『キリスト教と戦争 「愛と平和」を説きつつ戦う論理』石川明人、中公新書、2016
キリスト教は「愛と平和」を説く。イエスは「敵を愛しなさい」と教え、「7の70倍赦しなさい」とも教える。「右の頬を打たれたら、左をも差し出せ」という言葉を知る人も多いだろう。
だから単純に考えれば、キリスト教徒は絶対平和主義、非戦論をとり、いついかなる場合にも武器を取らず、戦わないということになる。
しかし、実際にはキリスト教徒はその2000年近い歴史の中で、常に戦争をしてきたし、むしろその戦争を支える論理を提供してきたとも言える。
確かに、本書の冒頭で引き合いに出されるように、アーミッシュの人びとのように、たとえ自分たちを銃殺する者に対しても、迅速に赦し、むしろ犯人の家族と共に痛みを分かち合う、更には援助までするというキリスト者もいる。
しかし、これに対する批判も多く、多くのキリスト者は完全非暴力の道をとらず、正当防衛という形での暴力を容認している。
本書は、そのようなキリスト教と戦争との関わりを、必ずしも歴史的に時系列的にたどっているものではない。
そうではなく、視点は主に現代の戦争とキリスト教徒の関わりに向いており、今日的な平和維持の課題に対峙するなかで、キリスト教がどのように戦争をする者たちの論理を支えているのか、あるいは異議申し立てをしているのかを、ある意味非常に冷めた目で見つめるものである。
本書は、まずアーミッシュの完全非暴力主義の問題点から始め、次に従軍チャプレンの戦争に対する意識、カトリック教会の公式見解における戦争やテロリズムの捉え方、プロテスタントの戦争や暴力への積極的な関わりの事例を紹介してゆく。
また、キリスト教の出発点に立ち戻って、聖書における戦争の描写、初期キリスト教が必ずしも戦争や軍務を否定はしていなかったこと、アンブロシウス、アウグスティヌス、トマス・アクィナスらにおける正戦論、十字軍において明らかになる信仰と軍事の親和性、そして現代アメリカにおいても大統領を代表とするキリスト教体制が、軍事と密接に結びついている現実などを通して、キリスト教信仰が、実は軍事と非常に相性が良いことを指摘する。
さらに本書は、日本におけるキリスト者が、どのように軍事と関わってきたかについても触れている。そして、平和主義者として知られる内村鑑三や、ほか宣教師たちや日本の宣教者たちの軍人への宣教の様子、また現在の自衛隊におけるキリスト者の活動に言及し、日本においても、完全な非戦主義は無いことを確認する。
そして、もちろん日本基督教団の戦争協力についても、決して無視はできない。想像を絶する圧力のもととはいえ、日本基督教団が大いに戦争協力をしたことは否定できない。
そして終章では、キリスト教が「愛と平和」を希求するが故に戦争を行ってしまう心理的メカニズムについて、著者は言及する。
人間が戦争を行う際、宗教が原因とは言い切れないが、戦争を始め、続けるには決して経済的利害だけではなく、むしろ「ハイリスク・ノーリターン」とも言うべき損害を負うてでも戦争をやめられない背景には、宗教の作用があることは間違いなく、キリスト教もその点では例外ではない。
そして、「愛と平和」を求めることが、戦争を激化させてしまうという面もあるのである。
とは言え、キリスト者は「愛と平和」を看板として、建前として掲げることはやめない。そして真の「愛と平和」の実現のために、終わらない努力を続ける。その際の基準となるのは、イエスの「命令」である。
イエスの愛の「命令」は、決して人間の本性に根ざすものではなく、無理を承知で要求する「命令」でしかありえない。その「命令」に人間が従うことで、不完全ではあってもキリスト者は不断の努力を続ける他はない……。
本書において、著者自身キリスト者であることを明らかにしているが、本書は決してキリスト教の立場を護教的に自己弁護するものではない。むしろ、キリスト教の主張が時に綺麗事で偽善的であることを直視している。また、そうでなければ、非キリスト者の読者に対して、納得のゆく内容にはなり得ないだろう。
著者は、冒頭まえがきの時点で、「キリスト教は、それ自体が「救い」であるというよりも、「救い」を必要とするのに救われない人間の哀れな現実を、これでもかと見せつける世俗文化である。キリスト教があらためて気付かせてくれるのは、人間には人間の魂は救えないし、人間には人間の矛盾を解決できない、という冷厳な現実に他ならない」と言い切っている。これは筆者にとって衝撃であった。
しかし、このような批判的視点でなければ、キリスト教というものの実像に迫ることができないだろう。そして、このような自己批判は、それはキリスト者自身にとっても、この世と関わり続けるのならば、今後避けることのできない道であろう。
とは言え、著者はイエスの言葉の中に、一縷の希望を残している。それは人間にとって、かなり無理のある「命令」ではある。人間には不可能かもしれない。しかし、その不可能性を直視することしか、戦争と「愛と平和」を考えることしかできない。そのわざに取り組むことにしか希望はない、と読者は教えられるだろう。
本書で著者は、イエス及び福音書については、戦争を肯定しているとは言えないと、しきりに「庇って」いる。
キリスト教に関する他の局面においては、徹底的に批判的な著者が、イエスに関しては批判的な目を向けようとしないところは、やや疑問と物足りなさを感じる。イエス批判にまで踏み込んでいれば、より興味深いものになったのではないかと思う。
ただし、それでは最終的に本書において、愛とは何かという思索を導く基準がなくなってしまう。なんだかんだ言って、この本における「愛と平和」の基準はイエスの言葉なのである。
著者は、戦争をやめられない人間に絶望しながら、イエスの言葉が要求するところに立ち返り、無理かもしれないが、それでも考え続けるところに、希望があると呼びかけているのかもしれない。
本書は、人間に対する一方的な絶望の論ではない。そのように筆者は思う。