え入れることにしたということです。
ヨセフに言わせれば、「俺のところにも夢の中で天使がやってきたんだよ」と言う(マタイによる福音書)。本当でしょうか? でも、とにかくヨセフは、自分の血を分けた子どもでもない赤ん坊を受け入れようと決心してくれたのです。
ヨセフは、「血縁が大事だ」という古くからの教え、しきたりに対抗しようと決めたんですね。「自分の血を引いた子でなくてもいいじゃないか、その子の命を守ろう」と決めたんです。
これは今風に言えば、ステップファミリーです。血のつながった子でないと可愛いがることができないという血縁至上主義に、ヨセフは抗おうとしたんですね。
こういう夫婦のもとにイエスは生まれました。こういう夫婦のもとだからこそ、イエスはこの世に生まれることができました。
しかし、だからと言って、イエスがいじめられなかったというわけではありません。マリアが結婚前からお腹が大きくなったことはバレていた可能性が高いでしょうから、ヨセフがマリアとイエスを守ろうとしても、イエスの本当の父親はわからないという噂はナザレの村に広まり、イエスは小さい時からいじめ倒されていたでしょう。
でも、だからこそイエスは、いじめられる人の気持ちが誰よりもわかる人になったのではないでしょうか。
そして、母親が「姦淫によって、不倫によって妊娠したんだ」と噂されるような人だったから、ヨハネによる福音書にあるように、姦淫の現場で捕まってしまった女の人に優しく接したのではないでしょうか。
また、望まれない子どもは殺されても当たり前だという世の中で、それでも自分を産んでくれたのだという思いがあるから、自分のところに来る子どもを抱きかかえて、「神の国は子どものような人のところだ」と言ったのではないでしょうか。
▼産んでくれてありがとう
イエスはいじめられる人、虐げられる人、罵られる人の味方になってくれた人でした。恵まれない境遇の人に徹底的に寄り添ってくれた人でした。
そして、今も私たちは、私たちに寄り添い、私たちを守るために闘ってくれるイエスさまを思い浮かべることで、癒されることができます。
そんな人をこの世に産んでくれたのはマリアです。すべてはマリアがイエスを産もうと決心したことによって始まったことなんですね。
だから、私はマリアに言いたい。
「産んでくれて、ありがとう」。
そして、イエスに言いたい。
「生まれてきてくれて、ありがとう」。
そして、イエスと同じように、この世に生まれてくる全ての子どもに、「生まれてきてくれて、ありがとう」と言いたいと思います。
そして皆さんにも言いたいです。「今日も生きていてくれて、ありがとうございます」。
どんな命も奪われてはなりません。
祈りましょう。
▼祈り
私たちひとりひとりの命を産んでくださり、この世で生かしてくださっている神さま。
今日のこのクリスマス礼拝を持たせてくださったことを心から感謝いたします。
御子イエス・キリストをこの世に生まれさせてくださって、ありがとうございます。
おかげさまで、私たちはどんなつらい時も、どんなに寂しい時も、イエスさまに寄り添ってもらえますし、同じようにイエスさまの寄り添いによって生かされている仲間と一緒に、支え合って生きてゆくことができます。
本当にありがたいことです。
御子イエス・キリストのお誕生をお祝い申し上げます。
どうかこれからも私たちと共にいてください。
ここから始まる新しい1年も、どうかあなたが導いて下さい。お願いいたします。
今年も新しく誕生されるイエスさまのお名前によって祈ります。
アーメン。
ここから先は
¥ 100
よろしければサポートをお願いいたします。