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弱い人が集まれるところ〜サードプレイスとしての教会

2024年5日12日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
 コリントの信徒への手紙(二)12章7−10節(新約聖書・新共同訳 p.339-340、聖書協会共同訳 p.333)
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 最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。


▼コリントの信徒への手紙(二)12章7b-10節(弱いときにこそ強い)


 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。
 それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげは与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
 だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
(新共同訳)

▼新年度の提案

 今日の説き明かしは、この礼拝の後に行われる定期教会総会が行われるということ、この総会で諮られる2024年度の教会指針(教会の進むべき方向を一言で表す標語)と、その根拠となる聖書の箇所に基づいたお話になります。つまり、毎年のことですが、この教会総会の日に行う説き明かしが、教会指針(年間の標語と聖句)の提案理由のようなお話になります。
 今年度、私が教会指針として提案しようと思っているのは、「弱い人が集まれるところ」という言葉です。そして、本日の説き明かしのタイトルは、「弱い人が集まれるところ〜サードプレイスとしての教会」とさせていただきました。弱い人が集まれるサードプレイスに、この教会がなっていければいいのにな、という願いを込めてのことです。 

▼生き方が下手な人の集まる場所

 いまの日本の多くの人は、「生産性」というものの呪いにかけられてしまっているのではないかと思っています。
 経済的な豊かさこそが成功のしるしのように取り沙汰されます。そして、速さ、緻密さ、正確さ、有能さ、強さ、見た目の美しさ、若さなどなどといったものが尊いという価値観に支配されているように、私には思えます。
 一言で言えば「生産性」。それも資本主義社会で、経済的な利益(誰の利益かは怪しいところがあると思いますが)そのような富を生み出すための人材を育成するということが、至上目的になっているような尺度です。
 私が普段働いている学校教育の現場でも、文科省がそういう「生産性第一主義」のようものを求めてきている、その一方で、それに合わない子どものことも配慮しろという、一見矛盾することを求められる。どう工夫したらそれを実現できるのか、ということに日夜悩みながら働いているという状況です。
 本来のキリスト教会の良いところは、そのような、速さ、緻密さ、正確さ、有能さ、器用さ、強さ、見た目の美しさ、若さ、生き方上手といった価値観には合わない人。
 のろさ、曖昧さ、いいかげんさ、間違いだらけ、不器用さ、弱さ、見た目の醜さ、幼さや老い……そういったものを抱えた、生き方が下手な人間が、安心して集える場所。いわゆる「生産性」の低い人、教会がそういう場所であってほしいと思うのです。

▼「とげ」

 今日の聖書の箇所はパウロの手紙の一部分ですが、パウロも決して上手に生きられる人ではなかったようです。
 確かに、彼はもともとは非常に優秀な律法学者で、ガマリエルという高名な学者についてユダヤ教徒の指導者の1人として、キリスト教の迫害を率いていたんですね。
 ところが、今日読んだ手紙の文面を読んでみると、彼には「一つのとげ」が与えられているという。それは「サタンからの使い」だという。
 この「とげ」が何かについてははっきりとしたことはわかっていません。大方の人が「これは何かの障がいか病気だろう」ということを言っています。しかし、たとえそれが障がいや病気であったとしても、それが身体の障がいなのか、怪我なのか、それとも精神障がい、心の病の一種なのか、わかりません。
 パウロは十字架につけられた状態の血まみれのイエスを見たと言っていますし、今日読んだ箇所のちょっと前にも、「第三の天にまで引き上げられた」体験について語っているところがあるので、何らかの幻覚を見るタイプの、今で言えば精神障がいのようなものを患っており、それによって神のお告げを受け取ると感じることもあれば、その幻覚・妄想などによって苦しめられることも、ひょっとしたらあったのかもしれません。
 彼は自分に与えられた「とげ」あるいは「サタンの使い」が具体的に何であるかを、手紙の中で書いていません。自分の痛み、苦しみを口外するほどの心境にはなっていなかったのかも知れません。はっきり言うのははばかられるような内容だったのかも知れません。
 ただ、パウロにとって「これは『とげ』なんだ。『サタンの使い』なんだ」と思うような、何らかの苦しみがあったことだけが事実です。

▼弱いときにこそ強い

 その「サタンの使い」は、彼がキリスト者になってから与えられたようです。というのは、「多くの啓示を受けて、思い上がらないように」と与えられた「とげ」だと、彼が言っているからです。彼が抱えている「とげ=サタンの使い」は神からの啓示、示されたことに対して、その代償として与えられたのだ、とパウロは考えているようです。
 これは「サタンの使い」だと、まるで人格があるように彼は書いていますから、やはり、何かが取り憑いたような苦しみを味わっていたのかも知れません。そして、彼はそのために、弱ってしまっています。
 そして彼は、この「サタンの使い」を離れ去らせてくださいと祈りますが、その願いは聞き入れられません。彼は弱いまま、生きづらいまま生きなさいということなんですね。
 そして、主なる神は言います。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(2コリント12.9)。
 この主なる神の言葉を受けて、パウロは「キリストの力が私に宿るように、私は喜んで自分の弱さを誇ろう。弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいる。私は弱い時にこそ強いのだ」(12.9-10)という告白に導かれます。
 キリスト自身が、痛めつけられて亡くなられて、誰よりも苦しんだ。そのキリストご自身が、苦しんでいる私のそばにいて、一緒に苦しんでくれる。それがキリストの力だ。だから、私は独りではない。私が弱っている時にこそ、キリストの力が現れるのだ……そういうことではないのかな、と私は想像します。

▼「杖」と「鞭」

 徳島北教会の人は、詩編23編が好きですね。皆さんが説き明かしをされる時、多くの方が交読詩編に23編を選ばれますよね。
 この23編は、私たちがどんなに弱く、頼りない時でも、神さまがそばに立って、一緒に歩んでくださるということを、私たちに教えてくれます。
 私たちは誰しも皆んなもろい一面を持っていますよね。しかし、神さまはそんな私たちひとりひとりを見捨てない。私たちの歩みはのろく、足元はおぼつかないけれども、神さまは私たちの杖となって私たちを支えてくださると。
 ただ、詩編23編の4節の終わりを見ると、「あなたの鞭と杖が私を慰める」(詩編23.4)と書いてあります(聖書協会共同訳。新共同訳では「力づける」)。
 「杖」だけではなく「鞭」があるんですね。つまり、私たちが倒れそうになるたびに支えてくださる「杖」であると同時に、私たちが歩みを止めそうになる時に、「それでも歩み続けなさい」と前に押し進める「鞭」でもあるわけです。
 神さまとの出会いはそういう、ちょっと厳しいように思えるけれども、変化を促す。今とは違う景色が見えるところまで、とりあえず進んでみなさいと勧めるものでもあるわけです。

▼サードプレイスとしての教会

 教会というのは、そのように私たちを、倒れそうになるときには支え、しかし倒れない代わりに歩き続けなさいとも勧める、そういう神さまの愛が現れる場所ではないかなと思います。
 先ほど言いましたような、のろさ、曖昧さ、いいかげんさ、間違いだらけ、不器用さ、弱さ、見た目の醜さ、幼さや老い。そういったものを抱えているおかげで、私たちはパウロのように、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりといったものを味わうかも知れない。特に生産性至上主義のこの世の中では歓迎されない存在かも知れない。そのために、生きにくさ、生きづらさを味わうかもしれない。
 けれども、そういう人こそが集まれる場所が教会であってほしいと思うのです。
 誰からも裁かれない。誰からも否定されない。愛される人間にならなくてはダメだと恐れる必要もない。無条件に神さまに愛されることで、安心して自分らしい自分になれる。そんな場所であってほしい。
 学校や職場といった場所では、生産性の呪いに苦しむかもしれない。家庭という場所では、また別の意味で、愛情のすれ違いや利害関係などの重荷を負わなくてはいけないこともあるでしょう。
 しかし、そのようなファーストプレイス、セカンドプレイスの次にある、サードプレイス(第3の場所)。職場でもなく、家庭でもなく、利害関係なく話せる友がいて、なんとなくゆるい繋がりの中で居場所がある。そんな場所に教会がなればいいのにな。そして、同じように弱さを抱えている人を迎え続けていけるような場所になればいいのにな、と思うのですけれどもいかがでしょうか。
 ただ、その弱い人が集まれるサードプレイスは、単なるたまり場であるだけでなく、自分が新しくされる可能性も含めた場所でもあります。
 ただ生きづらさの傷を舐め合ったり、この世を恨んだり、裁いたり、開き直ったりする場所になってしまうのは違うような気がします。
 神さまは私たちの「杖」であるだけでなく、「鞭」でもあります。
 私たちは、歩み続けて、今とは違う景色の見えるところまで、自分を進めてゆきます。その力を与えてくれるのも、神さまの力であり、私たちの祈りのちからなのではないでしょうか。
 そして、そうやって救われた者として、改めてこの世を愛してゆくという方向性を目指せないものでしょうか。その方向性に向かって歩みを進めて行きたいという思いを込めて、今年度の教会指針を「弱い人が集まれるサードプレイスになる」ということにすることを提案したいと思います。
 お祈りいたしましょう。

▼祈り

 愛する神さま。今日もこうして敬愛する方々と共に礼拝の時を持てます恵みを感謝いたします。
 今日もあなたに与えられた命を生きることができるのは、ありがたいことです。
 しかし、私たちは決して毎日、いつも喜んで、楽しく、活力に満ちて生きることができているわけではありません。
 この世で私たちは、弱さを感じざるを得ない時があります。
 神さま、そんな私たちをどうか迎え入れてください。そして、私たちを支える「杖」となってください。
 そしてまた、私たちと同じように、必ずしも生きやすいと思ってはいない人も、この世には少なからずおられるでしょう。
 私たちの教会は、この世にあなたから派遣された集まりです。この世の只中に、私たちはあなたに押し出されてもいます。
 そんな私たちの教会が、この世で疲れている人、弱っている人を優しく迎えられるような場所であれますように。そして、共にあなたの愛の中で生きる仲間となれますように。
 どうか私たちが歩みを止めることなく進めるように、「鞭」となって私たちを押し続けてください。歩みを続けながら、いつも心を新たにすることができるよう、お力をお与えください。
 ここにおられるひとりひとりの思いにある祈りと共に、イエス・キリストのお名前によってお聞きください。
 アーメン。


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