創世記と人類の終わり
創世記の冒頭にある、人間は自然を「支配せよ」というのは間違いで、正しい訳は「管理せよ」あるいは「治めよ」だと言われる。自然を自分たちのエゴで収奪するのではなく、適切に管理せよというわけだ。
しかし現実には、その間違った解釈の方がまかり通ってしまい、人間は自分たちの好きなように自然環境を荒らし回り、利用し尽くしてきた。今更、創世記の正しい解釈がどうのと言って、取り返しがつくのだろうか。
しかも、創世記が自然との共存を唱えているというのも、かなり眉唾である。
そもそもアダムが神からの罰として農作業を命じられている。ということは農耕が人間生活のデフォルトだと言っているわけだ。しかし、採集生活から農耕生活に移ること自体が、都市文明を築いたり、農地を確保するために、自然環境を破壊することにつながったのではないだろうか。
また、ノアの方舟の物語のエンディングでは、神は人間に、植物だけではなく全ての動物も食べてよいとお墨付きを与えている。このことが牧畜によって人間以外の動物を、ただ食べるためだけに繁殖させ、命を選別し、身動きできないようなケージに閉じ込め、若いうちに殺し、肉を取ることを正当化する思考を与えてはこなかっただろうか。
農耕や牧畜は人間を繁殖させたが、その繁殖のおかげで地球の環境は悪化し、今や人間自身の生存さえも脅かすほどの地点まで来てしまった。それを正当化する論理をヨーロッパ・アメリカのキリスト教文明に与えてしまったのは、創世記における農耕社会を正当化する神話だったのではないだろうか。
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